明智光秀生誕の地とも言われていますが、それより印象的だったのはその遺構。
どこを見ても素晴らしい遺構の数々でした。
まずは大手道を本丸へ向かいます。
お城:明知城(白鷹城)岐阜県恵那市
HP:明知城跡|観光スポット|岐阜県観光公式サイト 「岐阜の旅ガイド」
訪問日:2022年3月
概要
1247年、遠山景重が築城したと伝わります。
明知城のある東濃地域は、戦国時代に織田家と武田家の争奪戦の舞台となりました。
1574年、明知城は武田家の侵攻を受け、落城します。
1575年、長篠の戦いで武田軍が敗れると、そのまま明知城も織田方が奪還します。
1583年、森長可が東濃に勢力を拡大、時の城主、遠山一行は明知城から退去します。
翌年の小牧長久手の戦いで奪還しますが、その後、再度森家の所領となります。
1600年、関ケ原の戦いの際に明知城は、岩村城主、田丸直昌の支城となっていました。
これを遠山利景が攻略。岩村城とともに落城させます。
この戦功により遠山氏は明知城主に返り咲き、旗本となりました。
1615年、一国一城令の頃に明知城も廃城となり、麓に明知陣屋が築かれました。
なお、明智光秀生誕の伝承が残る、ゆかりの地でもあります。
また、遠山の金さんで有名な遠山景元は、明知遠山家の家系につながる人物です。
訪問記
明知陣屋
明智駅の駅前にある、日本大正村駐車場から散策スタートです。
ここに大きな縄張図がありますので、予習してから向かいましょう。
ちなみに城内にもたくさんの縄張図があります。大河パワーか整備がすばらしいです。
図中右手の山頂に2つの曲輪と出丸が、その周囲にも大小の曲輪が置かれます。
それを取り囲むように青で描かれた横堀、竪堀が走るのが特徴です。
まずは、左手に茶色で描かれた、明知陣屋土塁沿いの登城路へ向かいます。
ちなみに日本大正村で手に入るパンフレットにも分かりやすい案内があります。
どうせならゲットしてから進みたいところ。
駅から10分足らず。冠木門をくぐって明知陣屋に到着です。
ここには看板と水堀が残されています。
明知陣屋は1615年ごろに明知城が廃城となって以後の、この地の支配拠点でした。
大手口から出丸へ
明知陣屋を過ぎて、大手口側に当たる稲荷神社登城口から登り始めます。
ここにも縄張図があって現在地を確認できます。ありがたい。クマ注意は見たくないですが…
登城路は土塁外側にあたります。この土塁は明知陣屋北辺を区切るもの。
陣屋側には赤い稲荷社も見えています。当時のままだとか。
3, 4分ほど登ると土塁が途切れて、このあたりからがかつての大手道
看板もありますが、違いはちょっと分かりづらかった。
左手の高台には大手道を守るためと思われる曲輪があります。
正面の看板には大手門東砦の文字。
見えていた曲輪群までは数分でした。すぐに登れるのもありがたい。
縄張図の通り、何段か連なる様子を見ることができました。
このあたりから、横堀竪堀に囲まれた主要部が始まります。
太めの土橋を越えると
振り返って撮影しました。
畝状空堀群の看板。こちらも気になりますが、
まずは正面の大きな空堀へ。
堀底を大手道として、門があったと推定されています。
あー狙われているなぁ、、、と思う構図ですね。思う間もないか。
堀底を越えると、大手道は左へ曲がります。
私は右手に進み、まずは大手道を見下ろす曲輪へ。
小ぶりな曲輪からは
今も下が良く見えました。
改めて堀底の東屋から本丸方向への通路へ。
こちらには通路が二本。下る道には武者走りの名がつけられています。
最終的には二の丸、本丸に続く道ですが、ここでは降りていくようにしか見えません。
こういう道、何が出てくるかわからず怖いですね。。。
私が進むのはもう一つの登っていく方
虎口曲輪へと進みます。
曲輪名にも看板にも枡形虎口と書かれていますが、ちょっとわからないな。
虎口曲輪も大手道を守るためと思われる小さな曲輪でした。
相変わらず大手道が良く見えます。
先ほどの通路を上るまでずっと攻撃を加えられる上に、ここはここで一段上の帯曲輪や本丸からよく見下ろされる構図となっています。厳重。
写真下段が帯曲輪(現地では三の丸)上段が本丸です。
という訳で、本丸下段を取り囲む帯曲輪を進みます。まずは向かって左手。
今は崩れて途切れていますが、ここから横堀と畝状空堀群を見下ろすことができます。
写真ではただの林かな
反対側の帯曲輪を通って
二の丸下の腰曲輪へ。ここで先ほどの武者走りが合流してきます。
北方向へ進むと二の丸ですが、まずは南の出丸へ。
土橋の先が出丸。
縄張図でいうと右下の現在地、にあたるところ
出丸は、中央に巨石の列がある独特な作りです。
本丸や二の丸より広く、江戸時代には南本城とも呼ばれていました。
猿戻しと呼ばれる南面の強烈な切岸や
穴の開いた変わった石も置かれており、重要な曲輪だったと考えられています。
江戸時代に「くつ石」と呼ばれ、旗立石とも手水鉢とも考えられているのだとか。
こんな明瞭な穴の開いた石、何に使っていたんでしょう。本当に。
二の丸~本丸
折り返して二の丸方面へ。
一段本丸方面へ上がると二の丸
ここも切岸が急です。
さらに斜面を登って本丸に到着
出丸等と並んで明知城の曲輪では一番広い部類の曲輪です。
ここまで見てきた曲輪群と同じで、土塁などはありません。
そしてここにも大きな縄張図があります。本当、至れり尽くせりです。
右側中央に描かれた、山頂の曲輪が本丸。
山頂ということで、ここまで登ってきた帯曲輪や大手道方面も良く見えます。
素人にも狙いが分かる構造で見ていて楽しい。
ここから帯曲輪の敵を狙う状態だと、形勢は絶望的ですが。
一通り眺望を楽しんだら、折り返して横堀、竪堀群を見に行きます。
ここからはまた次回。
- 付近のスポット
近くはありませんが、やはり明智つながりでこちらも
こちらは森氏のつながりで。tmtmz.hatenablog.com
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