松本城を見終えましたが、まだまだ松本を観光します。見どころ多いですよね。ホント。
まずは松本城の北側にある歴史遺産巡り。
有名な旧開智学校に加えて松本城ゆかりの地を巡りました。
この散策は松本城HPのモデルコース、北コースを参考にアレンジしました。
松本神社・松本城北不明門跡
まずは松本城の北隣にある松本神社へ。
敷地面積は小さな神社ですが、松本城とも縁の深い神社です。
松本城主だった戸田松平氏の祖、松平康長の子、永兼を祀る陽谷霊社(ようこくれいしゃ)が始まりです。
その後、戸田氏の祖先を祀る神社5社を合祀したことで五社と呼ばれるようになりました。
そんな松本神社には、松本城の北不明門(きたあかずのもん)がありました。
さっきの写真じゃないよ
三の丸から北側につながる部分に設けられ、馬出と合わせて造られていたそう。
今は門は現存せず、石碑のみです。
ピカピカの石碑と井戸がありましたが、現状からは惣堀も含めて想像がつかないですね。
近くにあったケヤキは非常にきれいに色づいていました。
旧開智学校
松本神社をお参りしたあとは、松本観光の次の定番旧開智学校へ。
歩いて5分くらいかな。
旧開智学校は、明治初期に建てられた小学校です。
時代を反映した文明開化のにおいを感じる擬洋風建築で、建築当時から日本を代表する学校校舎とされていました。
2019年には国宝にも指定されています。
そんな旧開智学校の最大の特徴は、一見洋風のようで洋風ではないなんとも言えないバランスの見た目です。
遠くから見ると綺麗な洋風建築のようなんですが、
近くで見ると何となく違和感を感じるこの造りが、擬洋風建築。
学校名を掲げる天使の下には龍の彫刻がいたりするアンバランスさが特徴的です。
ちなみに、ひとつ前の写真、実は車寄せの右と左で窓の数、建物の幅が違います。
こういう左右非対称さも純粋な洋風建築には無い特徴だそう。
地元の大工の方が、国内の洋風建築を見て建てたという大らかな感じが良いですね。
旧開智学校を建てられた方が、当時あった洋風建築を参考にすべく、東京近郊でスケッチされた絵が今も残っています。
旧開智学校の中はもちろんいわゆる小学校なんですが、
ペンキで描いた木目や
龍の彫刻など、今の学校にはとてもないような細かな技巧が駆使されています。
今ではまねできないと思うと、当時の余裕なのか熱意なのか、違いを感じられる気がしますね。
もう一度外に出て、最後はこちらの角にある石
ですが、これも描いたもの
洋風建築の石積みを模したデザインだそう。
和風建築は木製ですから違いに苦労されたのかもしれませんね。
建築には全く明るくありませんが、それでも特殊さ、興味深さはよく分かりました。
不勉強でも現地の案内で十分に追いつけるところも含めて面白いスポットでした。
旧司祭館
次に向かう途中にあった古そうな洋風建築も外だけ見学。旧司祭館という建物。
こちらも明治期の建築ですが、フランス人神父が立てたれっきとした洋館です。
外観は水色板張りですし、裏は全面ガラス窓といかにも洋風な建築も目を引くものでしたが、中に入る時間はなかったので外見だけ。ごめんなさい。
松本城のゆかりの地を巡る
賢忠寺跡
賢忠寺は、かつての松本城主水野忠清が、父忠重の位牌安置の場所として建てた寺でした。
が、残念ながら廃仏毀釈で廃寺に。
今は水野氏が安置したと言われる首貸せ地蔵尊が残るのみです。
高橋家住宅
もう一つ、高橋家住宅は松本市街には貴重な江戸時代の武家屋敷跡です。
が、まさかの休館日。残念。
北門馬出跡
さてさて、気を取り直して、松本城の遺構探しへ。
こちらは一見ただの児童公園ですが、このあたりが北門のあった場所付近の惣堀跡。
北門は北側から城内に入る通用門として使われていました。
もちろん今は北門も残っていませんが、この窪地が惣堀跡ということを物語っていますね。
まぁ、上の写真だけだと物語っていないかもしれませんが、
横に目を移すと惣堀につながることから、何となく昔の土地利用が想像できます。
北門の北側には馬出の名残を感じるスポットもあるそうですが、そちらは分からなかったなぁ。
北馬場柳の井戸
北門馬出跡近くの北馬場柳の井戸付近は、堀沿いの直線道で馬場に使われていた地域。
今は堀も埋め立てられていますが、お堀端から湧き出た水を使って井戸が作られたそう。
近くにはもう一つ、葵の井戸がありました。
本当にいたるところに井戸があります。
アルプスの伏流水か何かで松本は地下水が豊富なんでしょうね。きっと
と今回はここまでですが、次回もう少しだけ松本街歩きを続けます。
有名な中町通りや縄手通りへ
赤1:松本神社 赤2:旧開智学校 赤3:司祭館 赤4:賢忠寺跡 赤5:高橋家住宅 赤6:北門馬出跡(北門大井戸) 赤7:北馬場柳井戸
この旅は善光寺からでした。
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