井伊谷城に続いて、周辺の井伊氏ゆかりの地を巡ります。まずは井伊谷城近くから。
現地の案内にあった、井伊氏居館跡、井殿の塚、二宮神社、足切観音堂へ。
さすがに残っていないものありましたが、よくよく見てみると遺構が残っているような気がするスポットも。
正解が知りたいのでブラタモリとかでやってくれないかな笑
井伊谷城周辺散策
井伊谷城見学の最後、浜松市地域遺産センターからスタートです。
センターの入り口には直虎の顔出しパネル以外にこんな看板もありました。
引佐エリアだけでも結構あります。
井伊谷城への登城口で見かけた、色あせたそぞろ歩きマップと合わせて、見て回るところはすぐ決定です。
井伊氏居館跡
地域遺産センターから歩いてすぐに最初のスポット井伊氏居館跡に到着。
平時を過ごしたのが平地にある居館で、山上の井伊谷城と合わせて、本拠を形成していたと考えられています。そして詰めの城が三岳城だったと。
看板をアップにした理由は
今はこんな感じで、完全に宅地化されていて、公民館になっているから。ですが、
井伊谷城との位置関係は分かります。
それなりに広い山城とはいえ、山上でずっと生活はできないですね。
現地は完全に宅地ですが、南西側の堀は今も残っている、と看板に書かれています。
Google mapでも西側から南側に描かれる水路が、多分それ。
現地を歩いていると、水路以外に暗渠もあって、意外と当時の区画が想像できます。
公民館前のクランクも名残かな。
と思うと、やっぱり居館は大きいです。
この辺、詳しい人のコメントを聞いてみたいところです。
井殿の塚
居館に続けて井殿の塚へ
居館の一画に置かれていますので、歩いてもそこまで時間はかかりませんが、これが同じ居館にあると思うと、さすがに広いです。
こちらは今もきれいに整備されています。
この塚は、井伊直政の祖父、井伊直満とその弟、直義を祀ったもの。
直満と直義は1544年に謀反の疑いをかけられて殺害されました。
塚は大樹の下に石塔が建てられる形で今も置かれています。
この大樹がいつ植えられたのかは分かりませんが、昔から地元の方が慕ってきていたことは分かります。
この塚全体も後世の修復は受けつつも16世紀の特徴を残しているそうです。
当時の無念とそれを思う地元の方々の気持ちが伝わるような。合掌
二宮神社
次の目的地は二宮神社
南北朝のころ、井伊家に身を寄せて戦った南朝の宗良親王を合祀している神社です。
今は落ち着いた神社という雰囲気で、心落ち着けて良いです。
ただ、案内は完璧です。
2種類の看板があって、何も知らずに訪れても大丈夫。
ここには、但馬社に祀られた小野政次が合祀されています。
小野政次は井伊家の筆頭家老でした。
ただ、父の代から井伊家との関係はよくありませんでした。
父の政直は、井殿の塚に祀られる井伊直満らを讒言により謀殺した人物です。
そのころ徳川家と内通していた井伊直親の内通を、主家であった今川氏真に伝え、直親殺害の原因を作っています。
井伊直虎が城主となった後、直虎を追い出し井伊谷を専横しました。
その後、遠江侵攻を始めた家康により井伊谷城は奪還され、政次は一時近隣山中に潜伏します。
が、堀川城侵攻に際して家康に発見され、幼い子息とともに処刑されました。
そんな政次を哀れんだ人々によって建てられたのが但馬社です。
話を聞くとお社を立てて祀られる対象ではない気もして、実は慕われてたり?とか思ったのですが、看板には逆臣なれど祟りを恐れると書かれていました。そういうものですかね。
堀川城はこちらです。
足切観音堂
そんな二宮神社の近くにあるのが、ちょっと物騒な名前を持つ足切観音堂
やや荒れた印象もある参道を進むと、お堂がありました。
中は見えませんが草鞋がたくさん。名前もそうですし、足にご利益があるのでしょうか。
そんな物騒な名前は、こちらも宗良親王の伝説に由来します。
南北朝の戦いの頃、宗良親王が敵の矢を受けて落馬した後、心配した従者が見たところ傷がすでに治っていました。
その夜、観音様の夢を見た親王が朝目覚めて観音様を見ると、片足が鮮血に染まっていたのだそう。
ちょいちょい聞くような話ではありますが、草鞋の量に示される地域の方の信仰の厚さは他とは違う気がします。
これで井伊谷城近辺の散策は終了。
一見住宅街ですが、丁寧に歩いてみると色々あるものです。
ちょっとだけ足を延ばして、次は龍潭寺へ。
井伊谷城はこちらです。
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