にわかお城ファンの旅行記

にわか城好きの歴史探訪記

周りに影響されて城巡りを始めました。百名城スタンプ目当てだったのに気がついたら沼にハマっていました。

大河内城 (三重県松阪市) -織田軍が落とせなかった堅城

三重県松阪市の大河内城へ。
こちらも北畠氏関連の史跡です。
織田氏の侵攻に耐え、和睦に至ったという歴史を持つ堅城。

今は静かな山城跡ですが、地域の方に大切にされている様子が良く伝わりました。
フラッと訪れても遺構を楽しめますが、準備をしていればより楽しめたかな。

お城:大河内(おかわち)城 三重県松阪市
HP:大河内城跡(県指定史跡) - 観光情報 - 松阪市観光協会
訪問日:2023年3月

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概要

1415年、北畠満雅が弟、顕雅に命じ、築城したとされます。
顕雅や子息が入り、その子息は大河内御所を称しました。

1569年、信長の伊勢侵攻の際、当主、北畠具教は多気訪問記)からこの地に本拠を移し、信長の軍勢を迎え撃ちました。
この戦いに先立ち、木下藤吉郎が阿坂城(訪問記)を攻め落としています。
大河内城の北畠軍は1ヶ月以上にも及ぶ戦いに耐え、最終的に家督織田信雄に譲ることなどを条件に和睦しました。

その後、1575年に信雄は拠点を田丸城(訪問記)に移し、廃城となりました。

訪問記

三重の城めぐり、最後も北畠氏関連で松阪市の大河内城へ。
スタート地点は最寄りの大河内地区市民センターの駐車場です。
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駐車場には丁寧な解説が、
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隣の市民センターには
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御城印同封のパンフレットが置かれています。
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期せずして御城印デビューしてしまった(笑)
無料のパンフレットは中身も充実していて、ありがたい限りです。

当然パンフに縄張図があって、そちらも大変参考になりましたが、今回は看板の略図で全体を確認です。にわかモノですので。
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東の阪内川、北の矢津川に挟まれた山城です。
川の合流点近くに大手口を、中央の本丸と周辺にいくつかの郭を持ちます。
今回は順路に沿って見学していきます。

まずは駐車場近く、阪内川に架かる城山橋を渡って①の看板へ。
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この先も曲がり角ごとに数字つき看板が出ています。
登り口までは徒歩5分ほどありますが、安心です。

③の看板が登り口
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ここから山を登っていきます。

足元の整備も十分で登りやすい。どこまでも印象の良い城です。
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写真では分かりづらいですが、大手道は尾根に挟まれた谷筋。両側に櫓も立てられていたようで、狙われてるんでしょうねぇ。。。ふと高天神城を思い出しました。

tmtmz.hatenablog.com

比高は高天神城ほどではなく、登りは5分ほど。ここから色々見ていきます。
まずは大手口を見下ろす二つの櫓が置かれた曲輪から。
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と行きたいところでしたが、3月でも良い感じに緑になり始めていました。
明らかな削平地ではありますが、足を踏み入れるには準備が足りない。。

西側の尾根と櫓にかけても同様。
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手前は耕作地の跡のようにも見えますし、パスかな。
とか思っていたら、この先に火薬庫跡や城内最大の堀切があったよう。下調べ不足でした。
でも、踏み跡あったかな。。。

先へ。大手口から最初の平場は馬場跡と呼ばれています。
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名前と広さはあっていますが、今は痕跡を感じるのは難しいかな。

鳥居をくぐって二の丸方面へ。
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と行きたいところですが、看板を見る限りこの参道の南が二の丸。後世の改変も入っていますし、このあたりはよく分かりません。
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奧へ進みます。参道北側には馬場跡の石碑が建てられていました。
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先ほどの馬場跡から連続しているので一連の広い曲輪だったのでしょうか。かなりの広さです。

馬場跡の反対、南側には御納戸跡の石碑
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ここからは木が邪魔で見えにくいので、上から全体像
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こちらもかなりの広さ。こういう広さを持っていたから1か月以上籠城できたのでしょう。

正面上が本丸。さらに登ります。
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本丸に到着。今は大河内神社となっています。
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両袖に土塁があるようにも思いますが、改変もあるでしょうし、偏見かな。

本丸全景。今は小さな神社の境内の雰囲気
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まずお参りしてから徘徊します。
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先の写真では狭そうに見えたかもしれませんが、本丸もかなりの広さ。
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最奥部からの全景はこんな感じ
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二ノ丸、馬場あたりを含めて、居住性も高そうな印象です。

本丸北東側には、一段下がったところに広い曲輪がありました。
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現地でもどうやって行くのか訝しんだ記憶がありますが、最初の方にパスで、、、とか言っていたあたりから続く曲輪でした。この先に大堀切。返す返すもったいない。

北側は急斜面。この後向かうマムシ谷に面します。
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本丸から西ノ丸へ向かいます。
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間は深い空堀で切られています。
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なかなか鋭くて良い。

そしてマムシ谷につながる訳です。
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わざわざ名付けているということはマムシがいたのかな、、、というような谷ですが、大河内城の戦いでは滝川一益の軍勢がここから攻めてきたのだとか。
たしかに登り切れば本丸という急所ですが、恐ろしい。。。

マムシ谷を渡った先は、西ノ丸周囲の帯曲輪。まずは左から上へ登ります。
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こちらが全景。
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今までの曲輪より一回り小さく、最奥部の立地や高さも含めて何となくこちらが本丸のような雰囲気を感じました。

虎口にはわずかながら高まりも残りますし。これは改変じゃないんじゃないかな。
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西ノ丸周りの帯曲輪を通って、
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マムシ谷西側の尾根へ。
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写真は、西ノ丸北側に延びる小曲輪。

尾根の北端には明瞭な堀切も残っていました。
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頑張って進んだ成果が得られました。

最後は二ノ丸、馬場に戻って、南の搦手門方面へ。
こちらにも、西側に延びる分岐があります。矢津と書かれた方面へ。
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左手の高まりは略図に出丸跡と書かれたところかな。
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いろいろ探りましたが、登り口も看板も見つからず。
縄張図によって書かれたり書かれなかったりしているのも気になります。

道沿いには井戸と書かれた看板がありました。
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どこにあるのかは分かりませんでしたが。。。この井戸も織田家との戦いで活躍したのでしょうかね。
この先は城域とは思えない景色になってしまいましたので、引き返して、

最後は搦手門
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と言っても石碑だけですが。

搦手門側の登り口はこんな感じでした。ご参考まで。
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感想

満足度 3/5

城好きにとっての見どころである大堀切や火薬庫を見逃してしまったこともあって、印象的な遺構は少なめでした。
と言っても本丸や西ノ丸、大手道にマムシ谷の空堀あたりの雰囲気は十分良いもの。あと案内が丁寧なことも好印象でした。

3月でも踏み跡も見つけられなかったと思うと、火薬庫と大堀切には準備が必要なのでしょう。

アクセス

大河内城