にわかお城ファンの旅行記

にわか城好きの歴史探訪記

周りに影響されて城巡りを始めました。百名城スタンプ目当てだったのに気がついたら沼にハマっていました。

明知城 (岐阜県恵那市) 1/2-明智光秀ゆかりの城を大手道から本丸へ

岐阜県に二つある明智/明知城の内、恵那市の明知城へ。

明智光秀生誕の地とも言われていますが、それより印象的だったのはその遺構。
どこを見ても素晴らしい遺構の数々でした。

まずは大手道を本丸へ向かいます。

お城:明知城(白鷹城)岐阜県恵那市
HP:明知城跡|観光スポット|岐阜県観光公式サイト 「岐阜の旅ガイド」
訪問日:2022年3月

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概要

1247年、遠山景重が築城したと伝わります。

明知城のある東濃地域は、戦国時代に織田家と武田家の争奪戦の舞台となりました。

1574年、明知城は武田家の侵攻を受け、落城します。
1575年、長篠の戦いで武田軍が敗れると、そのまま明知城も織田方が奪還します。

1583年、森長可が東濃に勢力を拡大、時の城主、遠山一行は明知城から退去します。
翌年の小牧長久手の戦いで奪還しますが、その後、再度森家の所領となります。

1600年、関ケ原の戦いの際に明知城は、岩村城主、田丸直昌の支城となっていました。
これを遠山利景が攻略。岩村城とともに落城させます。
この戦功により遠山氏は明知城主に返り咲き、旗本となりました。

1615年、一国一城令の頃に明知城も廃城となり、麓に明知陣屋が築かれました。

なお、明智光秀生誕の伝承が残る、ゆかりの地でもあります。
また、遠山の金さんで有名な遠山景元は、明知遠山家の家系につながる人物です。

訪問記

明知陣屋

明智駅の駅前にある、日本大正村駐車場から散策スタートです。
ここに大きな縄張図がありますので、予習してから向かいましょう。
ちなみに城内にもたくさんの縄張図があります。大河パワーか整備がすばらしいです。
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図中右手の山頂に2つの曲輪と出丸が、その周囲にも大小の曲輪が置かれます。
それを取り囲むように青で描かれた横堀、竪堀が走るのが特徴です。
まずは、左手に茶色で描かれた、明知陣屋土塁沿いの登城路へ向かいます。

ちなみに日本大正村で手に入るパンフレットにも分かりやすい案内があります。
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どうせならゲットしてから進みたいところ。

駅から10分足らず。冠木門をくぐって明知陣屋に到着です。
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ここには看板と水堀が残されています。
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明知陣屋は1615年ごろに明知城が廃城となって以後の、この地の支配拠点でした。

大手口から出丸へ

明知陣屋を過ぎて、大手口側に当たる稲荷神社登城口から登り始めます。
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ここにも縄張図があって現在地を確認できます。ありがたい。クマ注意は見たくないですが…  

登城路は土塁外側にあたります。この土塁は明知陣屋北辺を区切るもの。
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陣屋側には赤い稲荷社も見えています。当時のままだとか。

3, 4分ほど登ると土塁が途切れて、このあたりからがかつての大手道
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看板もありますが、違いはちょっと分かりづらかった。

左手の高台には大手道を守るためと思われる曲輪があります。
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正面の看板には大手門東砦の文字。

見えていた曲輪群までは数分でした。すぐに登れるのもありがたい。
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縄張図の通り、何段か連なる様子を見ることができました。

このあたりから、横堀竪堀に囲まれた主要部が始まります。
太めの土橋を越えると
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振り返って撮影しました。

畝状空堀の看板。こちらも気になりますが、
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まずは正面の大きな空堀へ。
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堀底を大手道として、門があったと推定されています。
あー狙われているなぁ、、、と思う構図ですね。思う間もないか。

堀底を越えると、大手道は左へ曲がります。
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私は右手に進み、まずは大手道を見下ろす曲輪へ。
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小ぶりな曲輪からは

今も下が良く見えました。
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改めて堀底の東屋から本丸方向への通路へ。
こちらには通路が二本。下る道には武者走りの名がつけられています。
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最終的には二の丸、本丸に続く道ですが、ここでは降りていくようにしか見えません。
こういう道、何が出てくるかわからず怖いですね。。。
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私が進むのはもう一つの登っていく方
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虎口曲輪へと進みます。
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曲輪名にも看板にも枡形虎口と書かれていますが、ちょっとわからないな。

虎口曲輪も大手道を守るためと思われる小さな曲輪でした。
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相変わらず大手道が良く見えます。
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先ほどの通路を上るまでずっと攻撃を加えられる上に、ここはここで一段上の帯曲輪や本丸からよく見下ろされる構図となっています。厳重。
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写真下段が帯曲輪(現地では三の丸)上段が本丸です。

という訳で、本丸下段を取り囲む帯曲輪を進みます。まずは向かって左手。
今は崩れて途切れていますが、ここから横堀と畝状空堀群を見下ろすことができます。
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写真ではただの林かな

反対側の帯曲輪を通って
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二の丸下の腰曲輪へ。ここで先ほどの武者走りが合流してきます。
北方向へ進むと二の丸ですが、まずは南の出丸へ。
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土橋の先が出丸。

縄張図でいうと右下の現在地、にあたるところ
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出丸は、中央に巨石の列がある独特な作りです。
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本丸や二の丸より広く、江戸時代には南本城とも呼ばれていました。
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猿戻しと呼ばれる南面の強烈な切岸や
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穴の開いた変わった石も置かれており、重要な曲輪だったと考えられています。
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江戸時代に「くつ石」と呼ばれ、旗立石とも手水鉢とも考えられているのだとか。
こんな明瞭な穴の開いた石、何に使っていたんでしょう。本当に。

二の丸~本丸

折り返して二の丸方面へ。

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一段本丸方面へ上がると二の丸
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ここも切岸が急です。
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さらに斜面を登って本丸に到着
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出丸等と並んで明知城の曲輪では一番広い部類の曲輪です。
ここまで見てきた曲輪群と同じで、土塁などはありません。

そしてここにも大きな縄張図があります。本当、至れり尽くせりです。
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右側中央に描かれた、山頂の曲輪が本丸。

山頂ということで、ここまで登ってきた帯曲輪や大手道方面も良く見えます。
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素人にも狙いが分かる構造で見ていて楽しい。
ここから帯曲輪の敵を狙う状態だと、形勢は絶望的ですが。

一通り眺望を楽しんだら、折り返して横堀、竪堀群を見に行きます。
ここからはまた次回。

続百名城 田丸城 (154・三重県玉城町) 2/2 -二の丸、本丸から天守台へ

前回に引き続き、田丸城を散策。
大手道を進んでいきましたが搦手から一度出てしまったので笑、もう一度入って二の丸、本丸、天守台と中央部を順にみていきます。

非常に残りの良い遺構たちを見ていきますよ。

その1はこちら。

tmtmz.hatenablog.com

お城:田丸城 三重県玉城町
HP:田丸城跡|見どころ|玉城町
訪問日:2020年1月, 2023年3月

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訪問記

二の丸

前回最後に訪れた搦手口からスタートです。

この搦手口、住宅街の狭い道の突き当りに位置していて、今も完全に裏口なのですが、遠くからも見える立派な看板が立ちます。
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隣を走るJR参宮線に向けたアピールなのでしょう。
本来は田丸城への来訪を呼びかける意図の看板だと思いますが、参宮線もなかなかのローカル線ですし、両者ともに少しでもお客さんが増えると良いですね。

改めて二の丸下の帯曲輪まで戻ってきました。
今は二の丸南に上がる階段がついていますが、当然ながら当時はありませんでした。
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という訳で、二の丸の南東方までやってきました。
当時からの二の丸への入り口である二の丸虎口です。
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登りつつ枡形となっていて、高さもあり、さすがは二の丸、やはり厳重です。

二の丸はいろいろな所で展望が紹介されています。
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こちらは東側
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それくらい眺望が良いということですが、それは当時からだったのかもしれません。

というのも、二の丸南東側にあったのが、富士見台
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ここから富士が見えるというのは、かなりの遠望ですね。
本当に見えるのか気になりますが、曇り空では頑張る気にはなれませんでした笑

改めて二の丸全景
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縄張図では北の丸よりやや小さい曲輪ですが、こうしてみるとそこそこの広さ。
北の丸とは違い、土塁などはありません。

右奥にかすかに見えるのが本丸とをつなぐ土橋。

足元には北の丸同様に石垣が使われ、最上段には細部へのこだわりを感じます。
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土橋を渡って本丸へ向かいます。

本丸

こちらが本丸に2つある虎口のうち、二の丸側にあたる本丸門
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こちらも枡形となっています。さすがに本丸の方が高くなっていますね。
あと、石が心なしか大きいような。

本丸
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最上段の3つの曲輪の中でも一番広い本丸は、実際に見るとやはりかなりの広さです。
奥に見える天守台に目が行きますが、その前にもう一つの虎口、東側の本丸虎口へ。
写真では右手にかすかに写るものです。

外から、本丸虎口
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大手門から道なりに、北の丸との分岐を本丸側に進むとここに着きます。
発掘調査で遺構が見つかった、17世紀に建てられたと思われる門を、足元の礎石で表示されています。
なかなか大きな石を使った石垣ですし、門も立派だったのでしょう。

石垣は全体には野面に見えますが、隅石の近くは切石です。
算木を意図しているような不完全なような。
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正面からのぞむ虎口内部には鏡石のような巨石もありました。
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と、素人の推測を書かせていただきました。この辺、どこかに解説あるのかな。

天守

改めて本丸内部にもどり、天守
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本丸北端に位置する天守台。右手前には付櫓台も見えています。

2回目の訪問では何ら違和感ない姿でしたが、最初の訪問ではこんな姿に。

冬場のイルミネーションで模擬天守?が置かれていました。
ちょっとチープすぎる気もしますが、馴染みを持ってもらえるなら良いのかな。

なお、織田信雄時代は三層の天守が建てられていました。模擬天守?の方が小さいとは笑

信雄時代の天守は火災にあい、あったのは僅かな期間。
松ヶ島城に信雄は去ってしまいました。

その後、田丸氏、稲葉氏時代を経て再度天守が置かれていたようですが、その天守も江戸時代に風雨で倒壊したと記録されています。

改めて、模擬天守の無い天守台を見ていきます。

穴蔵から天守
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奧には石の階段も見えていますね。
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右手前にも階段
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登って天守台全景です。
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広さはさほど、かな。
ただ、天守台からでも眺めが良い。天守からの眺めはもっとよかったでしょう。

やっぱり天守があった姿が気になります。

感想

満足度 4/5

三の丸は町役場や学校など、よくある跡地利用をされていますが、それでも外堀や二の門はよく残っています。二の丸から内部はもっと良く残っており、かなり面白い。

当時に思いを馳せるには十分な残り具合で、野面の石垣の武骨さや搦手の土づくりの虎口も含めて多様な遺構が残っており、良いと思わせるには十分でした。満足度高めです。

アクセス

田丸城

続百名城 田丸城 (154・三重県玉城町) 1/2-大手から北の丸、本丸下段を経て搦手へ

三重県の続百名城めぐり、最後は田丸城へ。
こちらもやはり北畠氏の城でしたが、その後は織田信雄の手が入って、さらに江戸時代まで使われていました。

始まりは町役場に中学校に、ではありますが、その奥には素晴らしい遺構が残ります。
アウェー感にめげずにその先まで見に行きたいところ。

お城:田丸城 三重県玉城町
HP:田丸城跡|見どころ|玉城町
訪問日:2020年1月, 2023年3月

概要

1336年、北畠親房南朝方の拠点として築いたとされます。
南北朝時代に争奪戦が繰り広げられたのち、北畠氏の居城となりました。

信長の伊勢侵攻の結果、北畠具教の養嗣子となった織田信雄が1575年に入城、三層の天守を持つ近世城郭へと改築しました。
1580年、天守が焼失、信雄も松ヶ島城へと移りました。

その後は、稲葉氏、藤堂氏を経て久野氏が入り、明治維新に至りました。

久野氏のもとの居城、久野城の訪問記はこちら。

tmtmz.hatenablog.com

訪問記

続百名城スタンプ・大手門・二の門

田丸城訪問は、多気北畠氏城館からでした。

三重県を南下して、最寄り駅のJR田丸駅からスタートです。
せっかくの駅近物件ですが、三重のJRは列車の本数が物足りません。。。


駅舎はレトロな良い雰囲気でしたが、耐震性の問題で2023年に建て替えが始まりました。
最後に見られてよかった。

駅から徒歩10分ほどで田丸城に到着。駅からのアクセスは良好です。
駐車場も十分。こちらの地図のPの場所に駐車場があります。
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一番大きいのは、玉城町役場の駐車場でしょうか。

駐車場近くにあった絵図をもとに、全体像を確認です。かなり薄いですが、あまり良い縄張図が現地になく。。
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山頂に本丸、二の丸、北の丸を南北に並べ、その下に三の丸などを持ちました。
三の丸やその下の曲輪は玉城中学校などになっていますが、本丸、二の丸、北の丸やその石垣は非常に良く残っています。

改めて、大手門の外から見ていきます。

大手門は改変されて直線になっていますが、外堀が残っています。
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今も結構な幅。
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堀の内側、大手門左手には、紀州藩同心屋敷や目付役所がありました。
今は町役場が建ちます。

右手にはスタンプのある村山龍平記念館。かつては代官所などがありました。
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村山龍平さんは、田丸生まれの朝日新聞創始者
田丸城も、村山氏が払い下げを受けたうえで町に寄付した経緯があります。
そりゃ堀の内側に記念館が建っていても不思議ではないですね。
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という訳で、記念館でスタンプを頂きます。

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モデルは天守台。石垣は本当に魅力的でした。

二の門方面へ進みます。

町役場側から二の門方面を見上げると、石垣と内堀。
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石垣も良いですが、二の門脇のこの場所にだけある内堀も気になります。
他が埋められたわけでもなく、当時からここだけだったよう。なぜ。

二の門
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先ほどから見えている石垣ですが、傾斜も相まってかなりの高さ。威圧感があります。

抜けると三の丸。今は玉城中学校。
当時は二の丸方向への直進ルートもあったようですが、今は中学校の脇を進みます。
学生さんがいない時間でよかった笑

中学校の近くには、蓮池という池や
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富士見門がありました。
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三の丸から二の丸富士見台に向かう門で、移築されていたものを再度移したもの。
両側にあった侍溜は取り払われていますが田丸城では貴重な現存建築です。

ただ、通路脇にポツンとある今の状態では何かの小屋のよう。
もう少し門っぽいところにおいてあげても良いのに。

さらに進むと本丸虎口がありますが、越えて中学校のグラウンド脇へ。
若干気まずい場所に、三の丸井戸の石碑があります。
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田丸城周辺は湿地帯で、井戸の水質には苦労したのだとか。
この金明水、銀明水は、当然城内の飲み水でしたが、近代には城下の生活用水にも使われた、と看板に書かれております。

改めて本丸虎口から最上段へ。
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二の門同様に傾斜を持った虎口です。

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石垣や土塁に囲まれてなかなか厳重。

発掘調査では、宝暦年間の絵図にないより古い時代のものと思われる石列や礎石も見つかったそう。宝暦以後の遺構は立体的に、以前の遺構は平面的に表示されています。

門と思しき平面の礎石や
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石組の側溝も見つかったそうです。グレーチングが目立つここじゃなくて奥だったかも。
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奧にも礎石
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門に加えて石垣、石垣、石垣。
当時は見通せていなかったとはいえ、なかなかの威圧感だったのでしょう。
正面上は、本丸と天守台の石垣です。

このまま真っすぐ本丸へ、はさすがにつながらず、本丸と北の丸の間に到着。
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となると、まずは北の丸から、ですね。

北の丸

最上段の曲輪は深い空堀を持っています。
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石垣となっていてなかなか厳重。
最上部の堀にまで石垣が使われているあたり、当時の権威を感じます。

北の丸内部へ
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今は城山稲荷が建ちます。
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鳥居に圧を感じます。

北の丸周囲には土塁が残ります。
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なかなかしっかりと残っています。

搦手へ

参拝し、一通り周囲を見下ろしたりしたら、本丸方面へ。
こちらは本丸の石垣。
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なんだか重厚感を感じる石垣です。真っすぐ、だからでしょうか。

ここからは本丸に入らず周辺の曲輪を散策。私は真っすぐではないので笑
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右手には北の丸とを切る堀、奥には櫓台か横矢掛けの石垣も見えています。
土と石垣が共存する感じが良い

西側斜面に到着。
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こちらはなかなかの傾斜、かつたくさんの腰曲輪?帯曲輪?があります。
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桜の木でしょうか。時期が来たらきれいでしょうね。

見上げると石垣。
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櫓台でしょうか。やはり重厚感を感じる石垣です。

しばらく進んで本丸南面と二の丸との堀に到着。
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こちらもしっかりと断ち切られています。二の丸の石垣は残念ながら崩れていました。
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あるとないとでだいぶ印象が変わってしまいますね。

道なりに二の丸を回り込んで、南面へ
こちらには一部崩れているものの、高い石垣が残っております。
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傾斜も相まってかなりの高さです。今までで一番高いんじゃないかな。良い。

そして反対側には搦手につながる虎口。
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こちらはこちらで高い土塁で厳重です。ここだけみると中世城郭のような雰囲気。

何度か折れながら降りると
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外堀へ
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今は保育所が建ちますが、かつては船着き場があったとのこと。
船が入ってくるとすると近くの川を経由してきたのかな。

天守を見ずに出てしまいましたので、もう一度搦手から登ります。
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続きはまた次回。二の丸、本丸内部へと向かいます。

付近のスポット

おなじ三重県の続100名城を。

tmtmz.hatenablog.com

tmtmz.hatenablog.com

↓気が向いたら押してやってください

城 - ブログ村ハッシュタグ
#城


2023年振り返り 今年もありがとうございました

あっというまに2023年も年の瀬。皆様いかがお過ごしでしょうか。

私は、今年ついに年賀状を卒業し、年末の仕事は大掃除だけ。
それも済ませて、コロナ禍以来の帰省中、のんびり寝正月モードです。

寝正月を迎える前に、このブログも年越し準備。一年を振り返らせていただきます。

その前に。

今年も一年、このブログを訪問し、反応を送って下さり、ありがとうございました。
年々落ちる投稿頻度も原因は明確で、家族が増えたから。
当面はこんな感じが続きそうです。

まあぼちぼちと、細々と続けていけたらと考えておりますので、たまーに思い出していただきつつ、末永くお付き合いいただけますと幸いです。

こちらは2023年、もっとも印象に残った城郭、霧山城の本丸。
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登り口の多気北畠氏居館跡も十分山奥なのに、そこからさらに山を登ること1時間。
どれだけ攻められることを恐れていたのか。
そしてそんなところでも攻め落とされる、戦国時代の恐ろしさ。いやはや。

現代人視点では、登り切った時の達成感が格別だったことが印象に残った理由ですね。

2023年 城めぐりを振り返る

2023年の訪城数は以下の通り

訪城数   20
百名城   4
続百名城  7
その他城郭 9

投稿頻度と同様に、訪城数も右肩下がり。やはり時間がとれない上に、春先まではコロナもありましたし。。。
コロナ禍も明けたことで、来年は回復していきたいなぁ。

スタンプも全く進んでおりませんが、百名城選外の城郭に訪問する機会はそれなりに取れました。

WBCメキシコ戦を追いながら登った三重の阿坂城や
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近江鉄道で頑張って回った滋賀の水口城など
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百名城に選ばれていないといっても見どころも多く良いところでした。
どちらも天気には恵まれませんでしたが笑、数少ない分、何度も思い出して濃い思い出になっています。
これらをはやくまとめていきたい。。。

今年投稿した中から印象的だった城も振り返ります。

続百名城 高天神城

言わずと知れた要衝高天神城

深い深い堀切を始めとした多くの防御施設が残る、山城感の強い西峰も

高天神六砦の一つが見える、居住スペース感の強めな東峰

どちらも違ってどちらも興味深く、一城別郭の面白さを感じました。

訪問時は大河ドラマどうする家康を放送中
高天神城はさらっとでしたが、観光客は非常に多く、大河の影響もあったような。

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西高木家陣屋跡

百名城選外からは、西高木家陣屋跡をピックアップ。
周辺に三つの陣屋が並ぶ稀有な地の、最も遺構が残る陣屋跡です。

写真の長屋門も良いですが

何段にも重なる石垣や

東と北の両高木家陣屋の間を通り、今も名残の残る伊勢街道も素晴らしい。
立派な城も良いですが、立派な陣屋もまた良いものでした。tmtmz.hatenablog.com

改めて、2023年はありがとうございました。
皆様にとって、2024年も良い一年でありますように。

まず私は、、、コロナが明けて初の山城シーズンであるこの冬に、どの城を訪れるかから考えようかな。

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#城


続百名城 多気北畠氏城館(153・三重県津市) -名松線で向かう北畠氏の本拠地

津城に引き続き、再訪の機会を得た多気北畠氏城館の記事を更新です。

名松線で向かったのはコロナ前のことですが、いま思い返しても楽しい訪問でした。
地元の方とふれあって良い思い出ができると、土地の印象が一気に良くなりますよね。

再訪は車でしたが、名松線も再訪したいところ。
2020年の訪問記に再訪時の写真を追加して更新しました。

お城:多気北畠氏城館 三重県津市
HP:津市 - 多気北畠氏遺跡の概要
訪問日:2020年1月, 2023年3月

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概要

1342年、北畠顕能が築いたと言われます。その後、8代にわたり北畠氏の本拠でした。

8代具教は織田信長の侵攻を受け1569年に降伏、その後も抵抗しますが1576年に誅殺され、詰城とともに廃城となりました。

居館と、近くに詰城、さらに奥には戦時の詰城(霧山城)を持つ構造でした。
居館跡は1500年ごろに大規模な造成が行われたことが分かっており、それを境に前期、後期と分けて捉えられています。

訪問記

伊勢奥津駅

津城を訪問したその足で、JR名松線に乗って終点の伊勢奥津駅へ。
この名松線訪問が、わざわざ青空フリーパスを購入した一つの理由でもあります。


JR東海屈指のローカル線、名松線はコロナ前でも2時間に1本の運行。
お客さんもごくわずか。単線対向待ちで10分以上停まるなど、道中は非常にのんびり。これぞローカル線と言った雰囲気でした。

日常から遠く離れた土地の雰囲気を濃密に感じられるローカル線、好きですね。

ちなみに、家城駅前には下剋上球児のモデル、2018年甲子園に出場して話題となった白山高校がありました。よく書かれていた2時間に1本の列車は名松線だったのか。

終点伊勢奥津まで約1.5時間。

当時13:06松阪駅発の列車に乗って、ついたのは14:30
ここからの移動を考えても実質的な城訪問最終列車でした。

という訳で、実際には駅到着後すぐに多気北畠氏城館へ出発したのですが、本記事ではまず伊勢奥津駅周辺を散策します。

小さな駅の隅に給水塔が残されていました。
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ここで途切れた線路は名松線の名、名張を目指していました。

駅の周辺は小さな集落。
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古くは大阪から伊勢を目指した伊勢本街道の宿場町だった奥津の町
今は鄙びた雰囲気ですが、随所にかつての賑わいを残します。
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駅前に残る立派な建物は明治から大正にかけてのよろずやでした。
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今はまちかど博物館になっており、予約すれば見学可能だそう。

近くには道標や
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延命地蔵様もいらっしゃいました。

この「のれん」が奥津の町を彩る一つのアクセントに。

各家の軒先にオリジナルののれんを掲げて町おこしをされています。
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そういえば伊勢奥津駅にも掲げてありました。
人の少なさには過疎を感じずにいられませんが、盛り上げようとする気概や人のぬくもりも感じることができました。

帰りの列車で配られたポストカードもそうですし、
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もう一つぬくもりを感じたのが自転車を借りた駅前の観光案内所ひだまりさん
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通りすがりの観光客にお茶を振る舞って丁寧にもてなしてくださり、帰りの列車の心配や、時間をつぶす喫茶店の紹介までしてくださいました。
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レンタサイクルの返却が16時の閉店まで、というのは玉に傷でしたが、その温かな対応で、一気に伊勢奥津のファンになってしまいました。

伊勢奥津での楽しい経験を振り返っていると、多気北畠氏城館にたどり着く前に終わってしまいそうなので、そろそろ話を進めます。

多気北畠氏城館

ひだまりさんで電動自転車と恥ずかしい蛍光色のビブスを渡されて、移動スタートです。

道中、名松線を一枚。
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まさに山間の山村。絵に描いたようなローカル線の風景です。良き良き。

そこから山をトンネルで越えて、伊勢本街道のお隣、多気の集落へ。

こちらも風情ある町並みに、道標が残ります。良きです。


すぐいせ道、は残念ながら直ぐではなく、真っすぐ、の意味。

この多気こそが北畠氏の本拠地。江戸時代よりさらに前にも栄えていました。
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長い長い導入を終えて、多気北畠氏居館跡を見てまわりましょう。
今は北畠神社が建てられています。

鳥居をくぐって境内へ
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中に入るとこんな感じ。立派な神社です。
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居館跡に建つ、と言っても今は名残を感じるのは難しく、気分は参拝です。

社務所御朱印、、、ではなく続100名城スタンプを頂きます。

古い時代の居館ですが、三段に分かれた上段と中段の境に石垣が用いられていたことが一つの特徴。そんな上段と中段をつなぐ大手口にあたる入口跡がモデルですね。

参拝をしたら境内を散策します。
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三段構造の内、およそ上段と中段に跨るように境内が広がっています。
今はどこまで行っても神社ですが、所々に案内も。
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ここはスタンプモデルの入り口あと。
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さすがに見える状態ではありませんが、足元には石垣が埋まっているのかな。

ここで見つかった石垣が1500年代前半のもの。
中世館跡では日本最古の石垣で、それをアピールする看板もあります。
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が、さすがにこの景色では実感は湧きづらいかな。
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雰囲気の良い神社ではあるのですが。
なお、居館だった頃から守りが必要な場所でも、外部にアピールするための場所でもなかったため、上段をより厳かにするためのものと考えられているようです。

上段最奥部からは礎石建物跡も検出されています。
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やはり様子を感じるのは難しいものの、15世紀前半の人の営みに思いを馳せられる、というのはロマンがあります。

折り返して、社務所正面、今の多気北畠氏城館で一番の見どころであろう、1500年代前半に作られた庭園へ向かいます。
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信長の侵攻により北畠氏が滅んだあとも、埋もれずに残ったという驚きの庭園。
300円払ってもみる価値アリです。

米字池と呼ばれる池泉と枯山水が同居し、看板によると大自然と調和しつつ質実剛健、武将好みの男性的な庭園、だそう。
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質実剛健さは、私には高尚すぎましたが、雰囲気の良い庭園であることは分かりました。

当時置かれたであろう石の配置や
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実に複雑な池の形
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苔の雰囲気など
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当時、北畠氏がもてなそうと考えられた客人とは程遠い格にしても、庭園のよさのごくごく一部は感じ取れたような気がしました。

この日はレンタサイクルの返却時間(16時。。。)の都合もあり、ここまで。
詰城や霧山城も後日訪問しましたので、おって追加しますね。

感想

満足度 2.5/5

多気北畠氏城館のうち、詰城や霧山城を除いた城館部分だけを切り取ってしまうと評価は低くならざるを得ません。庭園はもちろん良いものですが、遺構は見えませんので。

ただ、伊勢奥津や多気の街並み、人の雰囲気などは5/5の評価で、もう少し時間を取って訪れたい土地でした。

アクセス

多気北畠氏城館

  • アクセス
    電車・バス:JR名松線 伊勢奥津駅からバス 上多気交差点下車 徒歩10分
          JR名松線 竹原駅からバス 北畠神社前 下車すぐ
    鉄道、バスともに本数僅少のため、公共交通での訪問はかなり大変です。
    車:伊勢道久居ICより約60分
      駐車場あり
  • スタンプ・開館時間 
    北畠神社社務所
     開館時間:8:30~17:00
  • 城跡
    散策自由
  • 所要時間
    城館跡だけなら~0.5時間
    詰城含めると2時間。詰城の訪問記は別記事で。
  • 付近のスポット
    おなじ三重県の続100名城を。

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続百名城 津城 (152・三重県津市) -藤堂高虎を感じる高石垣

このブログ始めた最初に訪れた津城に縁あって再訪。
街中の開発の波に揉まれた部分はありますが、今ものこる内堀に高石垣は見事です。

この数年の自分の目の成長も感じつつ、改めて楽しんできました笑
2020年の訪問記に再訪時の写真を追加して更新しました。

お城:津城 三重県津市
HP:津市 - 「津城跡」
訪問日:2020年1月、2023年3月

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概要

1570年、織田信長の弟、信包により本格的な城として築かれました。
1580年には五層の天守も完成し、城下町も形作られました。

富田信高の頃におこった関ケ原の戦いでは、西軍からの攻撃を受け、開城となります。

戦後、信高は城主に返り咲き、加増の上で移封。
代わって藤堂高虎が入り、城の大改修と城下町の整備が行われました。
ただ、天守は再建されなかったとされます。

その後、幕末まで藤堂氏の居城でした。

訪問記

本丸・西之丸内部

始まりはJRの津駅から。近鉄も同じ場所に津駅を持ちますが、今回はJR。

あえてJRを強調したのは、青空フリーパスというJRのフリー切符を活用したから。
名古屋を中心に各方面にフリー区間が設定されたこの切符。
三重方面は鳥羽あたりまで伊勢鉄道含めて乗り降り自由で使い勝手の良い切符でした。
もうちょい列車本数あれば「あえて」をつける必要なくなるのになぁ。

改めてJR津駅。

特徴的な?に見える駅名板を写真に収めたら移動開始です。

津城の最寄り駅は近鉄津新町駅ですが、今回はバスで移動。
津駅から10分弱の三重会館前バス停より歩いて少しで到着です。

実はバス停自体がお堀の内側なので、津城に向かう道中にも石垣があったりします。

ビル群に残る遺構、見つけるとちょっと嬉しくなります。

津城に専用駐車場はありませんが、市営駐車場がお隣に。車で来ても安心です。
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再訪時はお世話になりました。

駐車場正面に早速高い石垣が残ります。
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本丸北東隅、丑寅の櫓台です。

その隣に丑寅櫓が再建されていますが、こちらはもともと多聞櫓があった場所でした。
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場所とともに外観も特に似せてはいないのだとか。もったいないような。

今の丑寅櫓脇が、今の正門です。
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かつては東黒門、東鉄門からなる枡形を持つ厳重な門でしたが、跡形もありません。
まぁ公園に守りは必要ありませんが、うーん。

向かって左手。南方面の石垣。
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右端には櫓があったはずですが、結構な低さに。
それ以外含めてどこまでが当時の石垣なのでしょうか。

入った所に現在と照らし合わせた縄張図がありました。こちらで全体像を確認です。
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本丸の周りに内堀、その外を二之丸が囲み、さらに外堀を持つ姿でした。
本丸には二か所の枡形が、その外には東之丸、西之丸の馬出が置かれていました。

都市化に伴い、現在は本丸と西之丸、内堀の一部が残るのみです。

こちらが先ほどの丑寅櫓足元から振り返った東之丸方面。見事に市街地です。
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改めて中を見てまわります。
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中央は見事に公園なので、城好きの見どころは周囲を囲む石垣でしょう。

最初は先ほどの丑寅櫓を内側から。
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外観は当時と違いながらも、内側にも窓があるところはかつてもそうだったのだとか。

と言っても、当時も天守の格式だったとはいえ、今の姿は天守に寄せすぎなような。
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一応、足元近くまで登ることができました。

下りて再度散策へ。本丸南西には天守が残ります。
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織田信包の頃に建てられた天守台石垣。
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なかなか綺麗に保たれている上に高さもあり良いですが、解説がない。もったいない。

天守台脇には埋門も残ります。
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抜けると内堀でしたが、今は児童公園に。手前の坂道は犬走の名残でしょうか。

さらに藤堂高虎さんもいらっしゃいます。
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外から見る高石垣には藤堂高虎の臭いを感じます。また後ほど。

北西側には戌亥櫓の櫓台。
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このあたり、石垣はきれいなのですが、西鉄門虎口は跡形もなく。
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かつてはこの場所に、西黒門と西鉄門からなる枡形がありました。
脇には伊賀櫓も設けられていましたが、想像は難しい状態です。

西黒門からは西之丸へつながる土橋が架けられていました。
両側に土塀を設け、西之丸側には桜門もありましたが、こちらも跡形もありません。
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西之丸方面は今は日本庭園に。かつては番所や倉庫があったそうですが。。。

ただ、頑張れば城感も感じられるもので、こちらはおそらく土橋跡地付近から見た本丸西側の石垣
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この辺りから戌亥櫓の櫓台や犬走を見られます。このアングルは良いですねー。

また、西之丸の片隅に門が置かれていました。入徳門
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1820年、藤堂高兌の頃に建てられた藩校有造館の講堂正門でした。
明治以降は役割も場所も転々としましたが、何とか今まで残ったものです。

このまま虎口を抜けて、今の城外へ。
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この虎口、本丸周辺には残っていないもので、雰囲気ありますね。

抜けたところから振り返ってもう一枚。
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やっぱり入り口はこうでないと。

津城外周・スタンプ

内部はなかなかな改変具合ですが、外から見た石垣はかなり雰囲気があります。

早速見に行きたいところですが、その前に近くの高山神社へ。

場所から推測されるように、津城ゆかりの藤堂高虎公が祀られています。

そして、ここに続百名城スタンプがあります。

モデルは丑寅櫓。そりゃそうですね。

ようやく内堀ごしの石垣を愛でていきます。

こちらは、先ほどの西之丸と土橋
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犬走を持つ石垣が良い雰囲気です。

そのまま北面へ。
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右手の西之丸と左手の本丸。石垣の高さの違いや、間をつなぐ土橋。さらに広い内堀。
中からは分かりにくい縄張りを感じられるアングルでは。

戌亥櫓の櫓台をアップで。
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いやー高い石垣です。真っ直ぐの傾斜に圧迫感すら感じる高石垣。

さらにここから丑寅櫓までずっと北多門櫓が続いていました。
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広い堀の向こうにずらっとならぶ高石垣。言うまでも無く堅牢な守りです。
藤堂高虎イズムを勝手に感じてしまいます。

最後の最後に非常に良いものを見たあと、まっすぐ進むと最初の丑寅櫓に。
これで津城一周です。

感想

満足度 2.5/5

周辺や内部の改変っぷりはかなりのもので、さすがに街中の平城は開発の波にもまれてしまったなぁという印象です。
ただ、最後に触れた石垣は素晴らしい。内堀越しに眺めるのがいちばん魅力的な見方でしょうかね。

アクセス

津城

西高木家陣屋跡 (岐阜県大垣市) -三軒並ぶ交代寄合美濃衆の陣屋跡

西濃遠征の最後は、久しぶりに陣屋跡を訪問。

西高木家陣屋跡。西、北、東の3家からなる交代寄合美濃衆の陣屋跡です。

陣屋跡ではありますが、石垣に長屋門も残っており、遺構の残りは素晴らしい。
さらに近くに東、北家の現存建築や遺構も見られて、一粒で三度おいしいような訪問となりました。

お城:西高木家陣屋跡 岐阜県大垣市
HP:国指定史跡 西高木家陣屋跡(にしたかぎけじんやあと) | 大垣市公式ホームページ/水の都おおがき
訪問日:2022年8月

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概要

美濃南部の土豪であった高木家が、関ケ原の戦いの功により4300石を与えられて入った際の陣屋跡です。
高木家は西、北、東の3家からなり、交代寄合美濃衆として大名と同等の格式を許されました。

領地は美濃、伊勢、近江三国が接する要衝であり、上方の非常事態に備えるとともに、江戸時代を通じて木曽三川の治水業務も担いました。

陣屋は牧田川の河岸段丘上に、伊勢街道に面する形で築かれており、段丘崖に築かれた石垣や埋門、移築された長屋門が今も残ります。

訪問記

西高木家陣屋跡

大垣城からその足で、大垣市の上石津地区へ。
大垣市と言っても大垣駅前とはだいぶ雰囲気の違う、山地に挟まれた長閑な地域です。
そもそも平成の大合併で生まれた飛び地ですしね。

まずは西高木家陣屋跡に建つ、上石津郷土資料館に立ち寄り予備知識を入手します。
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名前の通り、高木家だけではなく、上石津地区の歴史全般を紹介されている訳ですが、たった100円の入館料とは思えない充実の展示内容でした。
入口にも掲げられている島津の退き口もこのあたり。
その関連の展示もなかなか興味深いものでした。もっと時間を取っておけばよかった。

もちろん西高木家陣屋跡のパンフレットも入手して、散策へ
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といっても、今いる郷土資料館がすでに上屋敷跡なのでいきなり散策開始です。

郷土資料館の正面の駐車場が下屋敷跡。この辺りは少し厳しい。
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もう一度、郷土資料館側へ。
回り込んで横から眺めると、多良中学校跡の石碑があります。
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郷土資料館ができる前、上屋敷の跡地には中学校が建っていました。
廃校にもノスタルジーを掻き立てられるところはありますが、お目当ての方にはもっと惹かれます。右端にちょこっと写るアレですね。

長屋門
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右端にちょっと写っていたアレです。
もともとは下屋敷御門だったものを移築したもの。

近くの看板の絵図をみても当時の場所とは違うのがよく分かります。
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現在地は上屋敷のど真ん中で長屋門を置くような場所ではありませんね笑

もう一つ今の測量図も。
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伊勢街道を中心に、西、北、東高木家の位置関係が分かりやすい。
そして石高の違いの通り、筆頭であった西高木家陣屋跡の規模感もよく分かります。

改めて現地を見てまわりましょう。長屋門の奥には主屋が残りますが、非公開。
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当然ドアの向こうを見えませんし、

脇から見えるアレだと思いますがこれ以上は見えません。
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明治期に新築された主屋で、一部には天保年間の建物が残るとのこと。

長屋門左手を見ていきます。と言っても、この方面は草原と森
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この先に高木家の墓所があるとのことですが、夏の森に入る勇気は出ませんでした。

西高木家陣屋跡は河岸段丘の高台に建てられています。
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眼下には伊勢街道。良い立地ということがよく分かる眺めです。

そんな伊勢街道につながる道路を降りていきます。
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早速見えるのが石垣。
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立派な石垣は高く積まれていて
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何段も重なっており非常に立派。
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実際には今とは逆にここを登って陣屋に向かったと思うと、正面にそびえる石垣には圧倒されたでしょうね。
私も最初、圧倒されました。

この右手にも石垣は残り、埋門がおかれていました。
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奥が塞がれていますが、当時はここを通って中へ入っていたのでしょうか。

夏場にも関わらず完璧に草が刈られていたので、感謝しつつ少し近づいてみました。

埋門から通路の景色
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石垣の規模感が一層よく分かります。

逆に見ると埋門がいい感じで。
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もう一度道路を下りきって、伊勢街道から北面を見上げます。
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高い所にも石垣。陣屋の敷地にはかなりの石垣が使われていたことが分かります。

伊勢街道まで下りてきましたので、お隣の陣屋へ向かいましょう。

東高木家陣屋跡・北高木家陣屋跡

伊勢街道を横切って、お隣の東高木家陣屋跡

こちらは遺構少なめですが、立派な土蔵が残ります。
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文政年間の建物と伝えられる蔵は、修復を経て今も綺麗な海鼠壁を残しています。

足元の砂利道は伊勢街道。奥へ進むと緩やかに曲がりながら下っていきます。
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石垣に挟まれた坂道がなんとも言えない良い雰囲気。
右手の石垣も東高木家陣屋跡のもの。

古さと綺麗さが備わっていて良いです。
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反対側は、北高木家陣屋跡のもの。
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北高木家陣屋跡は三家の中でも最も保存状態が悪いとされ、遺構はほぼこれだけ。
石垣も手前の方はきれいすぎる気もしますが、それでもしっかりと3つの陣屋があったことを伝えてくれています。

この先に下りたくなる興味は感じつつも、ボーボーの草に心を折られて折り返します。

振り返ると先ほどの蔵を下から見上げる構図でした。
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これ、なかなか当時に近い画なのでは。

他にも伊勢街道沿いには、江戸時代の宝暦治水の際に薩摩藩から送られたとされる日向松が残っていたり
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小学校跡があったりと興味深いものが目白押し。いくらでも散策できてしまいます。

最後は、バス停越しの西高木家陣屋の石垣と、
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陣屋跡から見下ろした伊勢街道でお別れです。
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コンパクトながら良いところでした。

感想

満足度 4/5

陣屋が三軒並ぶ珍しさ。いずれも遺構を残す珍しさ。圧倒される折り重なる石垣。
長屋門も含めて非常に興味深いところでした。
この日3か所目かつ遠征の疲れがあってもいくらでも回ってしまいました。

陣屋跡はそこまで広くはありませんが、資料館含めてしっかり時間を取って回りたいところです。

アクセス

西高木家陣屋跡

  • アクセス
    電車・バス:JR東海道線 大垣駅からバス 宮バス停下車 徒歩3分
    車:名神高速 養老SICより約15分
      名神高速 関ケ原ICより約15分
      無料駐車場あり
  • 開館時間 
     上石津郷土資料館
     開館時間:9:30~17:00
     休館日:火曜日(祝日の場合翌日)、祝日の翌日、年末年始
     入城料:大人100円、18歳以下無料
  • 陣屋跡
    散策自由
  • 所要時間
    西高木家陣屋跡だけなら0.5時間
    東、北高木家陣屋跡他を含めると~1時間
  • 付近のスポット
    近くの百名城関連ではこちら

    tmtmz.hatenablog.com近くではありませんが、こちらも遺構の残りが非常によい陣屋です。

    tmtmz.hatenablog.com

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