にわかお城ファンの旅行記

にわか城好きの歴史探訪記

周りに影響されて城巡りを始めました。百名城スタンプ目当てだったのに気がついたら沼にハマっていました。

設楽原決戦場 (愛知県新城市) -武田軍対織田徳川連合軍 激戦の地

長篠城の後は、設楽原で古戦場巡り
大きな戦いの地でさすがに広い。周りがいがありました。

今は石碑のみの場所ばかりですが、今の景色からも当時を想像しながら足がだるくなるまで散策しましょう。

1. 設楽原歴史資料館 2. 信玄塚 3. 岡部竹雲斎・岩手左馬之助胤英の墓
4. 首洗池 5. 勝楽寺 6. 家康本陣 7. 家康物見塚 8. 竹広激戦地 9. 山縣昌景墓
10. 小幡信貞墓 11. 甘利信康墓 12. 柳田前激戦地 13. 復元馬防柵 14. 内藤昌豊

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設楽原歴史資料館

散策のスタート地点は設楽原歴史資料館
こちらの駐車場に車を置かせていただいて散策へ。
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看板ピッカピカです。すごい管理で。

ちなみに資料館目の前の第一駐車場は資料館の閉館とともに閉まりますのでご注意を。
第二駐車場はその後も停められます。遅くまで歩かれる方はそちらをご利用ください。

と頭は史跡めぐりばかりですが、もちろんその前に資料館も見学します。
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資料館の外も馬防柵っぽい柵があって早速雰囲気あります。
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長篠城訪問記)で学んだ鳥居強右衛門もまた登場です。
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資料館内は、長篠・設楽原の戦いと、火縄銃の展示がメインでした。

馬防柵にも違いがあるようで、真横に並べる徳川式斜めに並べる織田式
このあと見に行く予定なので違いを頭に入れておきます。
古い話なのにこういったことが分かっていることも面白いですよね。

その他、日本最古級の火縄銃や三段撃ちの真相など、気になる展示がたくさんでした。
古戦場の現地には全体像を理解できる説明は少ないので、ここでいろいろ情報収集してから周る方がおすすめです。

屋上からは陣地の様子も眺められますし。
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説明があっても木で見えませんが。

周辺散策へ

信玄塚・首洗池・勝楽寺

ここから史跡巡りへ向かいます。

先述の通り、全体を俯瞰できるものはないので、三河東郷駅前の看板で概要を確認です。

実際にはGoogleマップを参考に彷徨いました。
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今いるのは、設楽原決戦場の中央を流れる連吾川東岸の武田軍陣地側
看板では白で表記された側の上下でも中央あたりです。

まずはこちらを南下していきます。

最初は信玄塚 (大塚・小塚)
戦いを死者を祀った塚です。

こちらは大塚
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武田軍の塚です。

こちらが小塚
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織田徳川軍です。

これら2つの塚は近くに並んでいて、信玄塚と呼びます。
信玄の逝去も踏まえて武田家の終わりを告げる意味を込めて信長が名付けたのだとか。

ここから南へ向かいます。

田畑の脇にあった墓碑は岡部竹雲斎、岩手左馬之助の墓
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武田軍の左翼戦線で徳川勢との戦いの果てに最期を迎えたそう。
設楽原全域でこのような墓が点在しています。

近くでは火縄銃の弾も見つかっています。
当時の銃弾は設楽原全体でもあまり見つかっていません。
田んぼに沈んだと考えられていますが、一説には銃弾が貴重で回収されたとも。

墓から後ろに見えるのが首洗い池
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おどろおどろしい名前の通り、戦死者の首を洗った池と言われています。

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ポップないろはかるたですが、書いていることがむごい。。。

さらに南へ進んで、三河東郷駅の向こう側。南端の勝楽寺前激戦地

名前の通り勝楽寺前に広がる激戦地
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史跡にはいろはかるたが置かれていて、これを探すとお目当ての史跡にたどり着ける仕様になっています。

まずは勝楽寺に参拝
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今も続く勝楽寺は大きなお寺でした。
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きっと地元の方がたくさん参拝されるのでしょう。

もっと南に進んで勝楽寺前激戦地
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今に伝えるのはいろはかるたのみ。哀愁漂う文章です。
田んぼにはなっていますが、大体こんな平原で決戦が行われたのでしょうね。

家康本陣・家康物見塚

ここからは北上して、織田徳川軍の陣のある西岸へ

道中、連吾川にかかる橋からは決戦場を俯瞰できました。初めて広く見られたかも。
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白い看板があるあたりが竹広激戦地という激戦地の一つ。

それにしても戦いやすそうな平原です。
ここで1万5千の死者が出る大きな戦いがあったんですよね。。。

連吾川西岸の中学校には模擬馬防柵がありました。
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地元の歴史を大切にする姿勢、好きですね。

この中学校の脇に、家康本陣跡につながる八釼神社
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ただ、看板といろはかるたはあっても、本陣跡への道はよく分からず。
獣道のような道は、登る勇気が出ませんでした。
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この本陣のある山の連吾川側斜面には家康物見塚があります。
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この塚の石碑の裏に、
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家康物見塚の看板。

付近からは先ほどの竹広激戦地が一望できます。また向こう斜面の山縣昌景陣地も。
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眺望はよくて、戦況もよく把握できそうですが、ちょっと最前線過ぎる気も。
信長本陣がずっと遠くにあることを思っても、当時の家康の扱いが分かるような。

山縣昌景・小幡信貞・甘利信康墓

連吾川を渡って武田軍の陣地へ。まずは竹広激戦地を通ります。
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長閑な景色からは想像もつきませんが、先ほどの山縣隊と家康隊の激闘の地です。

そのまま進んで山縣塚
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連吾川沿いの道を少し北上したところに登り口のこの看板があります。

山縣昌景本陣の看板と
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お墓
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当たり前ですが、正面鉄塔脇には家康物見塚がよく見えます。
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戦いの前、撤退を進言したとされる昌景は、この地で何を考えていたのでしょう。

この戦いで大きな被害を出した武田軍の武将の墓は他にも点在しています。

少し北にいったところ小幡塚
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勇猛さと赤備えで知られた小幡隊。その小幡信貞の墓とされますが、詳細は不明です。

資料館の辺りまで北上して甘利信康の墓
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いろはかるた通り、たったまま切腹したという話が残されています。信じられない。。。

復元馬防柵

その甘利隊も戦ったのが柳田前激戦地
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ここにかかる橋には、騎馬隊を
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馬防柵越しに迎え撃つ鉄砲隊が描かれていました。
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柳田前激戦地を抜けると復元馬防柵
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資料館からはほぼ一本道で、ここだけをつまみ食いするのもよさそうです。

馬防柵を見て、まず何やり思ったのはその大きさ。
ある意味当たり前ですが、大きい柵で驚きました。
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この木材を岐阜から運んだなんて。f:id:tmtmz:20220110205912j:image

資料館で学んだ2種類の馬防柵が設けてあります。いや、現地の看板にも説明はありましたが。

こちらは真っすぐ並ぶ徳川タイプ
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こちらは斜めに配置された織田タイプ
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端っこには名和式鉄砲構えの堀付属バージョンも復原されていました。
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堀もあったのでしょうか。そこまで短時間でできたらすごいですが、やったのかな。

そしてこの付近にも武田軍家臣の墓がありました。土屋昌次の墓。
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本当に柵に取り付いていたらかなり怖いですが、決死の覚悟ならする、のかな。

遠くから見ても存在感のある馬防柵を前にした騎馬隊の絶望的な気持ちはいかほどだったのでしょうか。
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本当はもっとずっと並んでいたはずですし、柵の向こうから火縄銃で攻撃される絶望感は恐ろしいものだったでしょう。

武田勝頼公指揮の地

このあたり最後は、資料館近くの保育所裏にある、武田勝頼公の指揮の地へ。
Googleマップを見ても行き方が分かりにくいですが、保育所脇に道がありました。

勝頼公指揮の地の石碑とともに、
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武田四天王の一人、内藤昌豊の墓も。
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馬場信房とともに、勝頼を逃がすためにとどまって討たれたとも言われます。

まだまだ気になるところはありますが、このあたりでタイムリミット。
これでも資料館込みで2時間歩き続けていまして。。

新城市にはほかにもたくさんの歴史スポットがありますし、残りはまた別の機会のお楽しみにとっておきます。

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