引き続き、岐阜県恵那市の明知城へ。
明知城でも特に著名な遺構の数々、貯水池や畝状空堀群を回っていきます。
思わず声が出るほどの遺構でした。すごい。
お城:明知城(白鷹城)岐阜県恵那市
HP:明知城跡|観光スポット|岐阜県観光公式サイト 「岐阜の旅ガイド」
訪問日:2022年3月
訪問記
大竪堀・明智光秀公学問所
主郭から折り返してまだ見ぬ畝状空堀群へ向かいましょう。
こちらの縄張図でいう所、主郭東が二の丸で、その二の丸と南の出丸の間から東方向へ下り、青で描かれた空堀を南、北へと見ていきます。
まずは、二の丸と出丸をつなぐ土橋から東の搦手方面へ降りていきます。
この曲輪にあるのが、二つの窪地
この変わった遺構は貯水池でした。
明知城は城内に井戸がなく、その代わりの水源として用いられていたものです。
1kmほど離れた水源地から木樋で引いた水を小さい池に入れ、地中の砂や石からなるろ過装置を通って大きい方の池に湧くような仕組みが作られていた、とされています。
水の必要性はよく分かりますが、そこまでの装置を戦国期にこの山中で作り上げたというのは驚きです。
貯水池からさらに搦手方面へ。眼下に見える横堀へ向かいます。
まずは横堀を南方向へ。竪堀と組み合わせたうねうねが見えます。
遺構自体もそうですが、状態良く明瞭に残っていることにも驚きです。
今にも土塁の向こうから何かが飛び出してきそうな。。。
この竪堀がここだけで5条あるんですからすごい
それぞれの竪堀はそこまで大きなものではありませんが、こちらから見て最後の一本は非常に大きく、麓まで続く大竪堀と呼ばれています。
竪堀は肉眼で見てもよく分からないほど埋まっているものが多いですが、ここは写真ですらよく分かるくらい明瞭です。
引き続き横堀を進みます。
土塁と出丸切岸が急峻です。
進むと、明智光秀公学問所 天神神社に到着です。
天神の名の通り、菅原道真を祀り、北野天満宮の分祀として信仰を集めるこの神社
明智光秀が若いころ、ここで学問に精通したという言い伝えがあるそうです。
光秀出生の地はもう一つの明智城、長山城の方が有力だと思っていましたが、この話を聞くとちょっと心が揺らぐなぁ笑
畝状空堀群
折り返して、横堀を北方向へ
大竪堀などを越えて少しのところにも明瞭な竪堀
その先、横堀の底を通って下りる道があります。これが搦手道
下りると搦手登城口に到着です。
縄張図では一番東にあたり、この方角は尾根続きの地形をしています。
搦手登城口には駐車場もありますので、ここからスタートしても良いかもしれません。
確かパンフレットも置いてあったような。
搦手からの登城路はこんな感じ。
大手道でも比高は知れていますが、こちらの方がさらに近い。
今は堀底を通りますが、当時は尾根沿いにルートが置かれたと考えられています。
搦手道の近くにも曲輪がたくさん設けられています。
本丸北砦という名の曲輪も。
搦手近くにあったと思いますが、搦手は本丸の東側。位置と名前が合わないような。
このあたりから見上げると本丸、二の丸の切岸の険しさを実感できます。
ただ、それよりもっと印象的なものが横に。
畝状空堀(竪堀)です。明瞭な竪堀が3条も。
はやる気持ちにせかされて、見えている竪堀へ。
天神神社方面と同様に、こちらもやはり横堀を組み合わさって独特の景観を作り出しています。こっちの方が高低差がすごいかな。
竪堀は今でも鋭い。
そしてこんなものが何条も繰り返されています。
本当に印象的。
進むとさらに高く、深くなってきます。
余裕で背丈を越えるような高さ。すごいです、これ。
振り返って高さを強調した一枚を。
強烈な竪堀は明知城全体で、明確なものだけで19本あるのだとか。
ここの竪堀は別格ですね。
畝状空堀群の間には尾根を利用した曲輪も。
この方面の防衛の前線基地になっていたのでしょうか。
曲輪を越えてもまだ畝状空堀は続きます。
土塁がやや低くなったり
逆に深くなったり。どこまで当時と同じかは分かりませんが、意図があるような。
最後は、深い深い竪堀の中を通って
最初の看板まで帰ってきました。
文字通り城の周りを取り囲む横堀とそれに続く竪堀。ごちそうさまでした。
感想
満足度 4.5/5
明智氏ゆかりの城(のうちの可能性の低そうな方)というPRを聞いて勝手に侮ってしまいましたが、遺構はとんでもない。
畝状空堀群に横堀との連携に、浄水機能付き貯水池や急峻な切岸。
最後の方のうねうねぼこぼこには思わず声を上げてしまいました。人が少なくて良かった笑
本丸や二の丸と言った曲輪はそこまで特徴的ではないものの、残り具合はよく、どこまでも見ていて飽きない城でした。
アクセス
明知城