基本情報は前の記事をご覧ください。
ちなみに、城跡の全体図はこんな感じです。上から時計回りに一周しました。
前回最後の二の曲輪中馬出からです。
せっかくここまできれいに残っているので、防御側と攻撃側の気持ちになってみます。
まずは防御側
こんな感じで堀の向こうの敵と相対していたんでしょうか。
堀の安心感がありますね。まぁ相対したくは無いですが。
続いて攻撃側
うーん。堀が邪魔。弓に頼りたくなる堀ですね。
隣にあった二の曲輪北馬出。
こちらは小さめです。曲輪の真ん中に門がありますね。
徳川時代の薬医門を再建したものです。
場所といい、戦国の最前線の城なのに立派な門があることといい、いろいろと不思議ですが、発掘調査の結果、ここに門があったことが分かったとのことです。
当時はここが入り口だったんでしょうかね。
北馬出から中馬出へ戻ります。
二の曲輪北馬出と中馬出を繋ぐ通路は土橋ですが、途中に堀切があってそこには木橋がかかっていました。攻撃されたときには木橋を落として侵入を阻んだとか。
今は平らな土橋ですが、当時は端に土塁があったようです。年月が経つとそのあたりは変わってしまいますよね。
中馬出に戻るついでにもう一度全景を眺めます。やはり堀が深くて大きいですね。
中馬出から一歩城の内側に移動して二の曲輪。間の通路もやはり土橋+木橋でした。攻め込まれない工夫が続きます。
二の曲輪は今はだだっ広い原っぱですね。
二の曲輪を南北に区切る土塁が残っていました。これも守りの工夫でしょうか。
さらに内側に移動して、本曲輪へ。
二の曲輪から本曲輪へつながる入り口には虎口がありました。
さすがに時を経て傾斜もなだらかになっていて、見た目ではちょっとわからないですね。。。
本曲輪の内側から虎口を眺めると様子が少し見えます。土塁も残ってますね。
本曲輪をぐるっと一周します。順路の看板が少なくて分かりにくい(笑)
本曲輪の裏手は断崖絶壁になっていました。こちらから攻めあがるのは厳しいですね。こちらに本曲輪を置いた意図がわかる気がします。
本曲輪から金谷市街地を眺めます。大井川は今は遠くに見えますが、当時は直下を
流れていたとか。想像がつきません。
ですが、下を見るとこんな断崖絶壁にも外堀が掘られていました。
写真ではわかりにくいですが(^-^;
いくら断崖絶壁とはいえ攻めあがってこられる可能性があると考えたのでしょう。本当にぬかりありません。
看板と本曲輪全景。曲輪自体は原っぱですし、あまり絵にならない看板かな。。
本曲輪からの戻り道は堀の底を通ります。
本曲輪と二の曲輪の間にある中堀の底から。カンカン井戸という井戸がありましたが、さすがに枯れていました。
二の曲輪に戻る途中で分かれ道を発見。こういう時は枝道っぽいところから選びたくなりますよね。
というわけで枝道と睨んだ水の手曲輪への道を選んで、下りていきました。これが失敗だったとは。。。
いつまでも水の手曲輪が出てこないと思いながら足場の悪い道を降りていくと、気づいたら登山口まで下りてしまいました。
金谷駅から歩いてくると、この登山口が最初に目に入りますが、ここはスルーしてビジターセンターに向かうことをお勧めします。なぜなら。。。
この登山口からの道は本格的な登山になってしまうからです。普通のスニーカーで来たことを本気で後悔しました。というか水の手曲輪はどこへ?
登り直してもう一度二の曲輪の南側へ。
二の曲輪南側の外堀もかなりの深さ。
そして南側には小さな馬出が3つ連続して守りを固めています。
1つ目 二の曲輪東内馬出。
2つ目 二の曲輪東馬出
3つ目 二の曲輪南馬出。
ここで大量の鉄砲玉が出土したとのこと。武田と徳川の戦いの証でしょうか。
平和な現代からは想像もつきませんが。
南側からもとの大手曲輪に戻ります。途中、神社に出ました。
諏訪神社。こちらに祀られている諏訪大明神が諏訪原城の名前の由来といわれています。
ちなみにこの諏訪神社も馬出の上にあります。
このあと、ビジターセンターに戻って、諏訪原城終了。
感想
馬出に堀にと守りの工夫が目白押しの良い城跡でした。
石垣や天守といったいわゆる近世城郭の建築物はありませんが、丸馬出の迫力だけでも一般の方も楽しめるのではと思います。
歴史のことを良く知らなくても当時のイメージができますし。
続百名城の中でも満足度はかなり高い部類でした。
おすすめです。
大手曲輪の茶畑の向こうの山には茶の文字が。静岡ですね。