続百名城 高天神城へ。
高天神を制する者は遠州を制するとも言われた要衝でした。
大河ではチラッと登場程度かつ、訪問はそれよりずっと前でしたが、それでもたくさんの観光客。
注目度の高さを感じつつ、西峰の遺構を見てまわられていた方は少なかったような。
今もはっきりと残る素晴らしい遺構を手軽に感じられてとても面白いので、本丸だけでなく堂の尾曲輪方面にも足を延ばされるのをおススメします。
お城:高天神城 静岡県掛川市
HP: 高天神城跡 - 観光サイト
訪問日:2019年5月、2023年2月
概要
築城時期は諸説あり、今川氏が勢力を拡大する中で築かれたと考えられています。
今川氏家臣の福島氏、続いて小笠原氏が城主となりました。
桶狭間の戦い後、小笠原氏は徳川方につき、武田軍の侵攻に相対することとなります。
信玄による侵攻には耐えますが、1574年、勝頼により攻め落とされます。
勝頼は高天神城を改修しますが、長篠の戦いで形勢逆転。
徳川氏が高天神城周囲に6つの砦を築いて包囲し、5年がかりで攻め落とします。
兵糧攻めにより追い詰められ、最後は城番の岡部元信を先頭に全員突撃し、玉砕。援軍を送れなかった武田氏の名声は大きく低下したとされます。
その後、廃城となりました。
訪問記
掛川駅から高天神城へ
遠州の要衝、高天神城へ。今回は公共交通で向かいます。
駅から離れてはいますが、意外と(?)アクセスが確保されていたので。
スタートはJR掛川駅の北口
新幹線も止まりますが、こだまのみ。
東海道新幹線の駅では少し存在感が薄い駅の、新幹線が通っているとは思えない和風駅舎からスタートです。
掛川駅からは天竜浜名湖鉄道というローカル線も出ています。
なかなか味のある路線でしたので、良ければ寄り道の記憶もどうぞ。
もう一度駅北口へ。
掛川駅で見たかった掛川城は駅からは見えず、代わりに大河の旗だけ拝んだら、
バスに揺られて高天神城へ。
高天神城まではバスで1本。1時間に1~2本と最低限の数もありました。
最寄りっぽい名前の高天神入口バス停にはほぼバスは行きませんが。
まずはパンフ目当てに大東北公民館へ。
最寄りもそのまま大東北公民館前のバス停、30分の道のりです。
高天神城に直行される場合は、次の土方バス停で降りるのが良いでしょう。
その名の通り、バス停目の前の公民館でパンフレットをゲット
パンフレットは掛川駅のバス停や現地にもありますが、他にも高天神城の歴史の展示が多く、散策前に寄っておきたい場所かもしれません。
馴染みの無い公民館に入るのは少し勇気がいりますが、良くしてもらえましたし。
続100名城スタンプもこちらで押すことができます。
モデルは搦手門付近かな。
声をかけてスタンプを出してもらうスタイルなので、こちらも少し勇気がいります。
高天神城方面へ歩いて向かいましょう。
道中気になる碑は千人塚
1581年の第二次高天神城の戦いの多数の戦死者を埋葬した塚でした。
凄惨で知られる戦いの塚と言われると、感じるところも違いますね。
高天神城西峰
大東北公民館から歩いて15分ほどで城北側の搦手門駐車場に到着
搦手門ではありますが、今は正面入り口のようになっていて、駐車場も広い広い。
駐車場の最奥から登城開始です。
想像図で分かる通り、高天神城は西峰と東峰からなる一城別郭の縄張りを持ちます。
今いる搦手門はちょうど二つの尾根の間。いかにも挟撃されそうな構図で嫌だ嫌だ。
搦手門から登城開始です
このあたりの足元は整備されている印象ですが、
坂道はなかなか急。
そんなに距離があるものでもないので頑張りましょう。
登ると、三日月井戸
武田氏の頃のもので、飲み水かと思ったらそうではないようです。
今は金魚が泳いでいました。まさか当時金魚を飼っていたわけではないでしょうが(笑)
三日月井戸から少し登ると2つの尾根の間に到着です。
現地の縄張図からは鐘曲輪かと思いましたが、それはこの下の薮の中。
その名の通り、敵襲を知らせる鐘や太鼓を鳴らしたそう。
この先、本格的に城域に入りますので、目の前にある縄張図を見ていきましょう。
東西に2本、南北方向に延びる尾根に、いくつかの曲輪を持ちます。
西峰は西の丸を、東峰は本丸を中心として尾根に沿って曲輪を並べた構造です。
西峰には武田氏の改修の跡が見られ、横堀や堀切も残ります。まずはそんな西峰から。
最初は東西をつなぐ井戸曲輪
その名の通りかな井戸が置かれています。
先ほどの三日月井戸まで行かずともこちらで十分飲み水は確保できそうですね。
傍らには尾白稲荷も置かれています。
この先、西峰を北へ、看板通り二の丸方面に向かいます。
こちらも看板の通り、かなりの急斜面に細い通路が置かれていて、
崖下には搦手方面から来た道が見えています。
やっぱり狙いたい放題ですね。
ここから本格的に西峰の曲輪を見ていきます。
まずは袖曲輪
西側と中央に土塁を持つ小さな曲輪です。
一見何の変哲もない曲輪ですが、
その北端、堂の尾曲輪との間がすごい。
深くて急な堀切で切られています。いやーすごい。
絵になる堀切です。
堀切を降りると目の前に広がるのが長い長い空堀
西峰に縦に伸びる曲輪群すべての西側に沿うように全長100mにも達します。
先ほどの袖曲輪側にも伸びます。
こちらは武田氏による改修でできました。
高天神城は西側だけが緩斜面で武田軍もここから攻めた弱点だったからだとか。
先の堀切も併せて、力の入れようがすごいです。
いったん曲輪に戻って北上します。続いては堂の尾曲輪
西側に土塁を持つ南北に長い曲輪です。やはり西側の守りへの意識が感じられます。
現地には、武田軍侵攻時に二の丸主将だった本間氏清、跡を継いだ丸尾義清兄弟の死を伝える解説が書かれています。
供養碑は袖曲輪下にありました。何度も戦の舞台となっていると、重みが違います。
土塁伝いに進んでいくと、また堀切
次の井楼曲輪との間を切ります。
先ほどのものほどではなくてもこちらも十分にくっきり。
井楼曲輪
こちらもやはり西に土塁を持つ南北に伸びた曲輪です。
曲輪北端から振り返ると全景が分かりやすいかも。
西峰北端に位置して眺望が良く、物見の櫓が置かれていました。
堂の尾曲輪で説明のあった本間、丸尾兄弟の狙撃はここであったとのこと。
北端からの眺め
木々が生い茂るうえに櫓もないですが、それでも良い眺望です。
櫓を置きたくなる気持ちもよく分かる。
井楼曲輪を降りて、西の空堀伝いに戻りましょう。
ここまでの曲輪群全てをカバーするように伸びる空堀。
ここまで来てもこの深さが残るところもまたすごい。よほど深く作られたのでしょう。
井楼曲輪付近には竪堀もほる力の入れようです。
まあ肉眼ではよく分からないのですが。
やっぱりこっちのどこまでも伸びる感じがいいな。
徳川氏による攻城戦は兵糧攻めで、ここまでした防御機能も実戦では使われなかったと考えられます。守りによる威圧感で力攻めさせなかったともいえるのかな。
空堀伝いに戻り、西峰の中心となる西の丸方面へ向かいます。
まずは袖曲輪の上にある二の丸へ
少し登る程度でほぼ同じ高さにあり、堂の尾曲輪などと一連の曲輪群という印象。
ただ、尾根が少し広がった場所にあるため、東西方向に長いかなり広い曲輪です。
西側に土塁を持っていることは共通
この先、西の丸とはかなり高さが違います。
西の丸にはそのまま攻めさせないあたりも上手い作りになっています。
西の丸へは井戸曲輪から登ります。
今は高天神社となっているこの場所が西の丸
参拝しつつ、
気になるのは脇の土塁
今までと比べても圧倒的に残っています。
それだけ厳重に守られていたんでしょうね。
脇の堀切を越えて馬場平へ
馬場の名に反する細い曲輪と思ったら、番場の当て字で見張番場があった場所だとか。
南方面への眺望がすばらしい。
奥の延びるのは犬戻り猿戻り
甚五郎の抜け道とも呼ばれ、第二次高天神城攻めの際に横田尹松が城を脱出、勝頼に落城を報告した道だそう。
私は脱出せずに東峰へ向かいます。
切の良いところで、東峰はまた次回。
tmtmz.hatenablog.com掛川に来たらやはり寄りたい掛川城もいかがでしょう。
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