明智光秀ゆかりの地ということで、名前だけで訪問を決めました。
大河が終わったところのタイミングでしたし。
ですが、古い城跡でも一部に遺構も残っていて見どころありますね。
整備状態から代々の地元の方の明智家への気持ちがもよく伝わってきました。
お城:明智城 岐阜県可児市
HP:明智城跡|観光スポット|ぎふの旅ガイド
訪問日:2021年3月
概要
1342年、美濃の守護であった土岐頼兼が明智氏と改名して築城し、約200年に渡り、明智氏代々の居城となったとされます。
長山城とも呼ばれます。
1556年、明智光秀の叔父、光安が城主の時に、斎藤義龍の攻撃を受けて落城しました。
光安も自刃しますが、光秀は城から脱出、明智家を再興しました。
明智光秀出生の地とされていますが、諸説唱えられています。
訪問記
伝光秀産湯の井戸
明智城の前にまずは近くにある伝 光秀産湯の井戸へ。
耕地整備で面影はありませんが、この辺りの田んぼの中に50年前まで塚があったそう。
今はもはや何も、という感じですね。
明智城に向かう途中で飛び出し坊や
安土城(訪問記)以来の再会。お久しぶりです。
明智城大手口
歩いて5分少々で大手口に到着
左手に見えるスペースが駐車場、パンフレットも置かれていました。
入り口前に明智城の散策マップ
こういう地図は助かります。
最南部に本丸、北に2つの入り口があって東が大手、西が搦手になっています。
本丸は残念ながら配水池になっていますが、一筆書きで回りやすい構造はありがたい笑
もう一つ歴史を感じる看板が立てられていました。
第一文から明智光秀生誕の地と言い切る潔さ。気持ちが入っていますね。
大手側の桔梗坂から城内部へ進んでいきます。
大河効果か、旗がたくさん。
城内にはところどころ丁寧な案内板を設けてあり、スムースに回ることができます。
この地図だとたくさんの曲輪が城外とされていますが、まぁそんなもんでしょうか。
左手の大手曲輪を眺めつつ、
大手門
この冠木門は色々なところで取り上げられる、明智城で一番絵になるスポットですね。
向かって右手上には中ノ曲輪(二ノ曲輪)
見事な切岸。当時はこの高さを生かして守ったのでしょう。
ちなみに、足元の看板では中ノ丸と書かれていてちょっと混乱します。どっちが正式名称?
反対側に東出丸曲輪もあるはずなのですが、下からはちょっとわからず。
そうこうしている内にすぐに最上部に到着。
ちょっと小高い丘くらいの高さですね。美濃金山城を登った日には物足りないくらい。
まずは先ほど見た中ノ曲輪を上から散策します。
今はちょっと広い平場ですが、
切岸は立派。
戻って、最上部の二ノ丸曲輪へ。
綺麗に整備されていて、ハイキングによさそうです。トイレもありますし。
二ノ丸曲輪には七ツ塚があります。
1556年の斎藤義龍との合戦で亡くなった7人の明知方武将を葬った7つの塚と言われます。
南側端には馬場。
その端には逆茂木や
馬防柵といった設備が再現されていました。
南側は結構な崖になっていて、見晴らしも良く、守りの面ではよさそう。
最西端には西出丸曲輪が置かれていました。
こちらも良い眺めで。
都市化していないので当時もこんな感じだったのかなと想像しちゃいますね。
ひるがえって本丸曲輪。
と言っても遺構はわずかに土塁が残る程度ですが、
立派な銅像や
石碑
城址碑
看板が置かれています。
こちらは大手のものより客観的に書かれていますね。
本丸北側には展望台が設けてあります。
せっかくの大河チャンスですから生かしていかないとね。
眺めはやはり素晴らしい。
美濃金山城(訪問記)も見えていて、現地の看板と同じ見た目なのですぐ見つかります。
あ、右手前の3つ山が連なる真ん中です。わからないか。。
搦手口へ
さて、本丸も堪能したところで搦手口へと降りていきましょう。
なんだか脅されていますが、
確かに大手口とは打って変わって急傾斜
搦手道は崩落してしまったらしく、こちらは後世に作られた道。
ですが、遺構をなぞって歩ける道として整備されています。
さっきまで山頂にいたのに、もうこんなに降りてきました。
腰曲輪(旗のある場所)を眺めながら、
今も湿り気のある水の手曲輪に到着。
ここが一番の重要ポイントだけあって、反対側の山腹にも防衛用曲輪がありました。
乾曲輪方面に進むと、二重の竪堀。
はっきりと残っています。やっぱりちゃんと防衛を考えて設計しますよね。
大手側には遺構は少なかったのに、ここへきて突然遺構がたくさんで戸惑います笑
もう一度水の手から登って乾曲輪へ。
ここの堀切は深い。
虎口を通って
振り返ると搦手道が手に取るように見下ろせます。
細長い乾曲輪。
西側は搦手口を見下ろす切岸になっています。
この落ち葉では見下ろす勇気はありませんでしたが(笑)
乾曲輪には六親眷属幽魂塔(ろくしんけんぞくゆうこんとう)が建てられています。
六親眷属とは明智城主一門を意味し、慰霊のためのものと推測されています。
地面に埋もれてわずかに顔を出していたものが昭和48年に見つけられており、地元の人たちが逆臣とされた明智光秀を憚ってひそかに建立した慰霊の塔と考えられています。
あとは搦手門まで下りて、明智城は一周です。
搦手側も入り口に看板が設置されているので、こちらから回っても大丈夫ですね。
天龍寺-明智氏歴代の墓
最後に、明智氏歴代の墓と日本一大きな明智光秀の位牌があるという天龍寺へ。
歩いても5分くらいです。
明智光秀公縁寺の記載がまぶしい。
見た目は普通の綺麗な地のお寺ですが、
脇に明智家歴代の墓が置かれていました。
日本一大きな位牌は、本堂にあるはずなのですが、コロナの影響か、本堂は閉まっていました。
これはタイミングが悪い。。残念。
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