常総線で回るこの旅最初のお城は守谷城へ
住宅街の城址公園であまり残っていないのかと思ったら、明るい公園の隣に深い堀の残る城跡がありました。
看板などは整備されつつも遺構は残してあり、予想外に良いところ。
公園ではしゃぐ子供たちも多いので、時期によっては城跡で鬼ごっこしたりしているのでしょうかね。いいなぁ
お城:守谷城 茨城県守谷市
HP:史跡 守谷市公式サイト-Moriya City
訪問日:2021年3月
概要
平将門が築いたという伝説も残りますが、千葉氏の諸流、師常が相馬氏を継いで築城したという説が有力視されています。
相馬氏は浮沈を繰り返しつつ、古河公方に従属し、守谷城を本拠に各地を転戦します。
相馬治胤の時、一時は謙信とともに勢力を拡大した北条氏に立ち向かいますが、降伏。1567年に守谷城も明け渡しました。
北条氏により守谷城は改築され、大規模な要衝となりました。
小田原の役で相馬氏は改易され、守谷城には家康配下の菅沼氏が入ります。
その後、堀田氏や酒井氏に代わりますが、酒井忠挙の移封に伴い廃城となりました。
広大だった城域も、現在は大半が住宅街ですが、本丸付近は当時の姿をよく残したまま城址公園として整備されています。
訪問記
守谷駅から徒歩20分ほどで到着。
まずは守谷小学校近くにある石碑から見学を開始です。
このあたりは拡張された後の大手門にあたります。
ちゃんと立派な看板があるんですが、周囲にはほとんど痕跡はありません。
あと、この看板の図、消えちゃっていてよく分かりません。。
ただ、左に目をやると明らかな土塁
開発から取り残されたのか、残してもらえたのか。
これを見るとここが城域ということが分かります。
小学校の敷地には枡形が残るらしいですが、敷地内は厳しいのでパスして城址公園へ。
城址公園は徒歩5分程度ですので、ちゃんと行かないと損です。
守谷城址公園へ
守谷城址公園へ到着。
今の公園としては明らかに裏口ですが、今の守谷城としてはこちらが正門(きっと)
堀跡のような湿地帯は当時は内海が広がっていました。
ちなみにいまもドロドロ。靴がやられた。。
看板には散策路と
北条氏による改築後の想定図が書かれています。
詳しい縄張りを知らずとも現地で楽しめるのはありがたいです。
台地、というか半島の先端から基部に広がるように築かれた守谷城のうち、今残るのは先端にかけての大きく3つの曲輪と付帯する小さな曲輪たちです。
空堀から見ていきましょう。
深い空堀に横矢掛、先ほどの明るい公園が嘘のような暗めの史跡に驚きです。
看板もきっちり整備されていて、住宅街にこんな良い城跡が残っているとは。
横矢掛もぬかりなく。
ここを歩いている時点でやられていますね笑
向かって左手の曲輪、御馬屋台の上へ
うっすらと土塁の残る広めの曲輪には、守谷城防衛の最前線として厩や武器庫、補給処があったと推定されています。
外の曲輪とは枡形虎口でつながっていました。
今もうっすらと名残が見て取れます。
振り返るとこんな感じでまさに枡形虎口
この先は木橋がだったそうですが、対岸が住宅街でイメージは厳しい。
振り返って隣の二の曲輪側へ。
こちらも、先ほどの空堀をまたぐ木橋が架けられていたとのこと。
対岸のやや低まった部分でつながっていたのかな。
二の曲輪
空堀に降りて先へ
二の曲輪と御馬屋台の間の空堀を北へ向かいます。
空堀を抜けた先は明るい世界 対比がすごい笑
当時は内海が広がっていたとは思えませんが、
そこから荷揚げする船着き場があったとされます。
水運まで考えた戦国期の城跡は珍しいような。
荷揚げルートにあわせて二の曲輪へ向かいます。
入り口はこちらも珍しい坂道枡形虎口になっていました。
階段手前の細長い坂道から枡形虎口の中に取り込まれた特徴的な形
高低差を稼ぐ工夫ですね。
二の曲輪に到着
防御の中心で城内で一番高い場所にあります。
守谷城の中心が守谷小学校近くに移ってからも詰めの城として維持されていました。
まずは外周から。
二の曲輪枡形虎口
御馬屋台からの木橋がつながるのはここ。
上から見るとこのような景色ということは、狙い放題ということですね。
枡形虎口の先には城門も。
ありがちな光景で城門が目に浮かぶ気がします。
城門の横には矢倉台もありました。
守谷城西南部の望楼兼戦闘指揮所として井楼が建てられていました。
随所に守りへの意識が感じられます。
二ノ曲輪から南東側の眺め。足元の畑は腰曲輪のはず。
眺めも素晴らしい。
二の曲輪内部を通って一の曲輪へ向かいます。
こう見ても二の曲輪は高い土塁に囲まれて広く、さぞ守りは堅かったのでしょう。
一の曲輪
見出し詐欺ですが(笑)まずは一の曲輪の手前の盾形曲輪へ。
間にはもちろん空堀と土橋(右端)。
深い空堀もそうですが、目を引くのは対岸の盾形曲輪が屈曲して土橋に向けた横矢掛となっている点。工夫のレベルが高い。
盾形曲輪への土橋は、、、木橋?
土橋を保護しつつ欄干をつけようとすると、仕方ないか。
土橋、、、じゃなかった木橋から見た空堀
今もこの深さで残っているのはすごいことですよね。
楯形曲輪に到着
馬出、という説もあるほど細長く小さな曲輪ですが、土塁もないので別目的と考えられています。
ここから一の曲輪への堀には引橋がかかり、障子堀になっていたそう。
今は痕跡もありませんが、山中城のような光景だったのでは、との説明がありました。
一の曲輪へ
今は工事の影響で低くなっていますが、当時から盾形曲輪や二の曲輪の方が高いのは変わらず、一の曲輪には障子堀に沿って高土居が設けてあったそう。
また、引橋の渡口には渡り櫓台が築かれています。うっすら高いのがそれかな。
一の曲輪はそこまで大きくもなく、今は何もない曲輪です。
ここだけ見ると分かりにくいですが、台地(半島)の先端に位置する守谷城でも、そのさらに先端に一の曲輪があるため、やはり最も大事な曲輪です。
有事はここに詰めていたのでしょう。
一の曲輪から降りると妙見曲輪があるそうですが、看板はあれど痕跡はよく分からず。
あとは当時の名残のような池と、
桜満開の公園を眺めつつ駅へ戻って次の城へ向かいます。
感想
満足度 4/5
駅近の住宅街にこれだけの遺構が残る城跡があるのはとても珍しいことでしょう。
隣の明るい公園を思っても、よく手を加えすぎずに残してくださったものと思います。
本当はもっと広くて失われた遺構がたくさんあるとはいえ、今残るものだけでも満足感は大きい。良いところでした。
アクセス
守谷城