にわかお城ファンの旅行記

にわか城好きの歴史探訪記

周りに影響されて城巡りを始めました。百名城スタンプ目当てだったのに気がついたら沼にハマっていました。

水口岡山城 (滋賀県甲賀市) 2/2-豊臣政権の甲賀支配の拠点 山頂部から大手道へ

引き続き、水口岡山城を回ります。
今回は、二の丸から東側と、見逃した大手道へ。
相変わらず立派な遺構が残る山頂部。見逃した大手道も忘れず足を延ばして良かった。

HP:国史跡 水口岡山城跡について/甲賀市
訪問日:2023年3月

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訪問記

リスタートに先だって、再度山頂部にあった縄張図にご登場願います。
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左下トイレあたりの登り口西口から登り、伝西の丸から伝本丸を見てきたところ。
この先東側、伝二の丸方面へ進んだ後、本丸から南へ延びる大手道を抑えていきます。

伝本丸から伝二の丸方面へ。いったん帯曲輪から伝本丸の北面を見ていきます。
こちらにあるのが、明瞭な喰い違い虎口と
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再度、伝本丸石垣
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こちらも残っているのは一部ですが、苔むしている様が美しい。

戻って伝二の丸方面へ。

本丸との間には深くて広い堀が設けてあります。
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ここまでの曲輪もそうですが、広く取れるのは、それだけ山頂部が広い山だったということでしょう。急斜面ですし、築城に向いた山ですね。

南側の虎口から伝二の丸内部へ
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こちらが全景
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こちらも広い長方形の曲輪です。礎石が検出されていて御殿のような建物があったと考えられています。
周囲を木で囲われていて気づきませんでしたが、北側には枡形虎口もあるとのこと。

さらに東へ。再度深い空堀を越えて
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伝二の丸と同様に南西角に置かれた、少し低い虎口から
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伝三の丸
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二の丸よりさらに広い曲輪は一枚の写真に収まりきりません。
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3か所虎口が置かれていて、これは、、、中央部の南か北かのどっちかだったかな
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東の端までくると、こちらも非常に良い眺め、、、が晴れていたら見えるでしょう。
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足元には伝西の丸と同様に一段下がった曲輪も置かれています。降りてみましょう。

間には浅くなっているものの堀も見て取れます。
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出丸と呼ばれる東端の曲輪。
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伝西の丸と同様に、中央部とは一段区画された曲輪で、まさに出丸と言った様相。
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端からの眺めも気になるところでしたが、足元の露に心を折られました。この日は雨上がりでした。

これまで同様南西端につけられた虎口から戻ります。
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振り返るとこんな感じ。やはり傾斜は違えど同じ匂いを感じます。
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ここから、見逃しを抑えに戻ります。

北側斜面に延びる通路(作業用道路?)を西へと突き進みます。
道中いくつか竪堀らしきものも見えました。
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肉眼でも自信が持てるものではありませんでしたが、縄張図に記載された竪堀のよう。

再度、伝西の丸へ帰ってきました。
ここから、実は一周目に見逃していた城内最大の石垣を抑えに行って
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再度、伝本丸へ。同じく最初に逃した大手道を下る方向でおさえに行きます。
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大手道も整備は良好。多少傾斜は急ですが、こちらは舗装もなく雰囲気が良いです。
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5分足らずで腰曲輪の一つへ。
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この曲輪から東に延びる通路には分かりづらいですが、喰い違い虎口f:id:tmtmz:20230326064214j:image
前半に伝本丸北面で見たものと対になる配置で、伝本丸下段から伝二の丸や伝本丸へと続く帯曲輪への通路を抑えています。

そしてもう一つ、少し下りたところには枡形虎口が残ります。
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かなりなだらかですが、それでもはっきりとわかる状態。これは良い。登りで使った西口登り口は防御を感じない道でしたが(新しいのかな)、さすがに大手道の守りは違います。

下からはこんな感じ。
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上からの印象よりも、手前の土塁を中心に威圧感を感じる気がします。やはりきちんと守りも考えられていました。
これが見られただけでも大手道から下ってよかった。

この後はさらに下って
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稲荷神社の置かれた曲輪へ。麓に散在する曲輪の一つです。
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さらに戻って、伝西の丸と伝本丸を切る堀切から延びる竪堀の末端を越えて
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最初に見た児童公園の曲輪までたどり着きました。これで水口岡山城を一周です。
結構歩き疲れました。。

ここからお昼ご飯を調達しに、水口城南駅へ。そして近江鉄道で次の城へ向かいます。
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感想

満足度 4/5

山頂部を中心とした残りの良い遺構に、行き届いた整備に全体に好印象でした。
もちろん残された石垣も空堀も、枡形虎口も素晴らしい。

広すぎて山麓部を中心に公園になりすぎていたり、防御の狙いが読みづらいところはありますが、登り切ればそのあたりも吹き飛ぶ遺構を見られます。
水口城を訪問されるならぜひセットで。

アクセス

水口岡山城

 

水口岡山城 (滋賀県甲賀市) 1/2-豊臣政権の甲賀支配の拠点 本丸石垣へ

水口城に続いて、その前に水口城と呼ばれていた水口岡山城へ。
こちらは、街を見下ろす山の上にある、いかにもな平山城です。

ただ、その規模感や遺構はなかなかなもの。登りもそこそこありますが、登る価値のある立派な石垣も残っています。

HP:国史跡 水口岡山城跡について/甲賀市
訪問日:2023年3月

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概要

1585年、中村一氏豊臣秀吉の命により大岡山山頂に築城しました。
当時は水口城と呼ばれました。

関ケ原の合戦において城主、長束正家が西軍に着いたことにより廃城。
石材は1634年に築かれた水口城(訪問記)に転用されたとされます。

当時本丸は総石垣であったと推定され、転用されたとはいえ一部に高石垣が残ります。

訪問記

水口城から徒歩で訪問。直接向かう場合、近江鉄道水口駅または水口石橋駅が最寄りです。

こちらはその水口石橋駅
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当ブログでは3記事連続の登場です。使い回しごめんなさい。水口岡山城に直行される方もいらっしゃると思いますので。

水口石橋駅からは徒歩15分ほど。パンフレットが駅近くの甲賀市ひとまち街道交流館にありますので、反対方向ですが事前に寄っておくのがお勧めです。

登城口への道中は、からくり時計など風情ある旧東海道の街並みが広がります。
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パンフレットで登り口が大岡寺の裏手にあることを確認して、まずは参拝します。

大岡寺は、水口岡山城の築城以前に大岡山の山頂にあり、築城に際して移転、再建されたもの。歴代水口藩主の祈願所ともなっていました。
今回はトレースしていませんが、大手道が境内を真っすぐ走るような関係性です。

立派な本堂と
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美しい池を眺めて
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登り口を探しますが、見当たらず。。。

大手道は、境内裏手の県道を挟んだ反対側に延びるようですが見つけきれず、少しずれた西口にたどり着きました。
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登り口脇には案内も無料駐車場もありますし、舗装もされてて結果オーライかな。
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おどろおどろしい秀吉もいました。
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甲賀市ひとまち交流館では、パンフレット以外も色々配っているようです。力入ってますね。

登城前に山頂の縄張図を借りて全体を確認しましょう。
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山頂の尾根に伝本丸、伝二の丸、伝三の丸、伝西の丸が並び、周囲に腰曲輪を持ちます。
本丸は総石垣であったと推定されていますが、現在は北面に一部残る程度です。
現在地は、左下のトイレのあたり。伝西の丸方面へと山を登っていきます。

朝まで降っていた雨が上がったばかりの舗装路からスタート
足元と曇り空に頑張って耐えてもらえるよう祈りつつ登っていきます。
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よく分からないキャラも応援してくれています。
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登り始めて5分で腰曲輪の一つへ。
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児童公園となっていますが、明確に曲輪です。他から離れた低い場所にあるので使われ方は違ったのでしょう。

引き続きガンガン登っていきます。
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右手には竪堀?も見えはしますが、森の中にありなかなか判別が難しい。
平山城ですが、そこそこ登りますね。

さらに5分で次の曲輪へ
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薮で見えにくいですが、結構な広さの曲輪でした。あと、ぬかるみで足がやられた。。。

このあたりから曲輪が連続するようになります。
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山頂部と連携しながら使われていた曲輪でしょうか。
他にも見えていない曲輪があるでしょうし、結構な人数を収容できたのでは。

もう少し登ります。そして、すぐに腰曲輪
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その上が伝西の丸 山頂部最西端の曲輪に到着です。
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奧は微妙に高さが違っていて、使われ方も違ったのでしょう。

今の伝西の丸は天翔の櫓や
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解説付きの土塀も置かれていて整備状態はとても良いです。
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登り口の案内といい、麓でのキャラ推しといい、いろんな方向で城跡の整備にはかなり力が入っています。

上段全景でもう一枚。
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本丸との位置関係も確認しておきましょう。
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本丸はまだまだ高所に。間は深い堀で仕切られています。

この堀、一見傾斜はなだらかですが
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まだまだ鋭く残っていて
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南北斜面の竪堀へと続きます。南側が、さきほど判別が難しかった竪堀のはず。

堀底から本丸への道が伸びています。
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本丸側は虎口になっていますし、当時もこうだったのかな。
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小さな曲輪を経て道は南側へ。
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ここで北側へ目をやると石垣があります。伝本丸石垣の上段
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こちらはわずかに残る、と言ったところですが、

下段には立派な石垣が残ります。
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荒々しい雰囲気に、算木のようになっている隅石まで見て取れます。良い。
総石垣だったとされる本丸のかつての姿は、さぞ立派だったのでしょう。

先の道に戻って、虎口を抜けて
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伝本丸へ
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奧を見通せないほど細長い形をしています。

西端から振り向くとなかなかの景色。足元が先ほどの伝西の丸です。
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このあたりに櫓台も残っています。置きたくなる気持ちはよく分かる景色です。

どこまでも細長い伝本丸を奧へ
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このあたりの伝本丸中央部に、大手道が直接登ってきます。当時からこうだったと考えられています。

東端には、伝天守跡とされる、低い櫓台がありました。
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絵図等では天守台とされていて埋没した石垣も見つかっています。

一方で、大手門との位置関係から、西端の櫓台を天守台と考える説もあります。こちらからは石で作られた階段が見つかっています。どちらにも大きな構造物があったのは確かなのでしょう。

ここから、伝二の丸方面へ向かいます。続きはまた次回。

付近のスポット
なにより近いのはこちら。

tmtmz.hatenablog.com

やや離れてはいますが、滋賀の城めぐりの記憶です。

tmtmz.hatenablog.com

tmtmz.hatenablog.com

↓気が向いたら押してやってください

城 - ブログ村ハッシュタグ
#城

 

 

水口城 (滋賀県甲賀市) -徳川将軍の宿館

甲賀市水口にある平城、水口城へ。

徳川家光の宿館として築かれた平城は、街中にありますが雰囲気を保っています。
今もぐるっと残る水堀を一周してきました。

お城:水口城 滋賀県甲賀市
HP:水口城資料館 水口城跡 | 甲賀市観光ガイド
訪問日:2023年3月

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概要

1634年、徳川家光の上洛に伴い、宿館として築かれました。作事奉行には小堀遠州が当たりました。
家光の上洛後は幕府管理下に置かれましたが、将軍の宿舎としての使用は一度きりでした。

1682年に加藤氏が入封。水口藩が成立します。
本丸御殿は正徳年間(1711-1716年)に解体されました。
明治維新に伴い廃城となり、建物や石垣の大半は競売にかけられました。

訪問記

スタート地点は近江鉄道水口石橋駅
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水口城の最寄りはお隣の水口城南駅ですが、水口岡山城にも行きたかったので、甲賀市ひとまち街道交流館に立ち寄ってまとめて情報収集です。
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両方のパンフレットを入手してから水口城へ。

隣の駅から歩くと言っても距離は近く、駅から城までは歩いて10分ほど。
旧東海道沿いに水口宿の名残を感じる建物もあって飽きません。
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旧東海道は水口城にぶつかると曲げられていました。
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ここが水口城の天王口跡。水口城の二の丸は完全に市街化されていて、このあたりも何の変哲もない住宅でしたが、元の城域を感じる貴重な看板です。

天王口跡から歩くこと5分ほどで、水口城に到着。
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地方の市街地の街中に、唐突に格好良い水堀、石垣と土塀、櫓が登場です。

近くの看板で本丸の全体像を確認します。
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水堀に囲まれた方形の本丸は、四隅に矢倉を、北に内枡形、東に外枡形の出丸の2カ所の虎口を持ちました。
今も外周の水堀は姿をとどめています。

改めて出丸を眺めます。
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水堀と石垣の遺構に、御成橋や門、土塀が復原されていてとても良い雰囲気です。

奥の矢倉は、本丸乾矢倉が民家に移築されていたものを再移築し復興矢倉としたもの。現在は資料館となっています。
この場所には当時番所が置かれていて、模擬となりますが、道路から良く見えるこの場所に矢倉があると絵になるという気持ちはわからなくはないです。

門は当時から高麗門でした。雰囲気は近いのかもしれません。
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より近くで見たいところでしたが、訪問時は橋の改修中。
もちろん代わりの通路は用意されていますが、何となく外周から先に見ることに。

ちなみに、水堀沿い、道路沿いには桜が植えられていました。
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桜越しに写真を撮れたりもします。
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綺麗ですね。良い。

復興櫓とは言え、資料館も堀越しに撮っておきましょう。
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背後は車通りの多い道路と思うと、まあアピールにはなりますよね。

まずは南面へ。
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石垣は競売にかけられたためにこのあたりは土塁になっています。
巽矢倉のあった場所ですが、面影を感じるのは難しい。

南西角、坤矢倉のあった場所から南面の水堀
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こちらも櫓の痕跡を感じるのは難しい所。むしろ良く水堀が残ったというべきなのかもしれません。

西面の水堀も同様。
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防球ネットが見えている通り、本丸は水口高校のグラウンドになっています。

ただ、写真左端にチラッと写るように、少しだけ石垣が残されています。乾矢倉の櫓台
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結構な高石垣が残されていました。その割に場所は完全に裏で、案内も少なく(無く?)扱いは雑なのですが。
大部分の石垣が競売にかけられたなか、ここは残されたのはなぜでしょう。。。?

途中で積み方が変わっていて、上部は妙にきれいで、積み直しがあったように見えるところも気になります。競売にかけるような扱いだったのに積み直したのでしょうか?
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北面は天端が一部欠けてしまっています。そのままというのも雑なような。。。
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疑問は尽きませんが、櫓台から、水口城が徳川将軍家の宿館にふさわしい威容を誇っていたことの一部は感じられました。

北面には小さな橋が架かっていました。こちらがかつての虎口の跡
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内枡形の北御門がありましたが、今の姿はただのグラウンド裏口ですね。

最後は飛んで、出丸内部へ。
訪問時は御成橋を通れず、本丸水口高校グラウンド脇を通るルートとなっていました。
グラウンドでは野球部員がのんびりおしゃべりしながらキャッチボール中。青春の一風景をお邪魔しないようにそっと通過します。

グラウンドに本丸御殿の名残は感じられませんでしたが、出丸周辺は整備されています。こちらが本丸と出丸をつなぐ大手門。
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抜けるとすぐに資料館です。
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時間の都合で外観だけの見学で済ませて、

最後は御成橋から水堀越しの桜並木へ。
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工事を避けた窮屈な画角ではありますが、桜と水堀と石垣の絵は美しい。

引き続き、水口で城めぐりを続けます。

旅の記憶はこちらから。

tmtmz.hatenablog.com

感想

満足度 2.5/5

水堀と出丸近辺の石垣は良く残っていて、雰囲気は確かに感じられます。
将軍の宿館という割に小ぢんまりしている気もしますが、二ノ丸が残っていればもう少し違ったのか、もともと小さなものだったのか。

資料館も外観がきれいすぎるきらいはありますが、絵にはなりますし、なにより街中の平城でアクセスが楽。近くによることがあれば、足を延ばしてみてみたいところです。

アクセス

水口城

 

近江鉄道で行く湖国城めぐりの旅

湖国近江の城めぐりの旅の記憶です。
城めぐりとご当地ローカル鉄道、近江鉄道とを組み合わせた旅。やっていることはコアかもしれませんが、訪問先はメジャーどころです。

雨もあって予定以上に歩くはめになりましたが、何とか歩ききって見たいスポットは抑えられて、良い旅となりました。

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1日目 貴生川-八日市 水口城・水口岡山城観音寺城

旅の始まりはJR琵琶湖線草津駅
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と言っても琵琶湖線側ではなくローカルな雰囲気漂う草津線
ここから近江鉄道を目指します。

ローカルな雰囲気の一員は、きっとこの年季の入った車両でしょう。
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引退直前だったようで写真を撮る方が目立ちました。よく分からないまま混ざって一枚笑

途中の三雲駅 時間が取れませんでしたが、ここから三雲城に訪問可能です。
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窓が白いのはご愛嬌。車両が古いからね

やってきたのは貴生川駅
ここから延びる信楽高原鉄道もローカル線的にも城めぐり的にも魅力的ですが
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今回は近江鉄道
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接続の良い電車を選んだものの、切符売り場が人力で渋滞していて焦ります笑
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さすがに置いて行かれることはなく笑、ここから近江鉄道の旅が始まりました。
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近江鉄道滋賀県の湖東地方を縦断するローカル私鉄です。
米原-彦根-八日市-貴生川の本線と高宮-多賀大社前、八日市-近江八幡の支線からなり、沿線から彦根近江八幡、貴生川のJR乗換駅への輸送が中心です。
御多分に漏れず赤字で、存廃も議論されていましたが、バスにする方が大変とのことで存続が決まりました。

今回は貴生川駅から途中下車しながら北上します。

失礼ながら空いているのかと思っていましたが、貴生川では先の切符売り場渋滞のようにそれなりに利用されている様子。よかった。

今回は金土日限定の一日乗車券を利用します。
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この切符、貴生川駅から20分の日野駅との往復だけで元が取れる破格の設定です。
金土日しか販売されていないのは、それだけ週末は乗ってくれないということかも。。

貴生川駅から2駅で最初の下車駅、水口石橋駅へ。
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駅名看板のさびがちょっと怖い。

最初の目的地に行く前に、歩いてすぐの甲賀市ひとまち交流館へ。
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ここでパンフを入手して

歩いて10分もすれば、最初の目的地、水口城
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この水口城自体は水口石橋から一つ手前の水口城南駅が最寄りです。

ここからは水口の古い町並みを散策
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水口宿は東海道五十番目の宿場町でした。
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からくり時計や
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たくさんある曳山蔵が味を出しています。
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だいたいごみ置き場とセットなのは気になりますが笑 まあ出番少ないからね。

徒歩20分少しで次の城、水口岡山城の登り口へ

今日最初の山登りです。雨上がりでしたが、何とかなるレベルでよかった。
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頑張って水口城南駅まで帰ってきました。
最寄り駅は水口駅ですが、お昼ご飯も買いたかったので。空振りでしたが。
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この駅はさっきと違ってホラー感はないですね

単線の駅でのんびり電車を待ちます。非日常なら楽しい時間です。
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水口の街を抜けると田園風景に
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ふと気づくと車内は私だけ。
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お昼時とはいえ、厳しいですね。。。

蒲生氏郷ゆかりの日野城にも寄りたかったですが、日野駅からバスに乗る時間はとれず。

このまま進んで、文字通りの桜川駅を見たりしながら
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八日市駅へ。
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近江鉄道で一番大きな駅と言っても過言ではないでしょう。

駅舎も立派ですし、
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小さいながらもミュージアムもあります。
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バス待ちの間に八日市駅周辺をぶらり
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10分かけて隣の新八日市駅まで歩いてきました。
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見るからにレトロなこの駅舎は大正11年の建築

内部もかわらぬレトロ感。
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映画のセットのような改札口
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これはたまらないです。良い。

正面から最後の1枚
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レトロな駅名板もとても良い。Dyd〇のCMに使えそうですね

そんなこんなでバスの時間に。八日市駅から能登川駅を結ぶバスで、観音寺口バス停へ
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滋賀なのでとびたくんが待ってくれていました。
ここから繖山(きぬがさやま)の山頂の観音寺城へ向かいます。

登山口は結神社にあります。
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参拝したら、登山開始。

高低差に苦しんだり、遺構を見たりで1時間かけて観音寺城跡にある観音正寺へ。
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山中ですが、ひっきりなしに車と人が訪れる、人気スポットでした。

広い観音寺城は2時間半かけて堪能。
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その結果、セオリーを無視して石寺楽市の登り口に降りてしまい、終バスも過ぎていたので最寄りと呼べる距離ではない駅までさらに徒歩行軍となりました。

駅への徒歩途中に振り返った一枚。左上の幟と石垣から下りて来たのか。
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道中、中山道に立ち寄ると根来陣屋という石碑がありました。
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鉄砲で有名な紀州根来衆の末裔が建てた陣屋の跡地

区画はそれっぽいですが、遺構はなしとされているようです。
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登り口から1時間歩いて、近江鉄道平田駅に到着。いやーきつかった。
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近江八幡へ向かいます。八幡山城訪問記)や安土城訪問記)もありますが、今回は夕食の調達だけ。
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近江鉄道は実は西武系列

そして西武には滋賀が生んだ甲子園の主人公、山田陽翔選手が入団しました。
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当時はドラフト指名されたばかりでしたが、等身大パネルとは期待が伝わります。

近江牛カツをテイクアウトして八日市駅に投宿です。
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2日目 八日市-米原 多賀大社・敏満寺城・彦根城

八日市駅から再スタート。f:id:tmtmz:20250329145958j:image
土砂降りの休日の早朝では、さすがに車内も閑散としていました。

尼子駅
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歴史好きなら思わず食いつく駅名は、本当にあの尼子氏発祥の地。

高宮駅で乗り換え。踏切のあるレトロな駅、良い。
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相変わらず車内はガラガラでしたが、7時半から多賀大社に行く人はいないか。

変わった名前のスクリーン駅。駅前は即工場でした。
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多賀大社前駅に到着
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駅は綺麗ですし、きっと昼間は人で賑わうのでしょう。

こちらでは則本選手が推されていました。近江鉄道は野球好きですね。
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駅前に大鳥居と石畳。楽しみな景色が広がります。昼間に来ればよかったかな。
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美味しそう。。。やっぱり昼間に来ればよかった笑
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多賀大社の真正面のお土産屋に飾られた杓子は、多賀大社の名物です。
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駅から歩いて10分で多賀大社
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お多賀さんと呼ばれ、お伊勢参らばお多賀へ参れともうたわれた大社は、年間170万人もの参拝客を集めます。

表玄関には、秀吉の信仰に由来する太閤橋。1638年に作られたものです。
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秀吉も信心を寄せた延命長寿や、縁結び、厄除の神様として知られます。

立派な御神門を越えて
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立派な立派な拝殿
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ほぼ独り占めできるのは早起きの特権です。

寿命石
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平安時代東大寺再建を命じられた俊乗房重源上人が多賀大社を参拝し、寿命を二十年授かった際のゆかりの石とされます。周りの白石は、その寿命石へ願いを込めたもの。

境内脇にもたくさんの文化財

明治維新に先だって長州、土佐の志士らが密儀を交わした文庫
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室町後期、六角氏や浅井氏の寄進で鋳造された釣り鐘
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奉賛者として六角義賢浅井長政の名も見られるのだそう。

太閤蔵
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秀吉が大政所の病気平癒祈願で多賀大社を訪れ、快復のお礼により建てられた蔵です。

早朝の分、静かで厳かな雰囲気で参拝することができました。

もう一つ寄り道は、東名高速多賀SA
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の敷地内にある敏満寺城
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今はドッグランとなっていますが、土塁に囲まれた雰囲気は分かります。
SAに歩いていけるのも驚きですが、そこに城跡があるのも驚きでは。

もう一度近江鉄道に戻ってきました。さらに北上します。
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さすがに彦根が近づくと乗客も増えてきました。家族でフリー切符を使っている様子もあり、日常の様子も少し見えました。

私も彦根駅で下車
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駅にはあの人気者がいました。
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改札真正面にも。
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これ以上ない道案内ですね。佐和山城も気になりますが、今回は素直に従います。

目標に期限は大切ですよね。達成したというニュースは見ていませんが。。。
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駅前ロータリーでは井伊直政公がお出迎え。
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遠くには小さいながらも彦根城も見えています。もう少し晴れていれば。
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歩いて彦根城へ向かいます。

本当にいたるところで姿を見ます。
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15分ほどで彦根城
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足元も天守も素晴らしい。さすがは国宝天守です。

彦根城下町は賑わっていました。お土産を調達して彦根駅へ。
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米原駅へはチートしましたが、近江鉄道米原駅も見ることで旅の締めくくりです。
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雨もあってかなり健脚な行程になってしまいましたが、ローカル線の雰囲気も味わいつつ、湖国の名城も楽しみつつの2日間になりました。
メジャーどころメインの訪問になりましたので、行けなかった城と彦根米原間の近江鉄道の乗車のための再訪も計画したいところです。

個別の城訪問記はまた後ほど。

こちらは過去の近江の名城訪問記

tmtmz.hatenablog.com

tmtmz.hatenablog.com

↓気が向いたら押してやってください

城 - ブログ村ハッシュタグ
#城

亀山城 (愛知県新城市) -地域に根付く奥平氏の居城

作手の城めぐり、最後にしてメインディッシュの亀山城へ。
古宮城の続百名城スタンプを押した際、スタッフさんから古宮城以上におすすめされて以来ずっと行きたかったところです。

地元の偉人、奥平氏の居城として愛されていることも、それがなくてもおすすめされただろう理由もよく分かる名城でした。

お城:亀山城 愛知県新城市
HP:亀山城跡:新城市
訪問日:2024年3月

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概要

上野から移った奥平貞俊が川尻城に続いて1424年に築城。その後5代166年に渡り、奥平氏の本拠となりました。

1573年、奥平信昌が長篠城主となり廃城に。そのまま長篠設楽原の戦いを迎えました。

1602年、信昌の四男、松平忠明が入り復活しますが、1610年には伊勢亀山城に転封となり、亀山城は廃城となりました。

訪問記

道の駅つくで手作り村の目の前の石橋城(訪問記)から引き続きの城めぐり。
今度は道の駅を挟んで反対側です。

道の駅の第二駐車場脇に立派な登城口と
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各種案内が揃っています。さすがは地元の主たる奥平の本拠地。力の入れようが違います。

ただ、縄張図はないので、本丸の看板をお借りして全体像を確認です。
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山頂に土塁に囲まれた本丸が置かれ、その東西の虎口に続いて二の丸と、土橋を挟んで曲輪が置かれています。
北、西面は堀や腰曲輪もありつつ、全体には急な切岸で竪堀も設けられています。
南面は深く広い横堀が走ります。

道の駅の駐車場は南西の斜面下。西側から本丸を抜けて二の丸、最後に南の横堀を戻るルートで見ていきます。

駐車場から遊歩道を進むこと数分で鬱蒼とした空間に入ってきました。
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比高もほどほどで、城マニアでなくても道の駅のついでに寄ってしまう作りかも(笑)

最初の遺構は縄張図でいう南曲輪下の空堀
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浅いですが、切岸と土塁ははっきり見て取れます。

少し進んで左手は腰曲輪
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こちらも土塁が残っています。低いのは風化でしょうか。

先へ。下から見ると威圧感の残る土塁の間を抜けていきます。
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抜けた先、右手は深くて広い、幅4mほどの空堀が走っています。
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こちらは本丸と南曲輪の間のもの。堀底道は通路として使われていたと考えられています。

南曲輪周囲の空堀ばかりで肝心の南曲輪が出てきませんが、実は先の写真の堀右側に写っていました。
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腰曲輪とは違って周囲より一段高いところにありました。一見、広い土塁や櫓台のような。

登城路挟んで左手には西曲輪が半月状に広がります。
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土塁を感じない写真ですが、外側は高い土塁に覆われています。

現地では気づきませんでしたが、もう少し進んだ本丸虎口から振り返ると、この西曲輪の土塁は虎口をふさぐ配置。西曲輪は堀は伴わないものの馬出と考えられる曲輪でした。
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と、いうようなことが市のHPにも書かれていました。予習していたら現地でニヤニヤできたのに。

西曲輪の探索に戻って北側には虎口が置かれています。
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本丸もすぐそこですが、天邪鬼なのでまずは本丸北側斜面にあたるこちらから探索。

抜けた先は腰曲輪と
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そのまま東方向へは浅い空堀が伸びていて
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堀はそのまま落ちて行っていました。

反対の西側は屈曲した堀のような地形に。
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縄張図からすると、この奥に竪堀が伸びているようですが、枯草がひどく足を踏み入れる勇気はでませんでした。

改めて腰曲輪から本丸を見上げます。
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こちら側は国道に面する方向。国道から良く見える看板で、亀山城のアピールはどこまでも万全です。古宮城とは大違い

さて、西曲輪まで戻って本丸へ向かいます。土橋越しの本丸虎口を一枚。
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本丸西側の虎口はシンプルな平入虎口です。

くぐって、本丸全景
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横長の本丸は長辺60m、短辺30mほどとなかなかの広さ。

周囲に土塁が巡りますが、かなりなだらかで風化していそうな見た目です。
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本丸には定番の城址碑と解説板が置かれています。
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あとこちらも定番の眺望。街道を見下ろす景色は当時に近いような気もします。
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亀山城址」の看板の横から見ていたので麓からも良く見えていたんでしょう。恥ずかしい笑

二の丸の虎口へ
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空堀を見つつ
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緩やかに降って二の丸へ
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縄張図の通り亀山城では広めの曲輪に、外周には土塁を持ちます。

東側から崖下を眺めました。
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ここまでは風化が進んだところが多かったですが、ここは切岸がしっかり。
高さも意外なほどありました。

虎口は南側と
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北東側の枡形の二か所
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やはり輪郭はぼやけていますが、現地でははっきり枡形を感じる特徴的な虎口です。

虎口の先は小曲輪を挟んで
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先ほど見た傾斜を一気に下ります。
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降りきった先、パンフには農道と書かれていましたが、堀底道のような通路。
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深くて結構良い雰囲気だと感じたのですが、農道なのかな。

堀?の東側も曲輪のような平場が広がります。
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そのまま農道?は麓につながります。
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折り返して南、東側の曲輪を見ていきます。
こちらは東側に抜けた先にある車道
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この先に、亀山城の駐車場があります。
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道の駅の駐車場の方が広くて表通りから近いですが、こちらは登城口まで文字通り直ぐ
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ここを登ると

東曲輪の直下にたどり着きます。
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こちらもいつの間にやら結構な高低差です。

もう少し進んで東曲輪の内部
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他の本丸周囲の曲輪と同様に土塁を持ちます。

さらにもう少し進むと、先ほど見た二の丸南側の虎口にたどり着きます。
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東曲輪はちょうどこの虎口の正面を抑えるような立地にありました。

西方面へ。
通路から本丸を見上げてもやはりかなりの高低差。
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北面もそうですが、天然の急傾斜をうまく生かしているように感じます。

すこし西に進んだところに大手址の看板がありました。
てっきり馬出も置かれた西側が大手と思い込んでいましたが、こちらが大手道とは。
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一度車道とぶつかる大手口?まで戻ってから城内を振り返ると、大手道が、正面の東曲輪にぶつかって曲がり横矢をかけられる様子が見えました。
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東曲輪は大手道の重要な防衛拠点だったのでしょう。

さらに大手道は本丸直下へ。
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いきなり本丸直下までたどり着きますが、高低差のために上がる訳にも行かず、先の二の丸虎口か、西に向かうしかなく、その間攻撃に曝され続けるというのが想定かな。

こちらがその西側。本丸を横目にした堀底道が続きます。
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途中に開いた虎口は
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最初に見た南曲輪下の空堀。そのまま西側登城路へ。
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そして元の堀底道も西側の主郭虎口へつながって、亀山城一周です。
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感想

満足度 4/5

資料館スタッフさんに古宮城を差し置いて推された理由も、その愛着もよく感じられる城でした。
さすがに古宮城ほど超絶技巧ではないにせよ、良く残った遺構、興味深い縄張に行き届いた整備と、作手まで足を延ばしたならぜひ立ち寄りたいところです。

看板のアピールに隣の道の駅の美味しい食事にと勧誘もすごいですし、のってみるのが良いのでは。

アクセス

亀山城

石橋城 (愛知県新城市) -謀反の歴史残る屋敷跡

引き続き、旧作手村で城めぐりです。
事前の予定にはなかった城を現地で発見してちょいよりしてきました。石橋城。

立派な遺構が盛りだくさん、、、という訳ではありませんが、しっかりとした土塁に方形居館の名残を感じる場所でした。
悲しい歴史を今に伝える寺院として今も地域の方に大切にされているようです。

お城:石橋城 愛知県新城市
HP:石橋城址(慈昌院) - 新城市 - | キラッと奥三河観光ナビ
訪問日:2024年3月

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概要

奥平家2代、奥平貞久の二男、弾正久勝が築いたとされます。

1537年、久勝の子、繁昌による主君への謀反が発覚。
主君貞勝により攻められ、郎党40余人が討死しました。

後年、徳岩明和尚が繁昌と一族を悼み、城跡をもらい受け、慈昌院としました。

訪問記

古宮城(訪問記)、文殊山城(訪問記)、塞之神城(訪問記)に引き続き旧作手村の城めぐり。
拠点を道の駅つくで手作り村に移します。
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これは駐車場のアクセスが良いこともありますが、
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腹ごしらえもしたかったから笑f:id:tmtmz:20240322211151j:image
ハヤシライス+コロッケのトッピング。トマトの酸味がよく効いて美味でした。

美味しいらしいフランクフルトは見逃してしまったので、これは再訪案件かな。

駐車場のわりに建物は小さめかと思いますが、昼ごはんには十分。お土産も扱っていてこのあたりの城めぐりの重要拠点となりそうです。

腹を満たしたら城めぐりを再開。
今回取り上げる石橋城は道を挟んだ反対側にあり、ものの数十秒で到着です。
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一段高い綺麗なお寺が今の姿。この段差は当時の名残でしょうかね。

今は慈昌院というお寺となっています。繁昌を悼むように感じるお名前です。
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良く整備された綺麗なお寺
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今も地域の方の信仰を集めているのでしょう。

もちろん参拝はしましたが、ここに来た理由はハヤシライスを食べて雰囲気のよいお寺を見つけてお参りしたくなったわけではなくて、雰囲気のよい城跡を見つけたから。
奥にある石橋城の解説から城めぐりに寄せていきます。
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縄張図も備えた本格的な案内。
図の通り、方形の居館跡で、北面から西面には土塁と堀が残ります。

こちらがその土塁。
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かなりの高さを残す土塁が、西面をずっと囲んでいます。
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まさに方形居館のそれと言った感じ。

建物の奧、北面もこの通り
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建物の様子は違えど、かつてもこのように建っていたのでしょうかね。

土塁付近から全景を見るとこんな感じ。
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広さと言い亀山城への近さと言い、当時なかなかの厚遇ぶりだったのではないでしょうか。それでも謀反からの皆殺しになるんですからわからないものです。

北西には虎口も残されています。
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抜けると堀も残っています。
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残念ながら左右は埋もれつつありますが、わずかでも名残があるのは嬉しいものです。

散策できる範囲はこれですべて。この次は同じ道の駅を拠点に歩いていけるもう一城へ向かいます。

感想

満足度 2.5/5

遺構は土塁や堀、高低差だけですが、そこから素人ながらに当時の様子を少し想像できたのは楽しかった。

現地の案内で偶然存在を知り、距離も近いので無理やり予定にねじ込んだわけですが、その分の成果は得られました。

さすがにメインで訪問する規模ではないと思いますが、同じ道の駅を拠点にできる亀山城とセットなら十分ありかなと。

アクセス

石橋城

塞之神城 (愛知県新城市) -古宮城を見下ろす山城へ

文殊山城(訪問記)に続いて尾根続きの塞之神城へ
来歴不明ではありますが、武田家と奥平家の間に関係するのは間違いない山城です。

主郭を中心に良く作りこまれており、遺構の残りよく、文殊山城に訪問するならぜひ足を延ばしたい名城でした。

古宮城(訪問記)とも街道を挟んで反対の至近距離。こちらの関係も気になるところ。

お城:塞之神城 愛知県新城市
HP:塞ノ神城址 - 新城市 - | キラッと奥三河観光ナビ
訪問日:2024年3月

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概要

詳細な歴史は不明です。

1570-73年頃の武田氏と奥平氏との和睦の際に築かれたとも、それ以前の米福長者の時代に存在したともされます。

訪問記

文殊山城からその足で訪問。スタート地点は文殊山城を抜けた場所にある看板です。
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尾根をずーっと案内に従って進みます。
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傾斜もきつくなく、足元も整備されていて安心です。

途中からはササの中の踏み跡を頼って
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10分ほどで最外部の堀切に到着
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この堀切は写真よりかなり明瞭で、現地では明らかに城域に入ったことが分かります。

ここで主郭に置かれた案内板の縄張図をお借りして全体を確認しましょう。
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山頂に土塁に囲まれた主郭が、その東と南西に伸びた尾根に小郭が置かれ、南西には比較的大きな二郭を持ちます。
二郭の西、南に延びる尾根は堀で断ち切られており、今はそのうちの西の尾根にたどり着いたところです。

改めて先ほどの空堀を見ていきます。
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文殊山城とをつなぐ尾根を断ち切るもの。深さもよく残っています。

結構な傾斜を登り切った先が
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二郭
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塞之神城では主郭に次ぐ広さを持つ郭です。明瞭な土塁は見られず、丁寧な削平も相まって真っ平という印象。

ただ、南側には少しだけ土塁が残り
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今も鋭い堀切が残ります。
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先ほどの堀切もそうでしたが、こちらはさらに鋭く、なかなか良い。

主郭方面へ向かいます。
緩やかな傾斜の残る腰郭?を左右に見ながら
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不明確な堀切と土橋のような部分を進みます。
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こちらの写真は渡り切ったところから振り返って撮影。奥が二郭です。

主郭足元の小郭を越えて、通路は主郭南面へ回り込みます。
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この先、虎口があるのですが、全く見えません。
そうこうしている内に、きっと上に見える主郭から狙われているのでしょう。

主郭虎口
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下から見ると土塁が低いように感じるかもしれませんが、かなりの高さかつ厚さ。
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内部から振り返ってもう一枚。

主郭全景 西側の土塁
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南側の土塁
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そして中央全景
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主郭は、高い土塁が西、南、北面にめぐらされています。かなりの安心感です。

傾斜が緩いところから土塁に登ってみました。
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土塁上に数多く置かれた石は、土塁の補強だったりするのかな。。。?
登城路にもチラホラ石が転がっていて、関係はあるのでしょうか。

土塁上から北側の腰郭を見下ろします。
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遠目ですが、あちらもしっかりと作られている印象です。

主郭東側へ。古宮城方面、東側の尾根につながる虎口と、郭が置かれています。

主郭東側の虎口を
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抜けるとかなりの傾斜かつ
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右手には階段状に設けられた郭たち
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ただの藪写真にしか見えないかもしれませんが、そうではないんです笑

振り返った景色を見ると、改めて登城路脇に階段状に置かれた曲輪が良く見えて、とても攻めあがる気にはなれない光景です。
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正面に見える郭の土塁が不気味です。

この東側を守る郭の一つに入ってみました。
こちらもただの藪写真になってしまったので写真は遠慮しましたが。。。

虎口を伴う土塁に守られた郭。本丸足元の小郭には似つかわしくないほどの厳重な守りでした。こちらから攻め込まれることも十分に想定されていたのでしょう。

そのまま斜面をある程度下りたところで、塞之神城終了です。

本当は南側の尾根にもトライしたかったんですが、侵入ルートが分からず。
北側の井戸遺構も分からず。このあたりは予習が足りなかった。

感想

満足度 3.5/5

残りも良く、堀や土塁など素人でも楽しめる遺構も多く、訪問難度も低く好印象です。
特に、回り込んで主郭虎口を抜けたときは、思わず声も出そうなほど。

造りこまれた山城が良い状態で残っている良物件でした。
見逃した遺構が残っているので、情報を集めたら再訪したいところ。

アクセス

塞之神城