にわかお城ファンの旅行記

にわか城好きの歴史探訪記

周りに影響されて城巡りを始めました。百名城スタンプ目当てだったのに気がついたら沼にハマっていました。

深草館 (山梨県北杜市) -危なっかしい橋の向こうの土塁に囲まれた館跡

この趣味を始めて、指定史跡の区分を意識するようになりました。
指定されていないより市町村、都道府県、国指定史跡は見応えがあることが多いから。

今回訪れた深草は県指定史跡
国とまでは行かなくても、県のお墨付きがあるのは違う、はずでした。

そもそもどうやって入るのコレ
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お城:深草館 山梨県北杜市
HP:公式のものはありません
訪問日:2022年2月

概要

逸見清光築城とされる谷戸城の居館、または逸見清光の嫡男光長の居館ともされます。
その後、清光の家臣、堀内下総守の居館となり、主税助の頃に落城しました。

北、東、南に堀を持ち、西には川が流れる立地に、土塁に囲まれた郭が残ります。

訪問記

深草

谷戸城から南へ車で5分ほど。
せっかく谷戸城に来たんだからと居館跡とも伝わる深草館へ。

下調べでも把握してはいましたが、入る難易度が高いことを現地で改めて認識
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行けばどこかから入れるだろうと思っていましたが、ぐるっと回ってもまず田んぼの向こうに辿り着けない。田んぼの奧には堀まで見えています。
先人たちの苦労を無視してはいけませんね。。

ぐるっと回って南西に案内板はありましたが、やはり田んぼの向こう
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あの木々のところに行きたい。。

ようやく道路を見つけて田んぼを越えても、まだ堀の向こう
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堀として働くのは、西を流れる西衣川。結構深い

結局先人たちの報告通り北西の不安を掻き立てる橋しか見つけられませんでした。
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木自体はたわみもせずしっかりしていて、怖いのは細さだけ。
ですが、落ちたらシャレにならない高さです。くれぐれもお気をつけて。

渡った先もなかなか急斜面ですが、階段が整備されていました。整備して下さっている方にご迷惑おかけしないように見学しないと。

あと渡った先には何かの動物の糞も落ちていました。深く考えない。深く考えない。

城内は土塁に囲まれた2つの郭からなります。こちらは北郭
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遠くに見える土塁まで続く、結構な広さの郭です。

写真にうつる南郭とを区切る土塁の中央の虎口と、入ってきた北西に開いた外への虎口を持ちます。
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こちらが北西の虎口をアップで撮ったもの。

土塁は今でもはっきりと分かる高さ。
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ここは特に高い所ではあすが、全体に今もはっきりと分かる土塁に囲まれていて、その奥の堀を思うと、かなりの防御性を持った居館跡です。

土塁の外はこんな感じ。
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比較的低かった北側の土塁上から。
北側だけは空堀ですが、それでも上り下りできる気がしません。

奧へ進みましょう。

中央部の虎口を越えて南郭
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南郭から北郭側を振り返って1枚。

こちらは日当たりの影響か真冬でも緑が残ります。
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緑で見通しが効きませんが、かつてはさらに2つの郭に分ける土塁もあったそう。
緑の奧がなんか高いような、気のせいのような。

見える範囲では北郭より土塁が低め。
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元々そうだったなら北郭の方が重視されていたということかな。その割に外への虎口は北にありますが。

と、考えを巡らせたところで深草館の見学は完了。
城内はシンプルなものですが、土塁と堀で外界から隔絶された状態が今も残り少しだけ違った空気を感じる空間でした。

金生遺跡

深草館に向かう途中、近くの遺跡にも惹かれてきました。金生遺跡。

こちらは国指定史跡。国だけあってアクセスも容易です(違
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金生遺跡は縄文時代のA区と戦国時代のB区からなります。

B区の方は近くの深草館跡の外郭部とみられていますが、整備されているのはA区の方。B区は田んぼになっています。
城好きとしてはB区も整備してほしいところですが、ひとまずA区を見学です。
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内部は石列と復元整備された建物が並ぶ公園と言った様子
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縄文時代の知識は皆無で現地では分かりませんでしたが、左の石が並ぶ部分が配石遺構を復元したもの。
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変わった遺構は、祭祀に用いられたと考えられています。

他にも住居跡が平面、立体共に復元されています。
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いわゆる縄文住居よりしっかりしている印象ですが、よくある縄文時代の住居の跡が見つからなかったから、だそう。

かなり暗くてちょっと怖かったですが、中も見られました。
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中まできちっと復元されているとは。太っ腹です。

ただ、深草館だけでなくここも誰も居ませんでした。
狭いとはいえこれだけの復元遺構を無料で見られるのに、もったいない気もしました。

感想

満足度 2/5

遺構はよく残っていて堀や土塁から当時の様子が想像できる気がします。

谷戸城の外郭と違ってこちらはよく守られているような。
そういうところからも谷戸城の居館という気がしますが、その割にはちょっと距離がある気もして、住んでいた方はそこまで位高くなかったのかな。でもかなり防御性高いしな、と素人ながらいろんなことを考えてしまいました。

案内や石碑があったら、と思いますが、その前に入りやすくなったらいいな。

アクセス

深草

  • アクセス
    電車・バス:JR中央線 長坂駅または小淵沢駅から北杜市民バス 下井出下車 徒歩20分
    車:中央道 長坂ICから約5分
      駐車場なし
  • 城跡
    散策自由
  • 所要時間
    ~0.25時間
  • 付近のスポット
    関連も伝わる谷戸城はセットでまわりたいところ。

    tmtmz.hatenablog.com

    百名城関連だと新府城が一番近くにあります。

    tmtmz.hatenablog.comちと遠いですが、武田氏つながりで。

    tmtmz.hatenablog.com

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    #城


谷戸城 (山梨県北杜市) -土塁内側の空堀の意図は?

要害山城に引き続き訪問したのは、北杜市にある谷戸

古い時代に築かれた城ですが、ここも良い残り具合。
整備も行き届いていて、気になる遺構をじっくり見ることができました。

ちなみにタイトルの疑問は結局疑問のまま。誰か教えてください。

お城:谷戸城 山梨県北杜市
HP:谷戸城址(やとじょうし) | ほくとナビ
訪問日:2022年2月

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概要

平安時代末期に甲斐源氏3代当主、逸見清光が築城したと伝わります。
清光の子、武田信義は武田氏の初代当主です。

その後、武田氏の信濃侵攻や天正壬午の乱での北条氏の陣に使われたとも伝わります。

西衣川、東衣川に挟まれた小山に築かれ、同心円に郭が並ぶ縄張を持っています。

訪問記

駐車場~北側斜面

八ヶ岳の麓、北杜市谷戸城へ

ここ、結構地元が力を入れて整備していて、広い無料駐車場とトイレ
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北杜市考古資料館も整備されています。
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あいにく休館日でしたが。。。

八ヶ岳も臨む風光明媚な土地柄で、確かに観光名所になりそうな。コアすぎるような。
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それでは、入り口にいきなり立派な城址碑をもつ城跡へ向かいましょう。
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完全に公園の見た目で不安がよぎりますが、その不安は杞憂でした。
読まれている方の不安もおいおい解消されていくと思います。

最初に看板をお借りして全体像を確認。
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一の郭を中心に、外側に二、三の郭と土塁に囲まれた3つの郭。
外に四、五の郭、さらに遠くに居館スペースである六の郭が置かれています。
土塁や堀もたくさん描かれていて期待が高まる縄張図です。

散策コースは、北側から外郭を回って五の郭。
その後、中心を通って南、西側を見る一筆書きで進みましょう。

という訳で、最初は北側の横堀
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結構広く深い堀が早速お見え。
北側が谷戸城で唯一尾根続きで、そこを切る意図で掘られたもの。

というようなことが、解説板に書かれています。このあたりの整備も万全でした。
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解説全くなし、という城も多い中でこれはありがたい。

堀を越えてまずは北側斜面をまわります。
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大して登っていないのに、ふと気がつくとそれなりの標高差。
うまく地形を利用して築城されていますね。

低くなっているものの短い土塁と
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埋まって通路のようですが、長い北空堀が2本。
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もう1本は浅すぎて分かりませんでした。
左手は北帯曲輪かと思いますが、この辺の遺構は看板も無くて正直分かりにくい。。

そのまま東側斜面に辿り着いて
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竪堀?越しに東衣川を眺めたところで改めて正面へ。
今のところ遺構は玄人向けで公園散策気分ですが、中心部はきっと違うはず。

四の郭、五の郭

ということで、四の郭方面へ
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帯曲輪?とか
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堀跡??とか
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相変わらず首を傾げながら

ようやく四の郭へ到着。ここからだいぶ分かりやすくなってきます。
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四の郭は外周をひざ丈ほどの低い土塁に囲まれています。
防御性は全くないと思われ、ただの目印のようですが、意図が気になるところ。

広さはかなりあるんですが、自分ならもうちょっと守ってほしいかな。。。
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中心部とも性質が異なり、造成中に放棄されたか臨時の郭と考えられているとのこと。

内側に進むと、低い土塁からなる喰い違い虎口
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奥の二、三の郭外周の土塁と比べても喰い違い虎口の土塁が低いことが分かります。
この高さは当時からこうだったのかな。相変わらず防御性を感じない土塁で。

土塁の間は喰い違い虎口に引き続き帯曲輪が広がり、二、三の郭の外周を囲みます。

虎口西側は浅くなっているものの空堀
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内側の二、三の郭を重視していたことが窺い知れるようにも思えます。

東方面も空堀を置いたうえで帯曲輪となっていました。
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今の空堀は、、、少しだけ深くなっているところもありましたが、分からない。。

通り抜けると五の郭方面へ。
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写真奥が、東に突き出た五の郭。
左手の低い土塁は先ほども見た四の郭のもの。ずっと続いていました。
本当に何のためのものでしょうか。

改めて五の郭。こちらは土塁や堀の全くない無い平場
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立地からすると物見に使えそうな気はしますが、清々しいほどの守りのなさ。
東側も断崖とはいえ、なかなか割り切った構造です。

三の郭〜一の郭

ここから折り返して城の中心部へ。東側からつながる二の郭への虎口を通ります。
この虎口は縄張図に書かれていなかったので、もしかすると邪道な入城かも。。
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内部は二の郭
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一の郭周囲を三の郭と囲む二の郭には、複数の建物があったことが分かっています。

そして、なんといっても特徴的なのが、土塁の内側に設けられた堀
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土塁外に掘るなら分かりますが、内側じゃ守りにくいだけでは?
と思う構造にも、もちろん理由はあるのでしょう。博物館開いている日に来るべきだった。。。

堀底に下りる階段も付けてありました。
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堀はそれなりに深く、その分土塁も思った以上に高いのです。
そして、引っ付き虫だらけでズボンがえらいことに。。

北側、四の郭側の虎口
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こちらは縄張図にも描かれた当時からのもの。やはり喰い違い虎口になっています。

虎口の西側は土塁に登れるようになっていました。
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土塁を崩して平場とした形跡があり、当時から物見だったと考えられています。
木が無ければ麓も良く見えるでしょう。

そのまま西側に回り込んで三の郭
二の郭との境はなく、一体となって一の郭を囲んでいます。
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変わらず土塁内側に堀。こちらは二の郭より狭く、土塁も低め。

土塁の低さは下段の西帯郭との高低差が大きいからと考えられています。
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なかなかな急崖です。

ぐるっと東に戻って、一の郭虎口へ。

ここは谷戸城には珍しく喰い違わない虎口。
門があったと想定されていますが、確実な痕跡は見つかっていないそう。

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今は土塁が整備されていますが、木のあたり雑さを感じなくもないような

一の郭
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土塁に囲まれた一の郭は谷戸城の最高部、中心に置かれています。
柱穴が検出されていますが、建物ではなく柵が置かれたと思われています。

土塁は東側が高く
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西側は低めです。こちらは一の郭西側の虎口。
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ここもやはり喰い違い虎口。当時の流行りか好みか。嗜好が垣間見えて面白い。

この虎口はさらに外側の三の郭との間に階段も置いて防御性を高めています。
その割に土塁が低いですが、これも高低差ゆえかな。

南帯郭~搦手~西帯郭

一の郭の後、南へ抜けて残りを見ていきます。
ここにも虎口が置かれ、やはり土塁内側に空堀を持つ喰い違い虎口
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空堀に降りる階段が設けてありますが、当時から虎口付近ほど空堀が浅く、出入りを想定した造りだったそう。
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虎口を抜けると細い南帯郭。南面も斜面でとても上り下りできる風ではありません。
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という訳で、素直に西に回って搦手虎口
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ここは、空堀が複数掘られていますが、それ以外は自然の斜面が残っているような。

城外まで続き、当時から空堀に隠れて移動する通路でもあったと考えられています。
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こんな感じで登っていたのかな
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かつての城兵になった気分でもう一度登って、西側からスタート地点へ。
途中にあるのが、西帯郭
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今は細い郭ですが、当時は土塁もあり、2段に分かれていたりと違っていました。

最後は道路を挟んで向こう居館ゾーンだった六の郭を上から。
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今は畑ですが、大きな土塁が残るのが見える、かな。
結構立派に残っているものです。

というようなことを考えていたら、一周。余すところなく回って満足です。

感想

満足度 3.5/5

城めぐり素人でも分かる変わった遺構と、素人にはわからない設計思想が気になる名城でした。
土塁内側の空堀や、低い土塁、外縁部と中心部との設計の差などとても気になる点が多く、やっぱり資料館の開いている日に来たかったなぁと。

子供連れもいらっしゃっていましたが、とくに中心部はよく整備されていて古い土の城でも興味を持たれやすい状態でしょう。草原遊び感覚だったかもしれませんが。

アクセス

谷戸

  • アクセス
    電車・バス:JR中央線 長坂駅または小淵沢駅から北杜市民バス JA大泉支店前下車 徒歩5分
    車:中央道 長坂ICから約10分
      無料駐車場あり(約35台)
  • 城跡
    散策自由
  • 所要時間
    ~1.5時間
  • 付近のスポット
    百名城関連だと新府城が一番近くにあります。

    tmtmz.hatenablog.comちと遠いですが、武田氏つながりで。

    tmtmz.hatenablog.com谷戸城は桜の名所でもあるそうです。桜つながりで。

    tmtmz.hatenablog.com

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続百名城 要害山城 (128・山梨県甲府市) 2/2 -武田信玄出生の地を二か所回る

引き続き、要害山城を巡ります。
主郭から東側の搦手にあたる方面、そのあと戻って麓の積翠寺へ。

遺構の多かった前半に引き続き、今回も良好な遺構がたくさん見られます。
本当に頑張って登った甲斐ありました。

あと、ようやく武田信玄出生の地の碑を見られました。2カ所で。
信玄は二人いたのか笑

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訪問記

主郭

主郭に辿り着いたところで区切りとしましたので、改めて主郭を一望。
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大手の通路に数多あった曲輪たちと比べてもずっと広い曲輪。
また、ピークにあるため、背景もよく開けていて間違いなく主郭と言った趣です。

主郭周囲は土塁に囲まれていて、西側の門の周囲は今も十分な高さを保っています。
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こんな高さの土塁に今も囲まれる主郭。さすがの防御性です。

主郭内部を散策しましょう。
ここまで来たらちゃんと見たい信玄公誕生の地の石碑
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ちょいと周囲は荒れていますけど笑

こちらは南側でよく見えた富士山
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当時の主郭の様子は分かりませんが、山並みと富士山の眺めは変わらないはず。
一服の気晴らしになる景色だったんじゃないかな

庭園跡と思しき石も転がっています
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が、先ほどの富士山とは反対の北側。富士山をありがたがるのは現代人だけなのか…
まぁ土塁の上に柵か塀でもあって見えなかったでしょうしね。

東側尾根

主郭の東側へ
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高い土塁が残る主郭東側。右奥に見えるのが東側の門跡です。
こちらにもわずかながら石積みも残っていて、ぬかりない。

抜けて少し搦手にあたる方面を散策しましょう。こちらも遺構が良く残るのです。

いきなり現れるのが空堀土橋
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西側には目立った堀切が無く、ここまでしっかりした堀切は要害山城では初めて

空堀を覗くとこんなところにも石積み
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今までの石垣より少し加工が凝っているような。
時代考証できるほどの知識はありませんが。

翻って空堀越しの主郭
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今わたしは土塁上から狙われている笑
まぁここまで軍勢が来ていたらダメなんでしょうけど。

土橋の先もすぐに虎口となります。
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東側は西側と違って尾根の狭いスペースにありますが、窮屈な中にもきっちりと加工されています。いやはやすごい。

振り返って一枚
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登って門を越えてもまだあの守りがあるのにその陰すら見えません。
搦手側は尾根が続きますが、しっかりと高低差も付けて、上手く作られています。

先ほどの枡形からの下りを降りた先。この辺りも切岸加工されているんじゃないかな
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どんどん主郭から離れた方向へ。今度は竪堀土橋
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この先も含めて、東側は土橋と竪堀が中心です。

登りにあった竪堀は薄れたものもありましたが、ここは今もはっきり。良い。
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遠くから見るとなおはっきり
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さらに東へ。細い道と
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ちょっとした曲輪、竪堀が続いて
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また門
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門が多いのは要害山城の全域で共通です。設計者の性格が出ているのかな。

また竪堀と土橋
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小さな曲輪を越えて
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竪堀と…
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周りの景色は違いますが、同じような防御設備を繰り返し置くところも要害山城の東西共通の特徴と言えそうです。
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このまましばらく進むと史跡境界の標が見えて、ひとまず要害山城の散策は終わり。

ですが、もう少しだけ続きます。

下りでは躑躅が崎館も良く見えました。
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信虎正室の大井の方が避難した際も、同じように眺めて心配していたり、しないかな。

積翠寺

最後はもう一つの信玄出生の地、要害山麓積翠寺
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歴史を感じるお堂にはしっかりと武田菱
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由緒がよく分かる意匠です。

さらによく分かるのが、結構年季を感じる不動堂にある信玄公の像。
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サビサビの案内板の向こうに確かにいらっしゃいました。

正面の境内は由緒あるお寺の雰囲気ですが、隅の看板に従って
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お堂の脇を進むと裏庭の奥に
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信玄公産湯の井戸があります。
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ここから要害山に産湯を運んだ、訳ではなく、戦乱を避けて寺に留まったとあります。
先ほど山頂でも出生地の石碑を見たところで若干混乱しますが、よくある諸説あり、ですよね。はっきりさせるのも野暮というもの。

間違いなくこのあたりで信玄公は生を受けたのだろうと感じたところで、次のお城へ。

感想

満足度 4/5

山中に枡形虎口、石垣のオンパレード。
何度も繰り返す門や土橋の高い防御性も、さすがは武田氏本拠地の詰城でした。

よく遺構が残った山中の雰囲気は、当時がよく想像できました。
城内からは躑躅ヶ崎館も見えますし。

30分の登山の苦労からスタンプだけ甲府駅前で押す案も頭をよぎりますが、クマ鈴買ってでも行かないともったいない名城です。

アクセス

要害山城

  • アクセス
    電車・バス:JR中央線 甲府駅からバス 積翠寺下車 徒歩15分で登山口へ
    車:中央道 一宮御坂ICから約35分
          または双葉SICから約25分で登山口へ
    無料駐車場あり
  • スタンプ・開館時間 場所は離れています
    甲府市藤村記念館
    開館時間:9:00~17:00
     休館日:月曜日(祝日の場合翌日)、年末年始
     入城料:無料
    休館日は施設外ポストにスタンプあり
     アクセス:
     電車・バス:中央線 JR甲府駅から徒歩すぐ
     車:中央道 甲府昭和IC または双葉SICより約15分
       周辺にはコインパーキングが多数あります。
  • 城跡
    散策自由
  • 所要時間
    スタンプ込みで自家用車移動で約2時間
    城跡散策のみで1時間45分
  • 付近のスポット
    百名城関連だと武田氏居館跡はもちろん近くです。

    tmtmz.hatenablog.com

    勝頼時代に移転した先の新府城もそれなりに近くにあります。

    tmtmz.hatenablog.com

    時代は違いますが、距離だけを考えれば甲府城も近くです。

    tmtmz.hatenablog.com

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続百名城 要害山城 (128・山梨県甲府市) 1/2 -武田信玄出生の地・主郭へ

武田家本拠の躑躅ヶ崎館、の詰城、要害山城

続百名城には本格的な山城も選ばれており、ここもそのひとつ
それなりに山を登ることになりました。

とはいえ、遺構を考えると登らないのはもったいない。
スタンプは駅前ですが、もう一声行きたいところです。

お城:要害山城(128)山梨県甲府市
HP:甲府市/要害山(ようがいさん)
訪問日:2022年2月
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概要

1519年、武田信虎甲府躑躅が崎館訪問記)に居館を移しました。
翌年、詰城として築いたのが要害山城です。

1521年、今川氏軍勢の甲斐侵攻を受けて、正室が要害山城に避難。城内で信玄を出産したとされます。

武田氏の滅亡後、徳川氏、後に豊臣氏の所領となり、修築、再整備されました。
関ケ原の戦い後、甲府城訪問記)が築かれると廃城となりました。

訪問記

スタンプ@甲府駅前 藤村記念館

要害山城は躑躅が崎館(武田氏館跡)の詰城。もちろん近傍の要害山山中にあります。
が、スタンプは全く違う甲府駅前の藤村記念館に。

登山後は訪問する元気がなくなりそうなので、事前にゲットしておきました。
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綺麗な近代建築の博物館は明治期の旧睦沢学校校舎を再利用したもの。

この日は休館日でしたが入口にスタンプを押した紙は置いてあります。
春日山城と同じ方式ですね。紙をスタンプ帳に貼り忘れて危うく無くしかけたのはここだけの秘密。
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モデルは要害山ふもとの積翠寺と主郭の信玄公誕生の碑。おいおい回っていきます。

甲府駅前で武田信虎
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甲府城山手御門稲荷櫓をチラ見したら
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登山口へ。

山手御門の記事はこちら

tmtmz.hatenablog.com

登山口~諏訪の水

登山口の駐車場へは車で15分の距離。
甲府駅からバスもありますが、1日3本と僅少です。。

こちらが登山口の駐車場。
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看板もありませんが、Googleマップを信じてお借りしました。

登山を覚悟してちゃんとした靴とクマ鈴を初めてセットしたら登山口へ。
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入口の縄張図をお借りして全体像を確認。
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尾根伝いに東西に真っすぐ広がる連郭式の縄張りを持ちます。
図にも描かれる曲輪跡と堀、枡形、門跡などが見どころです。

熊城も遺構が良いらしく心惹かれますが、訪問難度が高そうで今回はスルー。
いずれ行けるようになるかな。

ちなみに、この縄張図は途中の見所が描かれず、縄張図素人には少し読解が辛い仕様。
甲府市HPのもう少しだけ詳しい縄張図も見ながら散策しました。
甲府市/要害山(ようがいさん)
本当に少しだけですが笑

準備を整えたら登山開始。
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急勾配でもなくよく整備されて程よいハイキングくらい。
早速の石積みはさすがに後世のものかな、とか

ちょいちょいある平場は曲輪じゃないよな、とか考えながら
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登ること5分で史跡境界の印
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ここから国史跡の指定区域。見落としなく進みたいところ。

道端に石積みがでてきました。f:id:tmtmz:20220202195553j:image
足元もよく、気になるものもあって長さを感じず登れます。

と思っていましたが、さらに歩くこと約10分。
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変わらない景色にそろそろ不安を覚えてきました笑

というところで、ようやく最初の看板。竪堀です。
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ただ、肉眼でもよく分かりませんでした。この時は冬だったんですけどねぇ。

すぐ先、正面にこちらは明確な土塁竪堀
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のこのこ登ってきたら真正面から攻撃を受けることになるのでしょう。
竪堀含めてここから山裾へは回り込ませまいという作り。

道も素直に折れ曲がって進みます。つづら折れを歩くことさらに5分。

門跡が見えてきました。
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要害山城はたくさんの門跡が出てきますが、いずれもかなりしっかりしています。
本拠地の詰城だけあって守りが本当に厳重です。

この門跡は山中の尾根に明確な枡形虎口
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まるで平城かと見紛うまばりの枡形。山上にさぞ立派な門があったことでしょう。

越えると道端に小曲輪がたくさん現れ始めます。
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代表的なものを一つ。どう使われていたんでしょうか。

少し奥にも曲輪。こちらは広く、不動曲輪と呼ばれています。
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突き当たりですし、小曲輪たちとは使われ方が違ったんでしょう。

不動曲輪の由来は江戸時代後期に置かれた武田不動尊と考えられています。
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現役当時はどう呼ばれていたのかな。

脇には古そうなカルピスソーダも。
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こういうものもなんだか惹かれてしまうのです。

諏訪の水~主郭西側の門

ここまでは一本道でしたが、この先ルートが分岐します。

まずは脇道から。
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こちらも小曲輪をわき目に進むと

井戸を持つ曲輪に到着。
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祠を持つ雰囲気のある井戸は諏訪の水。枯れたことが無いのだとか。
かつても同様に拝みながら水を汲んでいたのかもしれませんね。

メインルートに戻ると、すぐにまた門跡 

この門は先ほどにもましてしっかりしています。
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やはり綺麗な枡形虎口。さらに両側に石垣。一層防御性を上げています。

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左手の古い石垣はよく残っています。

裏から見ると土塁の高さもはっきり。
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山中で石垣も使ってここまで高くするとは。絶対越えさせない強い意志を感じます。

枡形虎口を超えるとまた曲輪f:id:tmtmz:20220202194641j:image
ここから主郭方面の曲輪はこれまでと比べて大規模で毛色が違います。
だから門も厳重だったのかな。

上の写真では正面上部に次の曲輪が見えますが、ルートは横
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ここまでクランクも枡形も駆使して来た道は、そりゃ真っ直ぐは行かないですよね

次の
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ここは枡形ではありませんが、高い土塁で厳重に守られています。

越えて次の曲輪
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用途は分かりませんが、こちらもなかなか広い

まっすぐ進んで次の門
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先ほどと似ていますが違う門ですよ

からの広い曲輪
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そしてまっすぐ進んでまた門
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ここまでグネグネ来ていたのに、突然ルートは直線に。
同じような門と曲輪が繰り返す不思議な配置に意図も感じますが、なんでしょうかね。

越えると、今度は曲がって雰囲気の異なる門にでます。
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石垣も残り、土塁もひときわ高く、またここから雰囲気が変わりそうな予感。
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内部では今も威圧感を感じます。

となると抜けた先はそろそろ主郭?

と思いましたが、さほど広くもなく。
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さすがの規模感。焦らしますね笑

また門を抜けて
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また小さめの曲輪を抜けて
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石垣の残る高い門に到着。
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背景から察されるように、こちらがようやく山頂。
主郭西側大手にあたる門です。

ここまでのんびり登って1時間。
草むらからガサガサ登場したリスに本気でビビりつつも(笑)良い運動になりました。

ここからまた次回。主郭と搦手方面、さらに麓の積翠寺を散策します。

躑躅が崎館(武田氏館)の訪問記はこちらから

tmtmz.hatenablog.com

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長浜城 (静岡県沼津市) -櫓から臨むは三枚橋城か富士山か 北条水軍の本拠地へ

伊豆半島の付け根、駿河湾沿いにある長浜城へ。

長浜城で調べると滋賀の長浜城がよくヒットしますが、こちらも負けないくらい面白いんじゃないかな。
よく整備されて、小さい中に北条家の築城意図が詰まっている気がしました。

滋賀の長浜城はまだ行ったこと無いんですけどね。

お城:長浜城 静岡県沼津市
HP:長浜城跡(ながはまじょうあと)/沼津市
訪問日:2022年1月

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概要

15世紀後半ごろに築城されたと推定されます。

1579年、武田信玄今の沼津市三枚橋城を築いたことを受けて北条氏は国境を守る城を築城。海からの上陸ルートを抑えるべく長浜城を整備しました。
翌年から両家の間で海戦が起こっています。

豊臣秀吉の小田原攻めにおいても長浜城に守備隊が置かれました。
詳細は不明ですが、韮山城山中城の落城を受けて廃城となったと考えられています。

昭和期の調査の結果、1988年に国史跡指定を受け、2015年に史跡公園としてオープンしました。

訪問記

第四曲輪~櫓~第一曲輪

車で伊豆半島の根元にある長浜城へ。
有名な伊豆三津シーパラダイスから数分、至近距離と少し驚きの立地にあります。

駐車場は城の麓、みとしー側にあります。

見た目は漁港の駐車場で入り口には立ち入り禁止の柵。
これにも驚いて通り過ぎてしまいました笑

よく見ると看板が出ていて柵は間が開いていました。普通に入ればよかったとは。

すったもんだの訪問に最初から達成感も一入です笑

散策開始前に駐車場脇の立派な説明板を見ていきます。
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予備知識なしでも問題なしの整備具合。さすがは最近整備された史跡公園です。

立体的な縄張図もありました。
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高さは強調されているそうですが、高低の位置関係が分かりやすい。

長浜城は、尾根に沿って並ぶ四つの曲輪、それぞれ陸側に土塁を持ちます。
さらに第一曲輪から岬先端へ並ぶ四つの曲輪麓の田久留和と数多の曲輪を持ちます。

これでも一部略されていて、実際にはさらに多くの曲輪が並びます。
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こちらは第四曲輪にあった縄張図。小さな曲輪まで描かれています。

模型にない曲輪は見られていませんが、最高部の第一、第二曲輪が復元整備もされていて、主な見どころでしょう。

予備知識を入れたら城へ。
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山の上に向けて、ひたすら階段を上ります。

付近は今でも港として使われています。
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分かりやすい港のおさえの立地です。
この手前が駐車場なんですが、漁業関係者用にしか思えないですよね。。

登りきると第四曲輪と第三曲輪を切る堀に到着。
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左手階段を上って第四曲輪へ。
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これでほぼ全景。小さな曲輪には土塁が残ります。

かつてはより高く広い土塁だったそうで、狭さの割に土塁が大きいことが特徴でした。
第一曲輪につながる尾根端に位置する防御最前線の守りを示すのでしょうか。

向かいの第三曲輪方面へ。
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この先、数字が若い曲輪に近づくほど高い立地になっていきます。

第三曲輪への通路は、第二、第三曲輪間の堀切を通る虎口。
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正面は第二曲輪の土塁、右手上は第三曲輪の土塁。

進んだところに3つの柱穴が確認されています。
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左二つ第二、第三曲輪をつなぐ跳ね橋の、手前二つ門の柱穴で、跳ね橋→門の順に改築され、どの時代も重要な入り口であったと考えられています。
土塁の高さも含めて重要さを物語っている気がします。

まずは右手の第三曲輪
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祠が立ち、周辺の高まりが土塁に見えますが、これは祠建造時に削られた残り。

高まりの上がかつての地盤で
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その周りに少し残るのが当時の土塁です。
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土塁は先ほど通った大手口を見下ろしていて、横矢をかけられるようになっています。
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木で隠れすぎですが、雰囲気は分かるかな

先ほどの虎口も見下ろしておきましょう。
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やはり数字の若い曲輪の方が高い立地です。

その第二曲輪
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奧から振り返ってもう一枚
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今までの曲輪よりずっと広く、長浜城でも一番の広さ。
やはり陸側に土塁が設けられています。先ほどの虎口側は特に高く作られていました。

土塁に登って守備隊の気持ちにもなれます。
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登ってくる敵を討ってくださいと言わんばかりの配置。攻めあがりたくはないな。

第二曲輪中央には、たくさんの柱穴から推定された建物跡が展示されています。
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建物の役割は分からないそうですが、城中心部の曲輪ですし、重要な建物が建てられていたのでしょう。

第一曲輪との境には畝堀も。

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この堀は竪堀からつながっていて、そこに畝が入れられています。
北条家名物の畝堀の流れでしょうかね。

第一曲輪との境にはも復元されています。
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存在感ある櫓は珍しいことに第一曲輪との通路も兼ねていたと推定されています。
柱穴や岩盤上という場所、ここの見晴らしと、第一曲輪の登り口がここしかないことがその理由。

機能性と存在感を兼ね備えた櫓、自分が城兵だったら身内に自慢しそうですし笑、説明板通り城の象徴という雰囲気があります。

そんな櫓を建てる価値のある眺めを見てみましょう。

まずは第二曲輪と夕焼けの富士山。
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絶景。良い時間、良い天気の日に来ました。

櫓上からもう一枚
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今も見える沼津市街地に武田軍の三枚橋城がありました。
ここに櫓を置きたくなる気持ちが分かります。

そのまま櫓を抜けて第一曲輪
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長浜城で一番高い曲輪。やはり陸側に土塁が設けてあります。

柱穴も見つかっていて、門と塀で囲われた空間があったと考えられています。
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解説の通り、ここに重要ポジションの人物が陣取っていたのだろうと思えます。

第一曲輪からも富士山と沼津市街、三枚橋城を見ておきましょう。
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街並みは発展していても全体像は当時とそう変わらないはず。
ここに立って部隊の動かし方を議論していたのかもしれません。

腰曲輪~田久留和

この第一曲輪から海側に伸びる岬にも曲輪が置かれています。
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海の方向へ真っすぐ伸びる腰曲輪たち。
柱穴は見つかっていますが、出土品が少なく曲輪の性格までは分かっていないそう。

腰曲輪B
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腰曲輪C
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腰曲輪Dはよく分からず、そのまま海に出ました。
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曲輪の規模感を見ても配置を見ても、海側への防御のための曲輪だったのでしょう。

海から上がった部隊目線ではこんな感じ
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こんなに丸腰で見ることはないでしょうが、櫓までの道のりは遠いです。。

田久留輪・安宅船模型

最後は陸側、今の重須ガイダンス施設へと降りましょう。

道中、第一曲輪の下あたりには古そうな石垣もありました。
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案内の丁寧な長浜城では珍しくこちらは説明なし。いつのものなのでしょう。

最後、重須側に置かれた田久留輪を俯瞰します。
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今は安宅船の置かれたガイダンス施設となっています。
こちら側の入江には軍船を係留していたとされており、それを踏まえての展示です。
埋め立てが進んで分かりにくいですが、かつてはもっと深い入江となっていたそう。

改めて下から安宅船を。
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大きいですよね。これが原寸大。漕ぎ手50人と戦闘員50人が乗り込んでいたとか。
海上の城とも呼ばれるわけです。

近くからは堤防と思しき石垣も検出されており、レプリカが展示されています。
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船は武田軍から見えない場所に係留していたんだろうな、と思わせてくれる遺構です。

最後まで見どころたくさんの長浜城の散策終了です。

感想

満足度 5/5

百名城、続百名城に選出されていない城の中ではトップクラスに面白い城跡でした。
規模は小さいですが、岬の小山の尾根に曲輪を置き、堀、土塁で陸側、海側ともに防御を意識し、敵陣の攻撃に向けて偵察や軍船も置く意図がよく分かりました。

最近整備されただけあって案内もばっちり。おかげで理解もとてもよく進みました。
櫓や柱穴も整備されて、富士山ビューまであって、お城にそこまで興味がない人を連れても十分に楽しめると思います。実際、珍しいくらい観光客が多かった。

みとしーで家族サービスの後に訪問、、、はさすがに厳しいかな。

アクセス

長浜城

狩野城 (静岡県伊豆市) -絵師 狩野派の発祥の地

伊豆半島の真ん中あたり、伊豆市狩野城へ。

伊豆市にあった狩野荘を本拠とした狩野氏の狩野城。
この狩野氏は有名な絵師の狩野派につながる系譜ともされています。

まぁ当たり前ですが城跡には大きな看板以外に絵師の痕跡はありませんので、絵に造詣が無くても大丈夫です。
その分(?)整備された遺構が残っていて見どころアリ。
絵師の名を借りなくても有名になってよいお城です。

お城:狩野城 静岡県伊豆市
HP:伊豆市 観光情報 特設サイト
訪問日:2022年1月

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概要

平安時代末期に狩野氏によって築かれました。

1180年、時の城主、狩野茂光は子の親光とともに源頼朝の下で石橋山の戦いに参戦、自刃します。その際、狩野城も落城しました。

狩野城は再興されますが、1493年からの北条早雲(伊勢宗瑞)の伊豆侵攻により攻略されました。
その後、狩野氏は後北条氏に従います。

なお、狩野氏第16代の狩野正信絵師狩野派の祖とされます。他にも説はあるようですが。

訪問記

伊豆半島の真ん中あたり、修善寺を通り過ぎたあたりの狩野城

Google mapに従い、伊豆半島の中央を貫く国道414号から脇道に折れてすぐ駐車場。
交差点には看板完備、わき道も道幅十分の良いアクセスで到着です。
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それなりに広い駐車場にも看板しっかり

駐車場には案内板もばっちり
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むしろ細かすぎるぐらいの立派さです。
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パンフ箱
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は空でしたが笑

さて、現地案内板の縄張り図をお借りして歩き方を確認です。
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この図の遊歩道を左回りに見ていきます。
赤い遺構が点在しているように書かれていますが、実際には一番左下の出丸はよく分からず、中郭〜西郭が中心で、図の通り、小さな曲輪が点在する縄張りでした。

散策開始
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緩やかに登るハイキングコースと言った整備具合。

最初の分岐をスルーして、左回りコースへ向かいます。
分岐や分かれ道は多いですが、道標が置いてあります。
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とはいえ、縄張り図との照合はちょっと骨が折れました。
デフォルメされているのと、10分歩いても遺構が見えず、不安になるんですよね

こんな平場も曲輪に見えてきたり(笑)
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実際には曲輪には看板がしっかりと整備されていました。焦る必要なかった。
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こちらは出丸

それなりに広い曲輪ですが、周りとの標高差も小さく、見晴らしもきかず。
半分自然地形にも見えてしまう曲輪でした。

中心部側には虎口も残っているので、間違いなく遺構ではあるのですが。
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出丸という名前にふさわしく少し離れているところにもちょっと不安になりながら先へ
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少し歩いて次の曲輪は、東郭。登って入ります。
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こちらが東郭
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普通の曲輪のように見えますが、実はU字型の土塁を持つ曲輪でした。
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縄張図にも小さく描かれている通りの形。
ようやく見えた明確な遺構にテンションが上がります。

今いる場所が城の中心部寄りということを思うと、私のような出丸側からの敵を隠れて上から迎え撃つ曲輪、土塁だったのかな。
奧からの敵を迎え撃つような土塁にも見えますが、奥に道はありませんし。

先ほど登ってきた方面は中郭との堀にもなっています。
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結構しっかりと深い堀です。やっと城域に入った感じ。

登って中郭
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細長い曲輪は狩野城で一番広いものでした。南、西と

北に明確な土塁が残ります。
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土塁上の石碑は旧字が読めませんでしたが、狩野茂光公関連の何かの址
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隣のかなり老朽化した建物は題目堂というお堂。武将の霊を祀っているそうです。

南西の土塁を登ると
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上には南郭という看板。
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さほど広くはありませんが、見晴らしもよさそうですし、物見台か櫓台だったのかな。
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ネット上にはこの曲輪の南にもいくつか曲輪があるという情報がありますが、現地ではルートが分からず。

下りて戻って先へ向かいます。
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土塁上からの方が中郭全景はよく分かりますね。
広いと言ってもとても広いわけではなく、ほかの曲輪が一層狭いだけといったところ。
古い時代の城跡だからでしょうかね。

次の本郭へも深い堀を通って向かいます。
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なかなか深くて良い。

こっちは縄張図にあった水の手方面だったかな。
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そして本郭へ到着
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虎口のある北側と西側に土塁が残り、本郭の看板も立ちますが、明らかに中郭より小さく余裕で一望できる規模

看板から振り返って北側虎口方面を一枚
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今通路となっているところからの比高も小さくて防御が固いようにも思えず、本当にここが狩野城の中心だったのかは、少し気になるところ。
中郭が中心な気がしてしまうのは、大きい所が中心に見える素人発想なのかなぁ。

先へ。

西郭との間には二重堀切があります。
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かなり浅くなってはいますが、それでもはっきりと分かる二重堀切。良い。

期せずして後に行くほど面白い遺構が出てくるルートになりました。
そしてこれを見ると先ほどの本郭が大切に守られているように思えるから不思議笑

二重堀の東側堀底から一枚。
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こうしてみると意外と中央部分も高く見えるもの。やっぱり堀の写真は難しい。

上がったところは西郭
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こちらもやはり小さめ。東、本、西郭は同じくらいの小ささですね。

西郭は東側も深い堀切で切られています。
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これは深い。最後が一番深いかも。

最初の出丸側と比べると高い守りへの意識が伺えます。
城のこちら側が大事だったのか、地形上の問題ゆえか。次から地形図も読み込むようにしようかな。

抜けた先には広い平場がありますが、土塁などはなし。
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先ほどの堀切までが遺構が残る区域でしょうね。

最後は遊歩道を通って最初の駐車場に帰ります。
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こちらは行き道と比べて落ち葉が多めですが、まあ歩ける道でした。
最後に良い遺構が見られた補正もあるでしょう。良い気分で無事帰還です。

感想

満足度 3/5

最初はなかなか遺構が見つけられず、ルートを追うのも大変でどうなることかと思いましたが、進むにつれて郭や土塁、二重堀など明確な遺構が現れて楽しい城めぐりとなりました。
焦らずのんびり歩くことがコツですね。

パンフレットも見たかったなぁ。

アクセス

狩野城

坂本城 (滋賀県大津市) -琵琶湖に沈んだ幻の石垣を探して

関西遠征最後は滋賀県坂本城へ。
2021年冬に話題になっていたあの石垣を見に行きます。

一列に並んだ石列は少しでも、あると無いとで大違い。
今につながる大きな手掛かり、良いものでした。

お城:坂本城 滋賀県大津市
HP:坂本城址 | 滋賀県観光情報[公式観光サイト]滋賀・びわ湖のすべてがわかる!
訪問日:2021年12月

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概要

1571年、比叡山焼き討ちの後、織田信長の命を受けて明智光秀が築城しました。
安土城と並び称される壮大な城郭でした。

本能寺の変の後、山崎の戦いで敗れた明智光秀坂本城に戻る道中で命を落とします。
安土城にいた明智秀満はその報を聞き、坂本城に入城。
堀秀政に包囲され、城に火を放って自刃しました。

その後、丹羽長秀が城を再建。杉原家次、浅野長政が城主となります。
長政時代の1586年頃、大津城に移転。資材を移し、廃城となりました。

訪問記

関西城めぐり最後のスタート地点は、さらに飛んで滋賀県比叡山坂本駅

こんなブログを見に来られる方はお察しかもしれませんが、お目当ては石垣です。
2021年冬は琵琶湖の水位が記録的に下がり、湖面に現れていたのです。

というわけで、比叡山坂本駅から比叡山方面の観光地には目もくれず琵琶湖岸の坂本城へ向かいます。

明智

駅から歩くこと20分、何の変哲もない住宅街で最初に通りかかった関連史跡は明智
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坂本城落城の際に、光秀の脇差や宝物を埋めた場所とされます。

由緒もなかなかですが、地主さんが個人的に管理されていることもなかなか驚き。
綺麗に管理頂いて、案内まで立てていただいてありがとうございますです。

湖に残る石垣

明智塚で良い感じに雰囲気を作って、いざ石垣へ。

お目当ての石垣は道路から脇へ逸れた湖岸にあります。

明智塚から県道558号線を南下、ガソリンスタンドや企業の事務所を過ぎたところ。
大きな看板の足元の、お手製感ある小さな看板が目印です。
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このあぜ道を進むわけですね。
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入口は心細い感じですが、中はしっかりと踏み固められた道
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左折先は先が見通せず一層不安ですが子供向けひまわり迷路のような道を抜けると到着。
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こちらがその石垣跡
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湖岸の石と比べて明らかにおおきな石が湖に向かって真っすぐ並びます。
これが石垣の根石。

この日の水位は-45cmくらい(だったかな)。それでこのような見た目でした。
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写真では縦に4つですが、現地では左に向かう石列も少し見えていました。
水も綺麗で現地だとよく分かるのですが、写真では水面下は見えませんね。ぜひ次の機会に現地で(笑)
胴木も残るそうですが、そちらはさすがに肉眼でも見えませんでした。

報道直後は人も多かったらしく規制線も張られていましたが、この日は私だけ。
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話題になったころはさらに20cm以上水位が下がっていましたから、その時と比べたら全然見えていないんでしょうけど、それでも根石の角がはっきり。
ここまで歩いてきた住宅街か畑にほぼ遺構がないこととの対比もあって、本当にここに城があったんだという感慨を一層得られます。
たった数個の石でも思うところはあるものです。

この石垣のある敷地をお持ちの事業所正門には、本丸あとの石碑も置かれています。
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テカってよく見えませんが(笑)、目印の一つとして。
あぜ道の入口とは少し離れていますので要注意です。

坂本城址公園

引き続き、坂本城の石垣からさらに南に進んだところの坂本城址公園へ。
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立派な石碑とそこそこの駐車場。車で来られる方はここを使ってもよさそうですね。
訪問時は混雑避けで利用禁止になっていましたが、さすがにもう収まったのでは。

ここからだと石垣のある曲がり角の経路図まで完備です。
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きっと周りのあぜ道に入っちゃう人がいたんだろうなぁ。気を付けます。

公園には、古くからの浜があったり、
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坂本城を全力で推す掲示板、
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坂本城跡の案内板があります。
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が、これを見ていただいても分かる通り、実はここ(赤丸)は坂本城の外。
坂本城の跡地は住宅街化していてほぼ遺構はありません。残念。

デフォルメ強めの明智光秀像もいますが、
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城巡りを忘れて琵琶湖を眺めてのんびりする公園、と言ったところでしょうか。
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海と言われても信じそうなさすがの景色。ぼーっといくらでも見ていられます。

最後は、比叡山坂本駅までなるべく城域を通りながら戻りましょう。

坂本城址公園からすぐの場所にあるのが、東南寺
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延暦寺から見て南東にあるから東南寺。
お寺には深い伝統があり、さらに坂本城とのつながりも。
中には坂本城落城時に戦死した兵を弔う首塚も置かれています。

ただ、この日は入れず。その日に一目見ておきたかったところです。

最後は、二の丸跡に設けられた城址
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こちらは公園とは違ってかつての城域と推測される場所に置かれています。
と言っても、やっぱり周りの雰囲気からすると城址碑というより一里塚か何かかと思ってしまう環境。
水路や道路はかつての名残かと思うところもありますが、今一つ自信を持ちきれず。
すごすごと駅へと退散です。

感想

満足度 3/5

遺構はほぼ無いので点数も付けられませんが、石列ははっきりと残っており、ここに城があったことをしっかりと伝えてくれます。
一列だけの遺構ですが、静かに過去に思いを馳せることができました。

良い機会に見に行くことができて良かった。

アクセス

坂本城