関西遠征第2弾は和歌山城へ。
紀州徳川家のお膝元ですが、個人的には和歌山観光はラーメンやらパンダやらばかりで(パンダは和歌山市ですらないですが)、城下町の印象はなく。
実際に訪れて印象を大きく覆されました。
今回は外周の石垣を見ながら現存の門を見ていきます。
有名な天守に至るまでにも見どころがたくさんありました。
お城:和歌山城(62)和歌山県和歌山市
HP:トップ|史跡和歌山城
訪問日:2021年12月
概要
1585年、羽柴秀長が秀吉の命により虎伏山に城を築いたことが始まりです。
秀長は大和郡山城を居城としたため、桑山重晴が家老として城代を勤めました。
そのまま秀長家が断絶すると城主となります。
1600年、関ケ原の戦いの後、浅野幸長が入り、大改築。
天守や屋敷の造営、大手門の移設と城下町整備を行いました。
1619年、徳川頼宣が入り、紀州徳川家が成立。
御三家にふさわしい城として、二の丸の拡張や砂の丸、南の丸、庭園を造成しました。
1846年には落雷で天守が焼失しますが、御三家の特例で再建されます。
天守は明治維新後も残り、旧国宝指定されますが、第二次大戦の空襲で焼失しました。
現在は、1958年に再建された天守を中心に和歌山城公園として整備されています。
訪問記
和歌山城公園へ
和歌山と難波をつなぐ私鉄なので車窓は街中と思っていたら、意外と海沿いを走ったり
山を越えたりとバリエーション豊か。
峠を越えると遠くに来た気持ちになりますよね。
実際に1時間くらい揺られて、はるばる和歌山市駅に到着
思えば遠くへ来たもので。
綺麗な駅とは裏腹に駅前はちょいと寂しいですが、大きな看板で紀州徳川家と雑賀衆が推されていて歴史好きとしては嬉しい限り。
駅から和歌山城までの徒歩10分の道中も、町名が城下町由来ばかりであったり、川が明らかに旧外堀らしい形をしていたり、さすがは御三家の居城という広がりです。
この市堀川は睨んだ通り外堀由来で、江戸時代には北は町人町、南は武家屋敷(三の丸)に分かれていました。
ということは、ここから三の丸のはずですが、今の和歌山城公園までさらに徒歩5分。
さすがは御三家の居城です。広い。
和歌山市ってここまで城下町感を残っていたんですね。ラーメンとマリーナシティのイメージしかなかった。。
その市堀川から5分、トータル10分歩いて和歌山城公園に到着。
早速大きな堀と石垣が見えてきました。
外郭は都市化した部分もとても広い和歌山城。
遺構も狭まったとはいえ十分に広くて、ちゃんと計画していかないと。
吹上門入ったところにあった看板の図で今の姿を確認です。
写真は岡口門にあった同じ絵をお借りしています。
中央緑に囲まれて描かれているのが山上に置かれた天守曲輪と、東の松の丸。
その周りを南の丸、御蔵の丸、二の丸、西の丸、砂の丸が囲みます。
北東に大手門、南東に岡口門などを持ち、その外側には広い水堀が今も残っています。
この図の北側欄外が先ほど見てきた三の丸と市堀川です。
今いるのは北西オレンジの吹上門。今回は南下して南東の岡口門へ向かいます。
砂の丸・追廻門
吹上門は、最も湊に近く堀で繋がっており、物の行き来にも使われました。
当時は変則的な枡形虎口で、橋の東側に物資搬入のための雁木があったとのことですが、大きく改変されていてなかなか厳しい。
そんな中でも当時を残すところが、勘定御門の左右の石垣の積み方
目地が通って少し綺麗な西側と
荒々しい野面の東側
この東側石垣までが浅野期の初期に、西側は徳川期に積まれたと考えられています。
ここの石垣は大きさもバラバラで、いろいろな所で見る野面の中でも特に荒々しい。
本丸を囲む曲輪の一つ砂の丸は、かつての砂丘を利用しています。
いまも砂のグラウンドなのは砂の丸の名残、、、ではないか。
砂の丸から東側、二の丸への通路は少しくぼんだ地形。
浅野氏が鶴を飼っていて、鶴の渓と呼ばれています。
手前には鶴の門がありました。
鶴の渓から見る本丸方面の石垣もとても荒々しい野面積みの高い石垣が続きます。
ここの石垣の雰囲気は好きですね。
砂の丸へ戻って、高石垣と天守をチラ見しながら南下。
追廻門
搦手にあたる門で小さめですが、空襲で焼けずに残る貴重な遺構です。
朱色は裏鬼門の厄除。
追廻門の名前は、門の外に馬術を練習する追廻があったことから来ているそう。
さすがに誰かを追い回したわけじゃなかったか笑
不明門・岡口門
追廻門からいったん外に出て、外から高石垣を堪能です。
大きな城だけあってさすがの高石垣。
あの櫓台に櫓が建っていたら、見張られてる感すごいでしょうね。
南端はいかにも堀跡っぽい道路につながります。
頼宣の城改築に際して砂丘を切通して作られた三年坂がもとになっています。
そんな三年坂につながる門が不明門
普段は開かない門で、遺体や罪人が通る不浄の門、有事の城主の避難口とされます。
門は明治後期まで残りましたが損傷が激しく解体、今は駐車場入り口です。
櫓台の隅石や虎口の形状はとてもきれいに残っているのですが、門の損傷が激しかったとは、不浄の門だけあってあまり修復されなかったのかな。
不明門から東側には南堀が広がります。
今は空堀ですが、当時は水堀でした。
不明門を境に同じ南面の防御が高石垣と水堀で変わっているのはなぜでしょうか。
先ほどの写真、不明門付近の南堀の石垣はきれい目の打ち込み接ぎですが、
岡口門に近づくと荒々しい野面積みに代わります。
この辺古めなんですね。素人目にも築城時期が窺い知れて面白い。
そのまま南東端へ。
広い東堀を望む場所に
岡口門が残ります。
豊臣秀長、桑山重晴時代には正門として扱われた櫓門。
和歌山城では貴重な戦災を免れた建築物です。
東堀の写真左端の、石で囲った狭間をもつ土塀とともに重文指定されています。
かつては両端に蔵や櫓が続いていましたが、取り払われて切妻形式。
ちょっと寂しい印象ですかね。
ただ全体に感じる年季とその寂しさが当時を感じさせてくれるような。
ここから天守方面に向かいますが、ここからはまた次回。