にわかお城ファンの旅行記

にわか城好きの歴史探訪記

周りに影響されて城巡りを始めました。百名城スタンプ目当てだったのに気がついたら沼にハマっていました。

百名城 松坂城 (48・三重県松阪市)1/2- 蒲生氏郷の高石垣 大手から本丸へ

百名城の松坂城へ。

松阪と言えば牛肉かもしれませんが、有名店の近くにある松坂城にも、負けず劣らず?素晴らしい石垣が残っています。

商都松阪の礎となった城であり、その城下町であり、元をただせば牛肉が有名になったことにもどこかではつながるでしょう。知らんけど。
お肉の待ち時間にも、食後の腹ごなしにも、それ以外にも、少し歩いて高石垣を見に行ってはいかがでしょうか。

お城:松坂城 三重県松阪市
HP:国指定史跡・日本100名城 松坂城跡 - お肉のまち 松阪市公式ホームページ
訪問日:2017年3月、2023年3月

f:id:tmtmz:20230325195720j:image

概要

1588年、蒲生氏郷が松ヶ島城に代わる城として築きました。
三層の天守に金ノ間などの櫓を持ちました。さらに、城下には楽市楽座を設けるなど現代にいたる礎となりました。

その後、氏郷が移ると服部一忠が、秀次事件の後は古田重勝が入りました。

古田氏の移封の後は、紀州和歌山藩領となり、明治に至ります。この間に天守は台風で倒壊したとされます。

訪問記

表門~本丸下段

訪問開始は、松阪市駐車場から。
f:id:tmtmz:20230325195710j:image
松坂城、今の松阪公園の駐車場最寄りの駐車場です。街中なのに無料とは太っ腹。

街歩きマップにもあるように松坂駅からもそれほど離れておらず、徒歩15分ほど。
f:id:tmtmz:20230325195704j:image
途中の見どころを追って散策するのも良いかもしれません。
松阪牛の名店も駅と松阪城の間にありますし。

駐車場から城まではすぐ。道路沿いの高石垣を見上げながら歩くと、
f:id:tmtmz:20230325195712j:image

表門の枡形虎口が見えてきます。
f:id:tmtmz:20230325195720j:image
早速の圧巻の石垣にテンションが上がります。

ここにあった案内板をお借りして、全体像を確認しましょう。
f:id:tmtmz:20230325195732j:image
阪内川沿いの独立丘陵に築かれた平山城です。
最高所に天守台、その周囲に上下段に分かれた本丸、きたい丸、二の丸、隠居丸などの郭を持ち、主要な曲輪は総石垣造となっています。

大手門を越えると、道は二手に分かれています。
f:id:tmtmz:20230325195734j:image
左手は土戸御門を抜けて二の丸方面
f:id:tmtmz:20230325195737j:image
奧の櫓台は本丸下段の月見櫓。

右手は遠見櫓の下を通って、本丸下段へ続きます。
f:id:tmtmz:20230325195740j:image

そして真正面は本丸下段の石垣。高い。
f:id:tmtmz:20230325195857j:image
野面の荒い高石垣。良きです。

まずは向かって右手の道を通って本丸下段方面へ向かいます。
大手枡形を構成する石垣上に井戸がありました。
f:id:tmtmz:20230325195846j:image
f:id:tmtmz:20230325195852j:image
江戸時代の絵図では城内に3カ所井戸が描かれており、今もそれらは現存します。
こちらはその当時からの井戸で、いまも水を湛えているとのこと。

その先には松阪市立歴史民俗資料館。
f:id:tmtmz:20230325195903j:image
建物も、松坂城と関係ないとはいえいい感じに年季を帯びています。
飯南郡図書館として明治45年に築かれたもの。

ここに100名城スタンプが置かれています。
f:id:tmtmz:20240925224518j:image
もちろんスタンプも石垣。ですよね。

続けて本丸下段へと進みます。櫓台には左から遠見櫓と鐘ノ櫓が建てられていました。
f:id:tmtmz:20230325195912j:image

今はいずれも櫓台に登れるようになっています。こちらは本丸上段側の鐘ノ櫓。
f:id:tmtmz:20230325195935j:image
遠見櫓よりやや高く、通路をよく見下ろせます。

一方の遠見櫓。足元もそうですが、
f:id:tmtmz:20230325195943j:image

名前の通り大手越しに城外が一望できます。
f:id:tmtmz:20230325195946j:image
真正面はかつての大手道。良く見えます。

本丸下段を散策しましょう。f:id:tmtmz:20230325195952j:image
こちらは全景。右手が本丸上段、左手少し上がったところが、月見櫓です。
本丸と言いつつ、上段とは明確に区切られた本丸下段。
それなら二ノ丸でいいのではと思ったら、別の曲輪が二ノ丸という。どういう事情でこう名付けられたのでしょうか。

こちらは本丸上段の石垣。相変わらず荒くて高くて良いです。
f:id:tmtmz:20230325195938j:image

こちらが月見櫓の櫓台。本丸下段の東側にあたります。
f:id:tmtmz:20230325200003j:image
風流な名前ですが、大手道を見下ろす立地で、守りでも重要だったのでは。

南側の角には太鼓櫓がありました。
f:id:tmtmz:20230325200009j:image

搦手筋の中御門を見下ろす場所に位置します。
f:id:tmtmz:20230325200014j:image
中御門も厳重な作りをしていますね。
足元は少し前まで石段でしたが、コンクリピカピカの手すり付きに。歩きやすさも大事ですが。。。ねぇ。

本丸下段の3つの櫓、遠見櫓、月見櫓、太鼓櫓は多聞櫓でつながった構造でした。
さぞ立派な見た目だったでしょう。

本丸上段~天守

中御門から続くルートで本丸上段へ向かいます。
先ほど見下ろした部分も枡形でしたが、本丸に続くこちらも枡形。厳重です。
f:id:tmtmz:20230325200029j:image

本丸上段全景。奥に見えるは天守台。
f:id:tmtmz:20230325200040j:image

こちらは周囲を巡る多聞櫓方面を眺めます。広さはなかなかなもの。
f:id:tmtmz:20230325200042j:image

本丸にも多聞が置かれ、櫓をつないでいました。こちらは東にあった金ノ間櫓。
規模が大きな2層の櫓で、文字通り金箔が貼られた金の間があったそう。
f:id:tmtmz:20230325200045j:image
見下ろす先は、鐘の櫓と遠見櫓です。つまり大手筋。
f:id:tmtmz:20230325200053j:image
振り返れば、中御門から搦手筋も見下ろせる要所に置かれています。威厳を見せつつピンポイントに櫓を配置している、のかな。

北角からの本丸上段全景。ここは櫓はありませんでした。さすがに近すぎるか。
f:id:tmtmz:20230325200059j:image

代わりに足元には排水溝。実用的な設備が置かれていました。
f:id:tmtmz:20230325200102j:image

天守台に向けて進みます。天守台脇には敵見櫓が置かれていました。
f:id:tmtmz:20241005153502j:image
名前と場所からすると北西方向、阪内川越しの敵を見る櫓だったのでしょうか。

そのまま天守へ。
f:id:tmtmz:20230325200111j:image
本丸内部から見た天守台の高さはそれほどではありませんが、
f:id:tmtmz:20230325200113j:image

広さはなかなか。三層五階の天守が建っていたというのも頷ける。
f:id:tmtmz:20230325200121j:image

天守台石垣には転用石もありました。石棺の蓋。
f:id:tmtmz:20230325200140j:image
さすがにこれだけ石材を集めるとなると大変だったんでしょうね。

天守台から金の間櫓方面の本丸上段と
f:id:tmtmz:20230325200119j:image

きたい丸を見下ろします。
f:id:tmtmz:20230325200124j:image
きたい丸方面は、なかなかの高さ。こう見ると全く低くは感じません。

この先、きたい丸方面へ向かいますが、続きはまた次回

城 - ブログ村ハッシュタグ
#城

高城 (三重県松阪市) -阿坂城から出城へ向かう

阿坂城訪問からその足で出城の一つ、高城へ。そのままハイキングコースをなぞる形になりました。

あくまで出城、附ではありますが、国指定史跡。
大きくはなくとも良好な遺構がありました。登りもほとんどなくて足にも優しいですし。

お城:高城 三重県松阪市
HP:公式のものはありません
訪問日:2023年3月

f:id:tmtmz:20230322222830j:image

概要

築城時期などは不明です。室町時代に築かれ、枳城とともに阿坂城の出城であったと考えられています。

織田信長による伊勢侵攻の際には、阿坂城攻めにおいて同様に木下藤吉郎率いる軍勢の攻撃を受けて落城したとも伝わります。

阿坂城と合わせて附として国指定史跡に指定されました。

訪問記

阿坂城から高城へ

阿坂城のうち、白米城を訪問したところからスタートです。
まずは、麓にあった看板で位置関係を確認しましょう。

上に描かれた阿坂城から下(東)に高城、左下(南東)に枳城の両出城が見えます。
いずれも遺構の残りがよさそうとのことですが、今回は時間の関係で高城を訪問です。
「現在地」にある駐車場に近かったので(笑)

ということでスタート地点、阿坂城(白米城)の曲輪下に戻ります。
f:id:tmtmz:20230322222406j:image
高城に向けた看板が立ててあり助かります。

が、次の分岐は分かりにくい。浄眼寺周回コースの看板に従うのが正解です。
f:id:tmtmz:20230322222409j:image

すると見えるのが白米城足元の竪堀
f:id:tmtmz:20230322222412j:image

結構はっきりと残っています。
f:id:tmtmz:20230322222422j:image

そのまま道なりに進むと森の中にひっそりと阿坂城の案内板。
f:id:tmtmz:20230322222429j:image
せっかくしっかりと解説されているのに場所がもったいないような。

下り勾配をまだまだ進みます。
f:id:tmtmz:20230322222432j:image
銀明水、は見忘れました。。。

出発して10分ほどで分岐に。
f:id:tmtmz:20230322222444j:image
ここは高城の案内がしっかりあって安心です。

左手へ進み、どんどん下ります。
f:id:tmtmz:20230322222453j:image
最後は沢沿いの道。こちらから登る人向けの看板もありました。
f:id:tmtmz:20230322222502j:image

これで山からは脱出。あとは舗装路を進みます。
f:id:tmtmz:20230322224417j:image
ここも看板が完備でした。ひっくり返ってちょっとした謎解きになっていましたが。

最後は道なりに高速をくぐって、阿坂城から徒歩30分ほどで高城に到着です。

高城散策

到着です、というのはGoogleマップでの話でして、到着したはずなんですが、入り口が見当たらない…

城跡西側。堀っぽい道だなと思いつつ、看板が無いのでスルーしたら、実はここに入口がありました。
f:id:tmtmz:20230322222529j:image
これまでずっと看板があったのに、ここにきて急になくなるなんて。

さまようこと5分ほど。結局城跡に沿った道を東に進んで
f:id:tmtmz:20230322222534j:image
この分岐を左に進んだところに、

入り口を見つけました。
f:id:tmtmz:20230322222537j:image
こちらは看板完備。こっちから入ってほしいのかな。

進むとすぐに森の中。
f:id:tmtmz:20230322222549j:image
ただ踏み跡は十分。登りもしれています。

と言いつつ、意外と両側が急斜面になってきたところで
f:id:tmtmz:20230322222551j:image

案内板が登場。
f:id:tmtmz:20230322222600j:image
阿坂城の喧騒とうって変わって誰もいない城ですが、丁寧な解説が書かれています。
さすがは国指定史跡。ありがたい。

略測図もありました。
f:id:tmtmz:20230322222604j:image
だいぶ玄人向けではありますが、載せていただいたことがありがたい。
こちらを見ながら、解説と現地訪問の記憶とをあわせてまずは全体像を確認です。

高さ10mにも達する土塁を持った方形の郭が中心です。
比高の割に周囲は急こう配で、中心となる郭以外にも南東に削平地、西に切込み平地、北に二重堀を持ちます。

上図の右手、南東側から主郭に侵入です。

正面が主郭の東側虎口。すでに高い土塁が見えています。
f:id:tmtmz:20230322222606j:image

手前には狭いながらも明確な平場。こちらが解説で触れられていた削平地でしょうか。
f:id:tmtmz:20230322222610j:image

虎口へ。

通路は直前で折れて、軽く枡形状になっています。小さい城ながら工夫を感じます。
f:id:tmtmz:20230322222619j:image

虎口を抜けて郭内部。結構広い郭内部では、やはり土塁の高さに目が行きます。
f:id:tmtmz:20230322222830j:image
こちらが南向きで
f:id:tmtmz:20230322222836j:image

こっちが北向きだったかな。
f:id:tmtmz:20230322222839j:image
南北の土塁は低めです。阿坂城→高城のラインで東側が防御正面かと思ったら、西側に向けて土塁が高くなっていました。一番尾根が続いているためでしょうか。

もう一つ気になるのは、やたらでこぼこした郭内部。
北側土塁付近から見たところですが、中央に窪みがあるのが分かるでしょうか。
f:id:tmtmz:20230322222854j:image
こんな感じで、郭内部には何か所か窪地があります。何に使っていたのでしょうかね。

西側の虎口。やはり高い土塁に囲まれた虎口はf:id:tmtmz:20230322222900j:image

ハッキリと枡形になっています。
f:id:tmtmz:20230322222912j:image
振り返ってもう一枚。
f:id:tmtmz:20230322222918j:image
東西の守りはともに厳重ですが、こちらは東にもまして厳重なような。

この先は細い通路を経て、
f:id:tmtmz:20230322222921j:image

平場へ。
f:id:tmtmz:20230322222924j:image

振り返って見える土塁はそれはそれは高いものでした。
f:id:tmtmz:20230322224420j:image
この先の通路は東側よりずっと分かりづらいですが、その分ロープで誘導いただいていました。
f:id:tmtmz:20230322223852j:image

最後は長い階段で最初に見た西側の堀底のような道へ。
f:id:tmtmz:20230322223900j:image
急ぎ足で西側虎口から5分ほどでした。

さらに歩いて浄眼寺さんまで来たら周回コース完歩です。
f:id:tmtmz:20230322223909j:image

引き続き、三重の名城をまわります。

感想

満足度 2.5/5

出城なので規模は小さいですが、土塁や枡形などは十分に見どころと言えるでしょう。
阿坂城訪問のその足で寄り道するのはアリだと思います。

北の二重空堀を見忘れましたが、どこから行けたのかな。。。

2024年時点で猟場になっているという噂もありますので、ご注意ください。

アクセス

高城

阿坂城 (三重県松阪市) -白米伝説の地

三重県の阿坂城へ。

椎ノ木城と白米城とも呼ばれる2つの郭を持つ山城は、白米にまつわる伝説が残る地。
今の姿は、30分の登りが必要な山城とは思えないほどの人気の地でした。

遺構も素晴らしかったですが、そこに興味を持つ人はどれくらいいたかなぁ。

お城:阿坂城 三重県松阪市
HP:阿坂城跡(国指定史跡) - 観光情報 - 松阪市観光協会
訪問日:2023年3月

f:id:tmtmz:20230322222129j:image

概要

築城時期は定かではありませんが、北畠氏が築いたと考えられています。記録上の初出は1352年です。

1415年、城主、北畠満雅は足利幕府軍を迎え撃ちます。
水断ちに出た幕府軍に対して、馬の背に白米を流して水があるように見せかけたと伝わります。

1569年、北畠氏は織田信長の侵攻を受けます。
当主、北畠具教が籠る大河内城に先だち、阿坂城は木下藤吉郎らの攻撃を受け、落城。
そのまま廃城となりました。
この際、藤吉郎は生涯唯一の矢傷を負ったとされます。

南北2つの郭を持ち、北を椎ノ木城、南を白米城とも呼びます。
1982年には、出城である枳城、高城とともに国指定史跡に指定されています。

訪問記

浄眼寺

三重の城めぐり二日目。この日は朝一から登ります。

駐車場が混むとの事前情報から8時ごろ到着しましたが、駐車場はすでにいっぱい。
f:id:tmtmz:20230322221623j:image
なんとか最後の1台に滑り込み。早めに来てよかった。。。

休日とはいえ城跡でこの人出はなかなか見ません。この日はWBCの準決勝日本戦だったのに。
f:id:tmtmz:20230322221634j:image
ただ、この車の主は大半がハイカーさん。人気のハイキングコースでした。
遺構の写真なんか撮ってたら悪目立ちしてしまうかも笑

登り口は駐車場から左奥に進む道ですが、その前に麓の浄眼寺さんを参拝です。
f:id:tmtmz:20230322221643j:image
明らかに阿坂城と縁のありそうな立地のこちらのお寺。
やはり1478年に北畠氏が建立したお寺でした。
f:id:tmtmz:20230322221648j:image
その後は北畠氏の菩提寺で、阿坂城に対する居館でもありました。
f:id:tmtmz:20230322221651j:image
阿坂城と同じく織田信長の侵攻で焼失しますが、宝暦年間に再興した本堂、禅堂、総門が残ります。
f:id:tmtmz:20230322221654j:image
いまも綺麗な境内に清々しい気持ちになったら、登城を開始しましょう。

椎ノ木城

駐車場脇の登城路から登り始めます。
f:id:tmtmz:20230322221656j:image

さすがに舗装路は初めだけですが、足元の整備は万全。傾斜もほどほどで心地よい。
朝一なのにもうすれ違う人までいる人気っぷりも頷けます。
f:id:tmtmz:20230322221702j:image

ただ、その分のぼる距離は長いのですが。
f:id:tmtmz:20230322221708j:image

なんでも遺構に見える病を発病してしまいそうです。虎口?みたいな。
f:id:tmtmz:20230322221728j:image

登り始めて30分ほどで遺構の看板が出てきました。

竪堀と
f:id:tmtmz:20230322221742j:image

土塁、虎口です。
f:id:tmtmz:20230322221745j:image
いずれもよく分かる残り具合。

土塁の奧には堀切も。
f:id:tmtmz:20230322221751j:image

振り返ってもう一枚。
f:id:tmtmz:20230322221800j:image
明らかに手のかかり具合が違います。今までのは違ったなぁ笑

入った所に分かりやすい地図もありました。全体像を確認しましょう。
f:id:tmtmz:20230322221806j:image
図では左右に並びますが、南北にならんだ曲輪を持ちます。
北が椎ノ木城とも呼ばれる細長い曲輪。先の土塁の他にも竪堀、空堀などの防御機構を備えます。
南は白米城とも呼ばれます。白米伝説と同じ名前ですが、こちらは丸い曲輪中心で防御機構は少なめ。椎ノ木城の方が中心であったと考えられます。

それでは椎ノ木城から散策していきましょう。

まず目の前に広がるのが腰曲輪と切岸。切岸の上は椎ノ木城の曲輪です。
f:id:tmtmz:20230322221815j:image

f:id:tmtmz:20230322221817j:image
惚れ惚れするようなきれいな切岸です。

周辺は、通路と脇に腰曲輪が置かれています。
f:id:tmtmz:20230322221823j:image

進むと竪堀で区画され、
f:id:tmtmz:20230322221832j:image

もういっちょ腰曲輪
f:id:tmtmz:20230322221834j:image
椎ノ木城にあたる曲輪周囲は、小さいながらも守りの工夫が感じられます。

南北に細長い曲輪の中央北より、先ほどの竪堀の反対にあたる斜面から登りましょう。
軽く下がった場所に、虎口が置かれています。
f:id:tmtmz:20230322222007j:image

まずは左手、北側から全景です。虎口近辺には土塁もうっすら残ります。
f:id:tmtmz:20230322221858j:image

眺望は厳しめですが、
f:id:tmtmz:20230322221900j:image

麓から最初に着く虎口は綺麗に見下ろせる立地。守りやすそう。
f:id:tmtmz:20230322221906j:image

振り返ってもう一枚。曲輪への虎口を眺めます。
f:id:tmtmz:20230322221909j:image

今度は南側の曲輪へ。こちらは高さがあって、f:id:tmtmz:20230322221919j:image

より広く、土塁も全体に残ります。
f:id:tmtmz:20230322221922j:image
ここが中心かな、と推測。

南へも曲輪は伸びていて、
f:id:tmtmz:20230322221928j:image

このあたりが行き止まり。
f:id:tmtmz:20230322221934j:image

f:id:tmtmz:20230322221937j:image
ちょっと高いですし物見だったんだろうなぁと。

勝手に物見になった気持ちで眺めると、白米城の石碑が見えました。
f:id:tmtmz:20230322221943j:image
こうやって情報伝達をしていたのかな

下りて白米城方面へ。椎ノ木城南側の虎口
f:id:tmtmz:20230322222028j:image
左は先ほどまでいた曲輪、右は土塁です。

出たところには堀切もあり、通路は折れて見通しも悪く、なかなか厳重です。
f:id:tmtmz:20230322222039j:image

白米城

そのまま白米城へ。いきなり今の阿坂城では一番と思われる難所。急坂です。
f:id:tmtmz:20230322222051j:image
写真では伝わりづらいですが、おもわずロープを頼るレベルの傾斜がありました。

下りたところにもう一つ堀切
f:id:tmtmz:20230322222053j:image

f:id:tmtmz:20230322222056j:image
この立地からすると当時の通路は上だったのかな。

もう一つ。こちらはより大きい。
f:id:tmtmz:20230322222108j:image
堀を越えると見えてきました。
f:id:tmtmz:20230322222114j:image

白米城の切岸
f:id:tmtmz:20230322222126j:image
椎ノ木城にもまして急です。

こちらは周囲に腰曲輪と呼べるものもないので、さっそく登りましょう。
f:id:tmtmz:20230322222123j:image

白米城と呼ばれる曲輪の全景
f:id:tmtmz:20230322222129j:image
土塁も何もなく、ピークを平らに削った曲輪。

あまりにも見晴らしが良く、逆に印象的です。
f:id:tmtmz:20230322222150j:image
曇り空でも、伊勢平野を一望。伊勢湾越しにうっすら知多半島?まで見えています。
そりゃ人気のハイキングコースにもなるわ。

腰曲輪がないと書きましたが、実は椎ノ木城からつながる通路とは反対側、東側一段下がった所に郭が伸びています。
f:id:tmtmz:20230322222141j:image
最後は降りてこちらへ。

もちろん直接は降りられないので、回り込んで向かいます。
これだけ高い白米城の曲輪でも、間にはちょっとした堀もありました。
f:id:tmtmz:20230322222213j:image

こちらの曲輪はそこまで平らではなく
f:id:tmtmz:20230322222216j:image

東端が少し上がっていました。
f:id:tmtmz:20230322222221j:image

眺めも良いですが、上からの方がもっと良いような気も。
f:id:tmtmz:20230322222224j:image

これで阿坂城は一段落。このまま出城方面へハイキングを続けましょう。
f:id:tmtmz:20230322222238j:image
次の城の名前もちょっと見えていますね。

感想

満足度 4/5

イカーに交じっての登城でしたが、途中からは視線が気にならなくなるくらいの良好な遺構でした。
遺構ももちろんですが、印象的なのはやはりその眺望。時間も体力も使いますが、朝一から登る価値あります。

椎ノ木城からでも白米城はかなり遠く見えましたが、米で馬を洗う様はどこから見えたんでしょうかね。

アクセス

阿坂城

  • アクセス
    電車・バス:JR・近鉄松阪駅からバス 
          岩倉口バス停下車 徒歩約15分
    車:    伊勢道 嬉野一志ICより約15分、松阪ICより約10分
          無料駐車場あり
  • 城跡
    散策自由
  • 所要時間
    登山口から椎ノ木城までで約40分、白米城までで1.5時間。
    下りも含めると約2時間
  • 付近のスポット
    三重と言えば北畠氏巡り。こちらが本拠地です。

    tmtmz.hatenablog.com

    tmtmz.hatenablog.com三瀬の変の舞台の一つとなった地です。

    tmtmz.hatenablog.com

    こちらは再興ののろしを上げた地です。

    tmtmz.hatenablog.com


    ↓気が向いたら押してやってください

    城 - ブログ村ハッシュタグ
    #城


 

五箇篠山城 (三重県多気町) -北畠氏再興ならず

多気北畠氏居館跡からその足で向かったのは、五箇篠山城

記録は少ないものの、この地の古城の多分に漏れず、やはり北畠氏関連のエピソードを持ちます。

訪問理由はルート上にあるから、という軽いものでしたが、アクセス容易なわりに遺構の残りは良く、良い意味で裏切られた名城でした。
北畠氏居館跡からのルートに選んだ道路には悪い意味で裏切られましたが。

お城:五箇篠山城 三重県多気
HP:自然地形を巧みに利用−五箇篠山城の攻防
訪問日:2023年3月

f:id:tmtmz:20230322065823j:image

概要

鎌倉時代中頃、野呂氏隆が築いて以来、野呂氏の居城であったと伝えられています。

文献上の初出は、1343年、仁木義長による攻城です。

室町期には五箇氏が入っていたと伝えられます。
五箇氏は北畠氏に背いたとして誅殺され、その後は野呂氏、織田信長の伊勢侵攻の後は安保氏が入ったとされます。

1576年、北畠氏は三瀬の変で滅亡します。

本能寺の変の後、北畠具親がすでに荒れていたと思われる五箇篠山城に入り再興ののろしを上げましたが、鎮圧されました。

訪問記

仁柿峠越え

多気北畠氏居館跡、霧山城の後、その足で訪問です。

まずは下の地図で左上方向にある、多気北畠氏居館跡(北畠神社)との位置関係、その間を短絡する国道368号線をご覧いただいてから、この先をお読みください。

途中のクネクネは気になりますが、この道を通らないと日没タイムアップだったので迷うことなく突っ込みました。最初はすごく良い道でしたし国道ですし。

何度も何度も「大型車通行不能」の看板が三重県から出されているあたり、嫌な予感はしましたが、まぁ行けるだろうと思ってしまったんですよね。大型車じゃなかったし。

何度目かの看板の後、道は急に細くなり、ひび割れだらけになり、ついにはガードレールすらない場所まで。。。失敗した。

後で知りましたが、有名な酷道のようですね。

ja.wikipedia.org

薄暗い雰囲気に車一台分の狭い道、山城で1人の時よりずっと不安でした笑
視界が開けず断崖を感じなかったこと、対向車が来なかったことが幸いでした。もう通らない…

五箇篠山城訪問

多気北畠氏城館から恐ろしい酷道を超えて辿り着いた五箇篠山城。普通にアクセスすればこんなことにはなりませんので、ご安心を。

ちなみに、バイパスが作られていて、もう少しで楽にアクセスできるようになります。
完成予定は延び続けているようですが。出来たとてあまり転戦する方は居ないかもしれませんが笑

車を置かせていただいたのは多気町立勢和図書館
図書館の周りは運動公園になっていて、駐車場もひろくてありがたい。
f:id:tmtmz:20230322065710j:image
奥の階段が五箇篠山城の登り口。

背中側が図書館です。
f:id:tmtmz:20230322065712j:image
図書館内には五箇篠山城の解説もありますので、先に立ち寄るのがおススメ。
現地には縄張図はありませんし。

全体像は余湖さんのHPよりお借りした縄張図で確認です。現地でもお世話になりました。

山頂部に東西4つの郭が並び、一段下がった曲輪を通路としています。
1郭には枡形虎口や土塁も設けてあり、山腹にもたくさんの腰曲輪が置かれていました。全部は追えていませんがいくつかは素人目にも見えるものでした。

それでは、達筆の城址碑の脇から登城開始。
f:id:tmtmz:20230322065715j:image

今の登り口は縄張図の1郭下に描かれた階段。
登りはしますが、公園整備の一環か、非常に歩きやすくて助かります。
f:id:tmtmz:20230322065721j:image
頂上まで250mとのこと。登り始めの写真だったはず。

道中、縄張図にも描かれていた腰曲輪の一つかと。
f:id:tmtmz:20230322065731j:image

ものの5分で登り切りました。
f:id:tmtmz:20230322065736j:image
こちらが1郭に通じる枡形虎口

横に目を向ければ城内を連絡する腰曲輪です。
f:id:tmtmz:20230322065742j:image

1郭の切岸もなかなか急な状態で良いです。
f:id:tmtmz:20230322065748j:image

足元は運動公園。
f:id:tmtmz:20230322065739j:image
子供たちの楽しそうな声が響いていました。ここに人がいるとは思ってないだろうな笑

改めて1郭内部へ向かいましょう。こちらが1段低い枡形部。
f:id:tmtmz:20230322065753j:image
広さはさほどではありませんが、残り具合は素晴らしい。

土塁上から見下ろすとこんな感じ。
f:id:tmtmz:20230322065940j:image
再興を図った際に改修されたのでしょうかね。

1郭内部
f:id:tmtmz:20230322065756j:image
こちらもそんなに広くはありませんが、土塁に囲われた曲輪です。
土塁は今も明瞭に残ります。主郭だったんだろうと思わせられる作りです。

眺望も素晴らしい。確か北方向と
f:id:tmtmz:20230322065806j:image

西方向
f:id:tmtmz:20230322065812j:image
足元には腰曲輪も見えています。

南方向は先の運動公園で、いずれの方向も断崖で見晴らしのきく立地です。

振り返って1郭全景。奥の細くなっている部分、枡形周囲の土塁へ向かいます。
f:id:tmtmz:20230322065831j:image

右手が枡形部分、左手は2郭とを切る二重堀切です。
f:id:tmtmz:20230322065825j:image

この二重堀切はかなり特徴的。間に狭い曲輪を配した造りをしています。
f:id:tmtmz:20230322065823j:image
深い二重堀切としては間の土塁をもっと横長にしないと意味がない気がしますし、土塁部分に登ったとしても身動きが取れない気がします。何を意図した設計でしょうかね。

奥の2郭は土塁がありません。改修の手が回らなかったのか、必要なかったのか。
やはり広さはさほどでもありません。ここで再興ののろしを上げるには心許ないような
ちなみに2郭の登り口は分からなかったので2郭内部の様子が見える貴重なアングルです。

堀はどちらも今も急峻です。良い残り具合。
f:id:tmtmz:20230322065848j:image
2郭は登れず、3郭方向へ

2郭と3郭の間も深い堀で断ち切ってあります。
f:id:tmtmz:20230322065856j:image

たしか、3郭の切岸
f:id:tmtmz:20230322065901j:image
やはり高さと傾斜が残っていますが、このあたりは木が残っていて薮感が出てきます。

3郭もたしか登れず、そのまま3郭と4郭の間の堀切へ
f:id:tmtmz:20230322065904j:image
左手の高い3郭と違って4郭は高さがありません。

手前と奥で2段に分かれた構造をしています。
f:id:tmtmz:20230322065910j:image
ついでに周りの木々も残っていて雰囲気は山城に。これは一粒で二度おいしい感(笑)

東端はこちらも堀切。
f:id:tmtmz:20230322065918j:image
やはり残り具合は良好です。
この先にも郭がありますが、傾斜も急で降りられる気がしません。入り口に騙されてろくな装備をしてきませんでしたし。

ということで、五箇篠山城散策はここまで。f:id:tmtmz:20230322065932j:image
手前から3,2,1郭だったかな。北側の腰曲輪から。
東西に長いとはいえ、ここにこもって戦うのか。。。と思わず思ってしまいました。

引き続き三重県の城を巡ります。

感想

満足度 3.5/5

運動公園脇の小山という立地ながら、登ってみると素晴らしい残り具合。不思議な形の二重堀切もありますし。
駐車場も完備で、ありがたい限り。おすすめの山城です。

独立していてかつ高さはあるとは言え、そこまで大きくも無ければ、大きな工夫があるようにも感じられないこの城から再興を狙うのは難易度が高すぎるのでは、と思わなくはないですが、そのあたり現代人には分からない何かがあるのでしょうか。

アクセス

五箇篠山城

  • アクセス
    電車・バス:JR紀勢本線多気駅または相可駅からバス 
          勢和図書館バス停下車 徒歩すぐ
          バスは平日のみ運行、本数僅かです。
    車:    伊勢道 勢和多気ICより約10分
          駐車場あり
  • 城跡
    散策自由
  • 所要時間
    0.5時間
  • 付近のスポット
    ここから酷道を越えて訪問しました。北畠氏の本拠地です。

    tmtmz.hatenablog.com

    こちらもやはり北畠氏にまつわる名城です。

    tmtmz.hatenablog.com

    ↓気が向いたら押してやってください

    城 - ブログ村ハッシュタグ
    #城


続百名城 霧山城 (153・三重県津市) -北畠氏の本拠、戦時の詰城へ

北畠氏詰城のあとは、もちろんその奥の詰城、霧山城へ。

居館跡からほど近かった北畠氏詰城とは異なり、山奥深くに位置する、まさに戦時の詰城と言った様相の霧山城。

遠く高く登りましたが、疲れも吹き飛ばす素晴らしい遺構と、なにより良い雰囲気に出会えました。

お城:霧山城 三重県津市
HP:津市 - 多気北畠氏遺跡の概要
訪問日:2023年3月

f:id:tmtmz:20230321232149j:image

概要

1342年から8代にわたる北畠氏の本拠でした。
霧山城は、麓の北畠氏居館、その隣の北畠氏詰城からさらに奧に設けられた戦時の詰城でした。

1576年の三瀬の変で北畠氏は滅亡となりますが、その際、霧山城にも羽柴秀吉らの大軍が攻め込み、落城しました。

こちらもご覧ください。

tmtmz.hatenablog.com

訪問記

登城路

北畠氏詰城を見終わったところからスタートです。

写真は北畠氏詰城西端の竪堀。明確な加工はいったんここで終わります。

尾根道を山奥へ
f:id:tmtmz:20230321231903j:image

似た景色がしばらく続きます。
f:id:tmtmz:20230321231837j:image

道中は整備されていて急斜面も登りやすいですが、
f:id:tmtmz:20230321231846j:image

戦の世の詰城はかくあるべきというのを感じられる気がします。
f:id:tmtmz:20230321231849j:image
要は、どこまでも山奥へ行くということ。
それだけ攻め込まれることを恐れていたんでしょうね。
北畠氏詰城が居館からあまりにも近かったので、対比で遠く感じるのもあるかも。

こちらは途中にあった明らかな平場。なにかの曲輪かなと思ったら、
f:id:tmtmz:20230321231855j:image

ここは城跡ではないそう笑 まあ利用はされていたんじゃないかな。
f:id:tmtmz:20230321231858j:image

まだまだ登ります。最初にもこんな景色を見た気がします笑
f:id:tmtmz:20230321231900j:image

と思ったら、尾根から谷底に移ってきました。
f:id:tmtmz:20230321232306j:image
こういう道はいかにも狙われそうで嫌ですね。足元も滑りそうで。ちゃんとした靴を履いてきてよかった。

北畠氏詰城の竪堀から15分ほど。もう一度尾根筋に登って分かれ道に来ました。
f:id:tmtmz:20230321231928j:image
写真奥が先ほど左手に見えていた尾根に向かう方向ですが、がちがちの誘導で間違える心配はありません。

消された字がどうにも「熊にも注意」に見えるのは心配ですが。
f:id:tmtmz:20230321231931j:image

さらに登ること5分ほど。
f:id:tmtmz:20230321231934j:image

非常に曲輪っぽい地形を越えると、
f:id:tmtmz:20230321231937j:image

鐘突堂跡の看板が出てきました。ようやく霧山城に到着です。遠かった。。。
f:id:tmtmz:20230321231940j:image

南曲輪(鐘撞堂)

凄く簡略化された図と曲輪内にあった縄張図をもって、全体像を確認しましょう。
f:id:tmtmz:20230321231945j:image

f:id:tmtmz:20230321232002j:image
霧山城は大きく南北2つに分けられます。
南が鐘突堂(鐘撞堂)。南曲輪とも呼ばれます。
北曲輪までは距離があり、そちらには本丸、矢倉の2つの曲輪が並べられています。

くねくねした道で描かれた麓からの道のりは1.2kmほどでした。
こうしてみると大した数字ではありませんが、比高は約240m。登りました。

こちらが鐘突堂、南曲輪の全景です。
f:id:tmtmz:20230321231948j:image
右側の木と切株のあたりからもう1枚
f:id:tmtmz:20230321231953j:image
北東から南西に長い曲輪は小さなもの。籠れる人数はさほどではないでしょう。
ただ、ピークに築かれていて、作るならここか、というのはよく分かります。

こちらは北曲輪・本丸方面
f:id:tmtmz:20230321231956j:image
左上、木の陰に見える稜線上が北曲輪。足元の道を通って向かいます。
同じ城に区分されていますが、別の城と言っても良いくらい遠いです。

こちらは北西方向だったかな。眺めがすばらしい。
ただ、山奥すぎて籠城時は孤独を感じそう。。。
f:id:tmtmz:20230321231959j:image

奥にはやや低い区画があり、鐘突堂の石碑が建てられています。
f:id:tmtmz:20230321232005j:image

f:id:tmtmz:20230321232013j:image

その先は尾根筋になっていて、土塁+空堀で断ち切ってあります。
f:id:tmtmz:20230321232019j:image
たしかに尾根続きで南曲輪の中では弱点でしょうか。
こちら側は居館に対して裏側で相当な山奥ですが。

この先は難路らしいので南曲輪はここまで。
f:id:tmtmz:20230321232022j:image
こういう案内、無駄足を防げてありがたいですね。

北曲輪・本丸

本丸方面へ向かいます。道は一旦がっつり高度を下げます。せっかく登ったのに。。。
f:id:tmtmz:20230321232036j:image
自然地形にも見えますが、底部には浅くなっているものの堀があったようです。

下って登って少し進んで、北畠氏詰城からは25分ほどで北曲輪に到着です。
登り始めの北畠神社からは寄り道しなければ3-40分ほど、実際には1時間ほどかかりました。
f:id:tmtmz:20230321232042j:image
かなりの山城ですが、随所に案内があって助かります。本当に。

こちらが近くから北曲輪を眺めたところ。
f:id:tmtmz:20230321232045j:image
左手尾根にも小さな平場を臨みつつ、道は右奥の鞍部へ。
北曲輪に連なる矢倉と本丸の間の堀切につながります。

まずは、矢倉へ。
f:id:tmtmz:20230321232102j:image
霧山城では一番広いと思われる曲輪です。この後の本丸と違い平地が多めです。

縄張図には土塁が描かれていましたが、痕跡はかなり薄めです。
f:id:tmtmz:20230321232110j:image

一方で、最奥部、北東側に残る大きな堀は明確。
f:id:tmtmz:20230321232119j:image

f:id:tmtmz:20230321232125j:image

方角は忘れましたが、南曲輪同様に素晴らしい眺望が印象的でした。
f:id:tmtmz:20230321232128j:image

折り返して本丸へ。
f:id:tmtmz:20230321232131j:image
奥に見える堀が最初にたどり着いたそれ。こちらも明確に残っています。

堀を越えて本丸へ。ここには虎口が置かれていました。
f:id:tmtmz:20230321232141j:image
逆光。。。

抜けて、本丸内部へ。
f:id:tmtmz:20230321232144j:image
明らかに矢倉とは異なり、周囲を高い土塁に囲まれた構造。広さよりも安全を優先したような印象で、虎口といい、突然高い守りの意識が感じられます。

こちらは順光の反対側から。たしか、右奥が本丸にやってきた虎口だったはず。
f:id:tmtmz:20230321232155j:image

黒飛びしていますが、霧山城址の石碑とともに。
f:id:tmtmz:20230321232152j:image

最初の方角からは左奥、西側には一段下がって米倉が置かれていました。
f:id:tmtmz:20230321232203j:image
こちらは土塁より広さを重視したのか、矢倉と同じく平らな曲輪です。
その先、小さな曲輪は見えますが急斜面、ということでこれで霧山城散策は終了です。

最後に、本丸土塁上にあった石碑を。
f:id:tmtmz:20230321232237j:image
良く登りました。達成感

この後は、仁柿峠を越えて次の城へ向かいました。
酷道レビューはしませんが、怖いもの知らずが過ぎたかも。対向車来なくてよかった。

感想

満足度 4/5

距離も比高も所要時間も結構なものですが、その分、戦国の世の詰城にかけた思いを感じられた気がしました。登った達成感も相まって、かもしれませんが。
ここまで本気で逃げ込もうと思うその気持ちと、逃げ込んだ時の孤独感と落とされた時の絶望感と。
ほんの一端を勝手に想像しただけですが、思いを馳せられたのは良かった。

単純に雰囲気も良いですし、北畠氏居館跡だけで終わらせずに再訪した甲斐ありました。

アクセス

霧山城

  • アクセスー多気北畠氏城館跡と同じです。
    電車・バス:JR名松線 伊勢奥津駅からバス 上多気交差点下車 徒歩10分
          JR名松線 竹原駅からバス 北畠神社前 下車すぐ
    鉄道、バスともに本数僅少のため、公共交通での訪問はかなり大変です。
    車:伊勢道久居ICより約60分
      駐車場あり
  • スタンプ・開館時間 
    北畠神社社務所
     開館時間:8:30~17:00
  • 城跡
    散策自由
  • 所要時間
    詰城込みで登り始めから降りるまでに1時間半でした。
    下りはかなり急いだので2時間みておくと良いかと。
  • 付近のスポット
    もちろんこちらの居館跡、詰城が一番近いスポットとなります。

    tmtmz.hatenablog.com

    tmtmz.hatenablog.com

    おなじ三重県の続100名城を。

    tmtmz.hatenablog.com

    tmtmz.hatenablog.com

    ↓気が向いたら押してやってください

    城 - ブログ村ハッシュタグ
    #城


 

続百名城 北畠氏詰城(153・三重県津市) -北畠氏の本拠地、詰城へ

宇陀松山城から県境を越えて実は近くの続百名城 多気北畠氏居館跡へ
今回は、その中でも北畠氏詰城を訪問です。

麓の居館の近くに築かれた詰城は規模こそ大きくありませんが、居館や城下町の跡を眺める眺望はおそらく当時のままで、当時の意図を感じられるような気がしました。

お城:北畠氏詰城 三重県津市
HP:津市 - 多気北畠氏遺跡の概要
訪問日:2023年3月

f:id:tmtmz:20230321231602j:image

概要

1342年から8代にわたった北畠氏の本拠でした。
北畠氏詰城は、麓の居館の西に設けられた詰めの城で、さらに西に戦時の詰城である霧山城を持ちました。

詳しくはこちらを参照ください。

tmtmz.hatenablog.com

訪問記

伊勢奥津駅再訪

宇陀松山城を訪問したあと、道の駅宇陀路大宇陀から車で訪問。

深い山中ですが意外と?快走路が続きます。
三重県内は狭い部分も出てきますが、それもつかの間。
多気北畠氏城館跡の現在の姿、北畠神社の立派な看板を見ながら1時間弱で到着です。
北畠神社は地元では結構有名な神社なんでしょうかね。

直行しても良いのですが、かつてJR名松線でこの地へ来た時の思い出をたどるべく、名松線の終着駅伊勢奥津に寄り道です。
f:id:tmtmz:20230321231421j:image
また来たよ~ 次は列車で来るよ~。

コロナを経てどうなっているかを気にしての訪問でしたが、ローカル線のもともと少ない乗客数に大きな変化は感じられず、訪問時も数人の乗客を乗せていました。
f:id:tmtmz:20230321231455j:image
終着駅の給水塔も変わらずでした。

レンタサイクルを借りたひだまりさんも健在。
f:id:tmtmz:20230321231501j:image
コロナが5類になる直前でしたので、よそ者は外から眺めるだけにとどめて伊勢奥津の街を軽く散策。

一度目の訪問とまとめて、伊勢奥津の街の様子はこちらに。

tmtmz.hatenablog.com

北畠氏詰城

車だとあっという間に、目的地の多気北畠氏城館跡、今の北畠神社に到着です。
f:id:tmtmz:20230321231504j:image
外観は完全に神社ですが、多気北畠氏城館の旗がたくさん立っていて、

こんな看板もあるので一般の方でも興味を持つ方もいらっしゃるかな。
f:id:tmtmz:20230321231507j:image

と言っても、北畠氏館跡は下図の右の丸。
f:id:tmtmz:20230321231510j:image
今回の取り上げる詰城は中央右側、戦時の詰城、霧山城は左の丸とかなり幅広く指定されていて、北畠氏詰城や霧山城まで行かれる方はだいぶコアでしょう。
特に霧山城はその場の思い付きでフラッと行ける所ではないですし。

鳥居をくぐったら、右奥の境内ではなく左手へ。f:id:tmtmz:20230321231516j:image
霧山城登山口の看板も置かれています。
ちなみに続百名城スタンプは境内の社務所にあります。ご参考まで。

そのまま山奥に誘う看板に従って暗い森に入っていきましょう。
f:id:tmtmz:20230321231522j:image

入口は暗かったですが、登城路はきちんと整備されています。
f:id:tmtmz:20230321231525j:image
勾配はきつめですが、これくらいなら本気の装備でなくても登れるかも。
f:id:tmtmz:20230321231531j:image
登り始めて10分足らずで虎口にたどり着きました。比高は80mほど。
f:id:tmtmz:20230321231539j:image

最初は帯曲輪のような曲輪Aに入ります。
f:id:tmtmz:20230321231542j:image

ここにある案内板の縄張図をお借りして全体像を確認しましょう。
f:id:tmtmz:20230321231550j:image
いまたどり着いた曲輪Aは南北、東西に細長く延びる形をしています。
北端には高まりと、その向こうに竪堀があります。

斜面を登った先には最大の大きさを持つ曲輪B、その西側にも堀切と小さな曲輪が置かれています。

ということで、改めて曲輪Aの全景です。
f:id:tmtmz:20230321231553j:image
広くはありませんが、明確な曲輪が東向き、居館跡に向かって置かれています。

眼下には六田館跡や景賞院跡といった、室町時代に北畠氏によって築かれた城下町の遺跡が広がります。
f:id:tmtmz:20230321231602j:image
当時はこの角度から城下町や居館周辺を眺めていたのかな。

北端には前述の通り、1mほどの高まり
f:id:tmtmz:20230321231610j:image

その向こうの竪堀、はよく分からず。
f:id:tmtmz:20230321231619j:image

曲輪Bに向かいます。
f:id:tmtmz:20230321231630j:image

f:id:tmtmz:20230321231639j:image
縄張図と同じ位置の踏み跡ですが、ルートは完全な山道。これまでの登城路よりずっと危ない笑

曲輪Bの全景です。
f:id:tmtmz:20230321231633j:image
東西35m、南北10-17mの曲輪。
詰城の中心的曲輪で、もちろん大勢が入れる様子ではありませんが、感覚的にはそこそこ広く感じました。

登ってきた側とは逆の西端には堀切と小さな曲輪をおいてケアがされています。
f:id:tmtmz:20230321231652j:image
なかなかしっかりと残っています。

こちらは北面だったかな。防御性も高そうです。
f:id:tmtmz:20230321231700j:image

最後は、曲輪Aを通って霧山城方面へ。
f:id:tmtmz:20230321231625j:image
縄張図では曲輪Aに区分されていましたが、これは通路じゃないかな。。

右上が曲輪B 高低差もなかなかなものです。
f:id:tmtmz:20230321231706j:image

曲輪Bと西の小曲輪を切る堀切
f:id:tmtmz:20230321231709j:image

小曲輪は本当に小さなもの。感覚的には櫓台程度の広さかな。
f:id:tmtmz:20230321231715j:image

その西側には竪堀を置いてさらに防御性を高めていました。
f:id:tmtmz:20230321231718j:image

この先は霧山城に続き、北畠氏詰城としてはここまで。もちろん霧山城へ向かいます。

感想

満足度 2/5

小さな詰城ですが、北畠氏館跡との位置関係からその機能が良く想像できました。
城下町を一望できる眺望も素晴らしい。

霧山城はかなりかかりますが、ここまでならそこまで時間を要しませんし、せっかく北畠氏館跡まで来たなら少し山登りをして足を延ばしてみるのが良いでしょう。

アクセス

北畠氏詰城

  • アクセスー多気北畠氏城館跡と同じです。
    電車・バス:JR名松線 伊勢奥津駅からバス 上多気交差点下車 徒歩10分
          JR名松線 竹原駅からバス 北畠神社前 下車すぐ
    鉄道、バスともに本数僅少のため、公共交通での訪問はかなり大変です。
    車:伊勢道久居ICより約60分
      駐車場あり
  • スタンプ・開館時間 
    北畠神社社務所
     開館時間:8:30~17:00
  • 城跡
    散策自由
  • 所要時間
    詰城までなら0.5時間程度です。霧山城は別記事で。
  • 付近のスポット
    もちろんこちらの居館跡が一番近いスポットとなります。

    tmtmz.hatenablog.com

    おなじ三重県の続100名城を。

    tmtmz.hatenablog.com

    tmtmz.hatenablog.com

    ↓気が向いたら押してやってください

    城 - ブログ村ハッシュタグ
    #城


宇陀松山城周辺散策- 門跡をたどって城下町を散策

宇陀松山城を回ったその足で、麓に残る遺構と城下町を散策です。

麓の門跡は、とても立派でスルーするのは惜しい施設。
そして城下町は、宇陀千軒と呼ばれた名残を強く感じさせる魅力的な風景。

登りと下りを別ルートにして麓の散策をいれたのは正解でした。

宇陀松山城の記憶はこちらから。

tmtmz.hatenablog.com

f:id:tmtmz:20230320231159j:image

春日神社・春日門跡

宇陀松山城から春日門ルートで下山したところから再開です。
まずは現在いる春日神社を参拝しましょう。
f:id:tmtmz:20230320231151j:image
右奥から出てきて、左奥へ向かう形です。

境内の看板によると創建は分からないものの、少なくとも1594年の絵図には春日社として社地が記されていたとのこと。
当時から西口関門、春日門、春日神社を経て城へ向かう大手道が描かれていて、今日残る春日門ルートは豊臣時代以降の大手道に相当するのでしょう。
今進むルートがそのままそれにあたるということになります。

春日神社は郭としても機能していたと考えられるとのこと。
先ほど見かけた石垣はその関係なのでしょうか。

参拝を初めて最初に見かけたのがこちらの水鉢
f:id:tmtmz:20230320231129j:image
寄進の字の通り寄進したのは、宇陀松山藩を治めていた頃の織田家重臣でした。
1693年の寄進で、翌年には織田家は国替えとなっており、宇陀松山藩時代の織田家最後の時期の品です。

もう一つ入り口に歴史遺産
f:id:tmtmz:20230320231134j:image
こちらは鎌倉時代、1291年作の銘文の残る、五輪塔の地輪、を用いて作られた水鉢です。

鳥居をくぐって境内へ。
f:id:tmtmz:20230320231137j:image

石垣で二段に分けられていて、このあたりも防御機能と関係あるのか気になります。
f:id:tmtmz:20230320231140j:image

上段まで進んで、お参りしていきましょう。
f:id:tmtmz:20230320231142j:image
朱色が綺麗で印象的な社殿です。

境内はおそらくこちらで全部。大きくはありませんがよく整備されていて綺麗で、地元で信仰を集める神社という様子を感じられました。

ちなみに、手水舎の後ろに宇陀松山城から続く抜け穴があるとも言われています。
だいぶ距離はありますが、信じるか信じないかはあなた次第、でしょうか。

春日門跡

さらに大手筋を遡っていきます。春日神社からほど近くの春日門跡へ。
f:id:tmtmz:20230320231159j:image
今も2つの櫓台が残る春日門は、16世紀末~17世紀初頭に築造されたと推測されます。
現存する櫓台は17世紀後半の織田家時代に作られたものです。
もちろん防御施設であるとともに、武家地と町人地の境界でもありました。

北に向けて設けられた櫓台のうち東櫓は特に大きなもの。
大手筋から見える場所にもあり、城下町の象徴的な建物であったと考えられています。
f:id:tmtmz:20230320231218j:image
東櫓足元から右奥の大手筋を見る構図。大手筋のつきあたりにあることが分かります。
当時は立派な櫓が建てられていたのでしょう。

松山城西口関門

さらに大手筋を遡ります。松山城西口関門へ。
f:id:tmtmz:20230320231232j:image
大手筋沿いに城下町を仕切る門が松山城西口関門。
橋と門は直角に相対しており、

門の内側でも道が180度屈曲している念の入れようです。
f:id:tmtmz:20230320231227j:image
こちらも16世紀末~17世紀初頭の造営と推測されています。
春日門と同様に、時の城主、福島氏が築いたのでしょう。

高麗門形式の門はその色から黒門とも呼ばれました。
f:id:tmtmz:20230320231238j:image
そしてこちらは現存。
ここから春日門を通る大手筋を歩くと、福島氏以降、現役当時の宇陀松山城大手道の様子が非常によく分かります。
スタンプのあるまちかどラボからは少し離れていますが、ぜひ足を延ばしたいところ。

城下町散策

ここから城めぐり開始地点の道の駅宇陀路大宇陀まで、城下町を通っていきましょう。

秋山氏の頃に始まる城下町は、福島氏の頃に拡張、織田氏の頃には町人町を定め、400軒を超える商家が立ち並ぶほどになりました。
その後、織田氏は移封されますが、町人町は奧宇陀、吉野、伊勢方面と奈良盆地を結ぶ地の利を生かして宇陀千軒と呼ばれるほどに栄えました。

今も当時の名残を残す町並みが広がります。
f:id:tmtmz:20240608140649j:image
良い雰囲気です。左手に写るのは植田家「かぎや」
材木や油、米穀等の取引を営んでいました。江戸時代末期の建物とみられるとのこと。

ここから大手筋を通って上町通りへ。

こちらも歴史ある建物が立ち並びます。
f:id:tmtmz:20240608140611j:image
看板が出ているところも含めて、良いです。ホント。

右手に写るは霜永家「内牧屋」
f:id:tmtmz:20240608140625j:image
造酒屋を営んでいた、江戸時代後期の建物です。
なお、随所に設置された建物の解説は、歴史以外に建築の特徴に関する情報も記載されていました。気になる方は現地へ。

霜永家のお向かいには現役の薬局も。
f:id:tmtmz:20240608140719j:image
軽く調べた感じでは見た目の通り非常に歴史ある薬局のようです。

さらに進みます。森田家住宅「諸木野屋」
f:id:tmtmz:20240608140631j:image
江戸時代後期の建築で、明治初年まで薬屋や雑貨を扱っていました。

特徴的なのは前面の戸袋に利用された古い薬の看板
f:id:tmtmz:20240608140609j:image
播州加古川、阿波といった文字が読み取れます。さらには遠く長崎から仕入れた西洋薬の看板もあるのだとか。

お向かいには立派な唐破風のついた看板を掲げたお宅。
今は宇陀市歴史文化館「薬の館」となっていますが、かつては薬問屋だった細川家住宅を再利用したもの。
f:id:tmtmz:20240608140659j:image
看板とは思えない手の込みよう。
先の森田家の幅広い関係先もそうですが、当時の繁栄をうかがい知れる気がします。

ここが今も薬の館となっているのは、この地が古来薬の町だったから。
古くは611年にこの地で薬猟が行われたことが日本書紀(!)に書かれており、江戸時代には私設の薬草園が置かれるなど、薬と深いかかわりを持っていました。
薬関係の旧家の多さ、繁栄の形跡からしても一大産業だったことがよく分かります。

細川家は大手製薬企業の創始者につながる血筋でもあります。いやはや本当に名門で。。。

この先、同じように軒先に特徴的な看板を掲げた家が続きます。
f:id:tmtmz:20240608140644j:image
奧は和菓子で手前は奈良漬。かつてこういう看板が流行っていたのでしょうか。
今見るとどちらも気になる佇まいで、入ればよかったなぁ。

まだまだ雰囲気の良い町並みは続きます。うだつの上がる家もあったりして、見ていて歩いていて楽しい。
f:id:tmtmz:20240608140558j:image
軒先にかかっていたこちらの看板も薬草関係。本当に薬と縁が深い町です。

f:id:tmtmz:20240608140606j:image

黒川家
f:id:tmtmz:20240608140725j:image
重厚な建物はこちらも江戸時代のものと推定されており、主に葛を扱っていました。

やはり歴史を感じる看板が掲げられていて、なんと現役。重厚すぎて全く気づきませんでしたが。。。
f:id:tmtmz:20240608140717j:image

近くにはもう1軒吉野葛を扱うお店が開かれています。森野吉野葛本舗
f:id:tmtmz:20240608140619j:image
こちらは入ってみようかだいぶ逡巡した記憶があります。お昼ご飯を優先してしまいました。

右手に写るのが森野旧薬園。これが先に触れた江戸時代の私設薬草園です。
今も残っていて一般公開されているよう。驚きです。

最後は少し歩いて、宇陀松山まちづくりセンター千軒舎
f:id:tmtmz:20240608140722j:image
こちらも明治時代前期の薬屋、歯科医院を使った施設です。
中は建物の説明やかつて地域で使われた看板の展示など。
広くはありませんが、珍しく入りやすいので笑、ふらっと入ってみても良いかなと。

千軒舎近くが、最初に訪れたまちかどラボさん。その先も雰囲気よい町並みが続きます。
f:id:tmtmz:20240608140600j:image

が、あいにく空腹の限界、スタート地点の道の駅に戻って、
f:id:tmtmz:20240608140728j:image

美味しく柿の葉寿司を頂きました。
f:id:tmtmz:20240608140616j:image

これで、宇陀松山城の城下町散策は終了。次へ向かいます。

一見さんには扉を開ける勇気がでない施設もありましたが、外から見るだけでも魅力的な街並み。
大手筋の春日門や西口関門を見たその足で回ってみる価値はありました。

こちらもどうぞ。

tmtmz.hatenablog.com

tmtmz.hatenablog.com

↓気が向いたら押してやってください

城 - ブログ村ハッシュタグ
#城