にわかお城ファンの旅行記

にわか城好きの歴史探訪記

周りに影響されて城巡りを始めました。百名城スタンプ目当てだったのに気がついたら沼にハマっていました。

百名城 岩村城 (38・岐阜県恵那市)1/2 -残雪の三大山城 山麓から菱櫓へ

明知鉄道でたどり着いた岩村駅から、そのまま百名城の岩村城へ。
日本一高い地にある城として、三大山城とも呼ばれます。

ただ、三大山城の箔がなかったとしても、その遺構だけで訪問する価値は大アリ。
登りはなかなかしんどいですが、山中に残る素晴らしい石垣を見れば登る元気も出てくるものです。

お城:岩村城 岐阜県恵那市
HP:http://onna-jyoushu.iwamura.jp/
訪問日:2017年7月、2022年3月

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概要

築城時期は不明ですが、1185年に加藤景廉が遠山荘の地頭となり、その長男、景朝が築いたともされます。

戦国時代末期には、武田家家臣の秋山氏の侵攻を受け、落城。その後、武田家の弱体化もあり、織田家が奪取します。
この中で、遠山家の実質的な女城主であったおつやの方の悲話が残ります。

その後、河尻秀隆、森長可らが入城、関ケ原の戦い以降も大給松平氏、丹羽氏らが城主となりました。

日本一高い地に築かれた山城は三大山城と呼ばれます。

訪問記

山麓居館部

散策のスタート地点は岩村歴史資料館から。
駅から歩いて20分ほど。広めの駐車場もありますので、車の拠点にもなります。
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ここに100名城スタンプも置かれています。
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モデルはもちろん六段壁。記事でたどり着くのは次回かな笑

この岩村歴史資料館があるのは、岩村藩主邸跡
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今や名残は看板だけですが、江戸時代にはこの地に屋敷がありました。
江戸時代初頭には下りてきたということは、やはりこの山城で山上に住むのは相当大変だったんでしょうね。

今の藩主邸跡には、いくつかの建物が移築、復元されています。
こちらは藩校知新館の正門を移築したもの。
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岩村藩は小藩でありながら美濃国で初めて、全国的に見ても早い段階で藩校を設立する先見の明がありました。

こちらは平重門
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光の関係で裏からです。

太鼓櫓表御門も。
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これらはふるさと創生事業で1990年に再建されました。絵になります。

看板には本物の城復元を主体に、超長期計画により城全体や城下町を復元、再建すると強気に書かれていましたが、まだ計画はあるのでしょうか。

本格的な登りへと向かいましょう。その前に全体像を確認です。
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ちょっと遠すぎかもしれませんが笑、今いる藩主邸跡は水色で示されています。広い。
ここから青の数字に従って上へ登っていき、一番上の薄黄色あたりが本丸近辺です。

12が有名な六段壁。そこまでは門とオレンジであらわされた屋敷地が続きます。
追手門は9。大きく見ると3つに分かれた屋敷地(オレンジ)の上2つの間にあります。
この追手門脇に三重櫓が建てられ、実質的な岩村城天守でした。

長い大手道は随所に屈曲、門が置かれ、守りへの意識も伺えます。

登城口~一の門

遠い道のりの看板を見ただけで疲れそうですが、気を取り直して登城開始です。
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麓ですら3月初旬に残雪が残っていました。寒さも厳しかったのでしょう。

真っ黒に飛んでしまった石碑にはこんな字が書かれていました。

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こちらは夏の姿。

ものの数分で、明らかに居館跡という雰囲気の段々の平場に到着。
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そこにあった古めかしい門が下田歌子勉学所
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明治時代の女子教育の先駆者で、実践女子学園の創設者でもあります。
神童と呼ばれるほどの才覚がありながら、藩校知新館への入学を女というだけで断られた、苦難の過去もありました。

この先から、いよいよ本格的な登りが始まります。

というところがこの状況。。。
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ただの残雪に見えるかもしれませんが、路面はいわゆるアイスバーン。つるっつる。嘘みたいによく滑りました笑 
慎重に進んでも、両足をのせた瞬間に滑ってスタート地点に戻されるくらい。

進んでは戻されを繰り返すこと幾ばくか、ようやく乗り越えて山中へ分け入ります。

最初の坂道には、藤坂という名がつけられています。
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加藤景廉の妻の輿入れの際に、地元から持参した種から育てたとされる藤があったことが由来とされます。

少し進んで道が屈曲する部分には初門がありました。
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有事の際には門を構えたのだとか。

この先、しばらくはこの石畳の道を登り続けます。
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歩きやすいのは良いですが、なかなかに登ります。。。

5分ほど登ると美しい石垣が見えてきました。俄然、元気が出ます笑
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このあたりにあったのが一の門
二層の櫓門で、向かって左手には単層の多門櫓、右手も土塀で守られた門は、番所として使われていました。

一の門の内側も、両側に屋敷地が広がります。
大手道は屋敷地に見下ろされる配置。守りも兼ねているのでしょう。
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このあたりも残雪多めでしたが、何とか足の踏み場は残っていました。よかった笑

土岐門~菱櫓

屋敷地を抜けるとすぐに二の門、土岐門です。f:id:tmtmz:20220307213537j:image
門を抜けると道は180度屈曲します。このあたりも工夫を感じます。

土岐門の足元にも美しい切込接ぎの石垣が残ります。
当時は土岐氏を破って手に入れた門が置かれていたそうで、今も移築されて現存していますが、見に行く時間はなかった。。

少し尾根道を進むと、
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畳橋
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空堀の向こうに高石垣と枡形の追手門、三重櫓が置かれ、空堀を越えるL字の畳橋が架かっていました。木橋の床板を畳のようにめくれたことが畳橋の名の由来だとか。
三重櫓は岩村城における実質的な天守に相当し、麓からも見える立地でした。
麓に権威を誇示する目的があったとはいえ、大手道沿い、本丸から離れた立地の天守、というのは珍しい。

というところを理解したかったですが、当時は絶賛工事中。。。
そもそも現在地がつかめず。
山中に現れる石垣の高さや美しさは素晴らしいのですが、ちょっと消化不良でした。

さきほどいた堀底?を石垣上から見返したのがこちら。
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三重櫓付近から畳橋を見下ろす構図かな?

畳橋を越えたところの高石垣。おそらく追手門の枡形を構成する石垣の一部かと。
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急傾斜も利用した高い石垣。よくこの山中に作ったものです。

この先もやはり石垣に囲まれた屋敷地が広がります。
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相変わらず屋敷を見上げる構図です。狙われるさまが目に浮かぶような。
そして、足元の石垣は本当に美しい。

この屋敷地は一の門奧のそれよりも長く、広いもの。
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その中に、霧ヶ井と名付けられた井戸があります。
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屋敷地にも井戸枠が置かれていて、水に恵まれていることが伺えますが、この井戸は名前が今も伝えられているように少し特別。
秘蔵の蛇骨を霧ヶ井に投げ入れると霧が湧いて城を守ったという伝説が残ります。
そして、この霧ヶ井が由来となり、岩村城は別名霧ヶ城とも呼ばれています。

伝説は非科学的でも、その元となった事象は実際にあったのでしょう。

本丸向かって左手の屋敷地の奧には、
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八幡神社という神社も置かれていました。
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加藤景廉を祀る神社で、1508年にはすでに置かれていたことが分かっています。
今は山麓に移り一部が残るのみですが、このあたりの名称、八幡曲輪にも名残を留めます。

八幡神社の跡から戻ると、延々続いてきた屋敷地もここで終わり。
ここから二の丸、本丸へと入っていきます。

八幡曲輪から先への通路沿いには、菱形をした櫓台に菱櫓が置かれていました。
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菱形の由来は山の地形、さらに櫓も菱形をしていたので、菱櫓と呼ばれました。
菱櫓の奧は二の丸です。

さらに足元の帯曲輪には俄坂門が置かれ、番所や多門が置かれていました。
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櫓沿いに曲げられた大手道。門が見えない現状でも守りやすそうな構図です。

ちなみに、菱櫓の先にも井戸。本当に水が豊富な山城です。
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そして見えてきたのが有名なアレ。
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メインディッシュをチラ見したところで、続きはまた次回。

明知城周辺散策 -明知鉄道で岩村へ

明知城散策に続いて、第三セクター明知鉄道で少し移動して岩村へ。

城好きなら訪問先のお城の目星もつくとは思いますが、今回は明知鉄道の乗車記です。

末端部分をかじっただけですが、レトロ、ローカルな良い雰囲気と頑張る3セクの心意気の一端を味わうことはできたんじゃないかな。

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明智鉄道明知線

簡単に路線概要から。

岐阜県恵那市恵那駅から明智駅を結ぶ25kmほどのローカル線です。
かつては国鉄の路線でしたが、1981年に第三セクター化し、今に至ります。
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列車内の路線案内。これで全部の小さなローカル線です。

日本有数の急こう配の駅が複数あるなど面白い特徴もありつつ、車窓は純然たる山間のローカル線の雰囲気。人も少なめでした。
昼間の末端部だったからかな。恵那方も乗って雰囲気を感じておかないと。
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岩村駅で去り行く列車とともに。非電化単線でいい雰囲気です。

一方で駅では様々な盛り上げる工夫が見られたり、各種イベント列車も仕立てたり、
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前向きに頑張っておられる様子に応援したくなる路線でした。とろろご飯美味しそう。。

明智駅岩村駅

旅のスタート地点は終着、明智駅から。
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平屋の典型的なローカル線の駅舎を持つ明智駅
バスも来ていて今も地域の交通結節点となっている様子がうかがえました。

明知鉄道明智駅
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この漢字のややこしさはWikipediaによれば明智駅があった旧明智町の町名が変わったことに由来するそう。記事中どこかで漢字を間違えていてもお許しください。。

駅構内には非常にお手製感漂うヘッドマーク?が飾られていたり
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明知鉄道公式キャラのてつじいもいました。
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水色のペンキが飛び散っているの、多分デザインじゃないと思うんですが、この辺のお手製感もなんだかいいですね。

乗った列車にもヘッドマークが出ていました。
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Postrainの名前の通り空いたスペースに郵便物も載せる貨客混載の取り組みだそう。
派手なイベント列車以外に地味?でも着実に収益につながる取り組みはいいですね。

乗ったのは旧国鉄を引き継いだ3セクあるあるの一両の気動車
ローカル感ある車内はいたって普通ですが、
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切符は変わっていました。硬券です。
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着実に話題を作っていきますね。本当。
岩村まで買ったはずがえらく縁起のいい名前の駅行きになったのはたまたまですが、なんだかいいことありそうな気がします。乗せられてるー。

最初の途中駅は、野志駅

Wikipediaによれば、日本で3番目に急勾配の駅なんだとか。
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駅名表と柵の傾きから何となく坂道感は感じられるかな。ちょっとわかりにくいかも。
列車は頑張っているのでしょうが、乗っている側からは変化は感じられず、傾斜を実感するには至らなかったんですよね。

ちなみに2番目の急こう配駅もこの路線にあります。が、1位は別路線に。惜しい。。

次は山岡駅

こちらのてつじいには水色飛んでいないですね笑
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この駅の名物は、このてつじい、、、じゃなくて寒天。
旧山岡町は細寒天のシェア80%以上を誇るのだとか。明智駅ヘッドマークにも描かれていました。

駅隣接でかんてんかんという施設が建てられています。
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途中下車してみたいところでしたが、降りると次の列車まで1時間待ちますので今回は先へ。

今回の目的地、岩村駅までの最後の途中駅は、花白温泉駅
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同じ名前の温泉が駅前に居ました。分かりやすい。

岩村駅

そして、明智から4駅目が目的地、岩村駅です。
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昔ながらの駅名板が残りつつ、ホームはなんだかとても賑やかです。
岩村城年季を感じる看板でお勧めされています。
てつじいの隣にいる方が女城主おつやの方でしょうか。。。?印象違う気はしますが。

お城に行く前にまずは小さなローカル駅を見て回ります。
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ホームのずれが気になる行き違い可能駅。
明智鉄道線唯一だそうで、行きも帰りも行違っていました。

ホームには触れる信号機がありました。
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時間が合わずに動かしていませんが、

多分あれが動くはず。
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子連れなら良いかもしれませんね。レトロ、城下町と子連れは親和性低そうですが。

岩村駅でもいろんな宣伝が出されていました。相変わらず商魂たくましいです。
人がいないと宣伝も出ませんし、それだけ使われているということなんでしょう。
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それにしても、岩村駅丼、これだけ大きくうまい!!!と書かれると気になっちゃうじゃないですか。ご飯時じゃなかったけど。

岩村駅最後は駅正面から一枚。
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なんてことはないローカル駅舎、だと思いますが、丸いポストと一緒に見ると一層レトロ感が強まる気がします。良い。

明知鉄道の一部を味わっただけですが、のどかな山村をのんびり、でも頑張りながら走る様子を良く感じることができました。

駅前の看板の通り、この後は岩村城下町を通り抜けて、岩村城へ。
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続きはまた次回。

こちらの城×ローカル線もいかがでしょうか。

3セク繋がりで。

tmtmz.hatenablog.com

こちらは名鉄広見線の末端区間で向かいました。

tmtmz.hatenablog.com

こちらは名松線で。

tmtmz.hatenablog.com

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明知城周辺散策 -日本大正村と明知遠山家ゆかりの地をまわる

明知城の遺構に触れたその足で、今度は麓の街並みを巡ります。
遠山氏が治めた明智の町は、江戸時代から宿場町として栄えましたが、さらに花開いた大正期以降の建築物が多数残り、日本大正村として売り出しています。

そんな大正村ともちろん明知遠山家ゆかりの地を回ります。

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日本大正村

場所は戻って明智駅前。ここにある日本大正村の広い駐車場からスタートです。
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この日本大正村、テーマパークに分類されてはいますが、入場料などはなく、町全体に残る大正レトロな雰囲気と有料施設を楽しむ施設となっています。
街歩き趣味にはうってつけ。

大正浪漫亭のレストランやお土産処も気になりますが、街並みから見ていきましょう。
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なんてことはない町並みに写る煉瓦造り風の建物や
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明らかに狙った映えスポットを見ながら最初の目的地へ。
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大正路地

こちらがその目的地、大正路地
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石畳の細い路地です。

最初、両脇には趣きある蔵が並びます。
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白と黒が美しい外壁ですが、羽目板は桟をいくつか外すとすぐに土壁となり防火壁としても働く優れものだそう。
地元の名士の蔵だけあって、そのあたりもぬかりない、のかな。

蔵を抜けると、淡い色が大正っぽい(気がする)モダンな洋風建築につながります。
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訪問時はちょうどひな祭りの時期でした。和洋折衷な感じも良いですね。

近くには大正の歯科医院もあります。
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案内はなかったと思いますが、一目で古い病院だろうと思える見た目です。
全体的な重厚感、軒下の装飾やバルコニーが良いですね。
トタンになっている正面屋根の部分には医院の名前が掲示されていたようで、それも見て見たかった。

大正路地の先にあるのが、こちらは木造の大正村役場
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元は明智町役場として使われていた洋館です。
建てられたのは明治39年、今は登録有形文化財に指定されています。
水色に青と、今見ても美しい外観です。

明治に建てられたなら明治村ではとも思ってしまいますが、細かいことはいいんです、きっと。そっちもそっちで面白いテーマパークですし。

近くにもまたモダンな洋館。こちらは絵画館となっています。
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こちらも明治10年に建てられたもので、小学校などとして使われていました。

さらに明知城方面へ進んで、大正ロマン
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大正村に4つある有料施設の一つ。
ここまでの建物とは違って広々とした敷地でテーマパークっぽさを感じるような。

ここまでくると明知城が目と鼻の先。
ということでそちらに目を奪われておりまして、、、入ってはおりません。

金幣社八王子神社

ここからは明知城を巡ったその足で、明知城主、遠山氏ゆかりの地を巡ります。
始めは、金幣社八王子神社から。
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こちらは949年創建の由緒正しい神社。長らく地域の中心的な神社でした。
武田氏の侵攻に伴い、焼失した後は、たびたび遠山氏により再建されてきました。

唐門は明知城の大手門を移築したとされます。
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いまの社殿は1676年、遠山伊次により造営されたもの。
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立派な社殿は岐阜県指定文化財に指定されています。

境内には柿本人麻呂を祀った、その名もずばり柿本人麻呂明智光秀手植えとされる楓があります。
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伝承によれば、光秀が、学問所には天神神社を、八王子神社には人麻呂を祀り、楓を植えたとされます。
天神神社は明知城近傍にあったそれ。期せずして両方回ってしまいました。

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龍護寺

最後は明知遠山家の菩提寺龍護寺へ。立地は、八王子神社の裏手にあたります。

1596年に遠山利景が建立したこちらのお寺、境内は今も広く綺麗です。
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山門を抜けて
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本堂と庫裡
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本堂によってもう一枚
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改めて、立派かつ綺麗なお寺です。

ここまでは今も信仰が篤いであろうお寺、という印象だったんですが、所々変わったものもありました。

例えばこちらの、おそるべきおみくじ
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何がおそるべきなのでしょう。。。しかも箱の後ろに隠れるように置かれています。
おそるべき中身、確認しておけばよかった。。

こちらは入ってすぐにあったお地蔵様。
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その名も「おかげさま地蔵」
お地蔵様ですし、その通りなんですが、なんか変わってるなーと。
キャッチーな名前を付けるのがこちらの特徴なのでしょうか。

変わったネーミング以外にも、明知遠山氏ゆかりのお寺だけあって、その時代ゆかりのものもたくさんあります。

こちらは入り口脇にあった、明智光秀公御霊廟
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光秀に関する碑はその悲痛な思いで割れると言う通説通り割れている、と言うスピリチュアルな話も書かれていました。

最後は、明知遠山家累代の墓所です。
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初代から十代までの歴代明知遠山家当主、ならびに初代の父の11人の墓が並びます。
さらに、中央には累代の墓が建てられ、分家ではありますが、遠山の金さんこと景元も合祀されていると伝えられているそう。

大正村と明知遠山家関連スポットを中心に散策したら、明智駅へ帰ってきました。
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ここから明知鉄道に乗って、次の目的地へと向かいます。続きはまた次回。

こちらもどうぞ

明知城散策の記憶です。tmtmz.hatenablog.com

明智光秀出生の地を奪い合う?明智長山城訪問の記憶です。

tmtmz.hatenablog.com

東濃地方つながりで。

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明知城 (岐阜県恵那市) 2/2-畝状空堀群を回る

引き続き、岐阜県恵那市の明知城へ。
明知城でも特に著名な遺構の数々、貯水池や畝状空堀群を回っていきます。

思わず声が出るほどの遺構でした。すごい。

お城:明知城(白鷹城)岐阜県恵那市
HP:明知城跡|観光スポット|岐阜県観光公式サイト 「岐阜の旅ガイド」
訪問日:2022年3月

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訪問記

大竪堀・明智光秀公学問所

主郭から折り返してまだ見ぬ畝状空堀群へ向かいましょう。
こちらの縄張図でいう所、主郭東が二の丸で、その二の丸と南の出丸の間から東方向へ下り、青で描かれた空堀を南、北へと見ていきます。
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まずは、二の丸と出丸をつなぐ土橋から東の搦手方面へ降りていきます。
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この曲輪にあるのが、二つの窪地
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この変わった遺構は貯水池でした。

明知城は城内に井戸がなく、その代わりの水源として用いられていたものです。
1kmほど離れた水源地から木樋で引いた水を小さい池に入れ、地中の砂や石からなるろ過装置を通って大きい方の池に湧くような仕組みが作られていた、とされています。

水の必要性はよく分かりますが、そこまでの装置を戦国期にこの山中で作り上げたというのは驚きです。

貯水池からさらに搦手方面へ。眼下に見える横堀へ向かいます。
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まずは横堀を南方向へ。竪堀と組み合わせたうねうねが見えます。
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遺構自体もそうですが、状態良く明瞭に残っていることにも驚きです。
今にも土塁の向こうから何かが飛び出してきそうな。。。

この竪堀がここだけで5条あるんですからすごい
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それぞれの竪堀はそこまで大きなものではありませんが、こちらから見て最後の一本は非常に大きく、麓まで続く大竪堀と呼ばれています。
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竪堀は肉眼で見てもよく分からないほど埋まっているものが多いですが、ここは写真ですらよく分かるくらい明瞭です。

引き続き横堀を進みます。
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土塁と出丸切岸が急峻です。

進むと、明智光秀公学問所 天神神社に到着です。
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天神の名の通り、菅原道真を祀り、北野天満宮分祀として信仰を集めるこの神社
明智光秀が若いころ、ここで学問に精通したという言い伝えがあるそうです。

光秀出生の地はもう一つの明智城長山城の方が有力だと思っていましたが、この話を聞くとちょっと心が揺らぐなぁ笑

畝状空堀

折り返して、横堀を北方向へ

大竪堀などを越えて少しのところにも明瞭な竪堀
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その先、横堀の底を通って下りる道があります。これが搦手道
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下りると搦手登城口に到着です。

縄張図では一番東にあたり、この方角は尾根続きの地形をしています。
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搦手登城口には駐車場もありますので、ここからスタートしても良いかもしれません。
確かパンフレットも置いてあったような。

搦手からの登城路はこんな感じ。
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大手道でも比高は知れていますが、こちらの方がさらに近い。
今は堀底を通りますが、当時は尾根沿いにルートが置かれたと考えられています。

搦手道の近くにも曲輪がたくさん設けられています。
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本丸北砦という名の曲輪も。
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搦手近くにあったと思いますが、搦手は本丸の東側。位置と名前が合わないような。

このあたりから見上げると本丸、二の丸の切岸の険しさを実感できます。
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ただ、それよりもっと印象的なものが横に。
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畝状空堀(竪堀)です。明瞭な竪堀が3条も。

はやる気持ちにせかされて、見えている竪堀へ。
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天神神社方面と同様に、こちらもやはり横堀を組み合わさって独特の景観を作り出しています。こっちの方が高低差がすごいかな。
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竪堀は今でも鋭い。

そしてこんなものが何条も繰り返されています。
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本当に印象的。

進むとさらに高く、深くなってきます。
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余裕で背丈を越えるような高さ。すごいです、これ。
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振り返って高さを強調した一枚を。
強烈な竪堀は明知城全体で、明確なものだけで19本あるのだとか。
ここの竪堀は別格ですね。

畝状空堀群の間には尾根を利用した曲輪も。
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この方面の防衛の前線基地になっていたのでしょうか。

曲輪を越えてもまだ畝状空堀は続きます。
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土塁がやや低くなったり
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逆に深くなったり。どこまで当時と同じかは分かりませんが、意図があるような。

最後は、深い深い竪堀の中を通って
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最初の看板まで帰ってきました。
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文字通り城の周りを取り囲む横堀とそれに続く竪堀。ごちそうさまでした。

感想

満足度 4.5/5

明智氏ゆかりの城(のうちの可能性の低そうな方)というPRを聞いて勝手に侮ってしまいましたが、遺構はとんでもない。

畝状空堀群に横堀との連携に、浄水機能付き貯水池や急峻な切岸。
最後の方のうねうねぼこぼこには思わず声を上げてしまいました。人が少なくて良かった笑
本丸や二の丸と言った曲輪はそこまで特徴的ではないものの、残り具合はよく、どこまでも見ていて飽きない城でした。

アクセス

明知城

  • アクセス
    電車・バス:明知鉄道明智駅から徒歩約10分で登り口
    車:中央道恵那ICより約30分
      無料駐車場あり 
      大手なら日本大正村駐車場、搦手にも小さい専用駐車場があります。
  • 城跡
    散策自由
  • 所要時間
    1~1.5時間
  • 付近のスポット
    近くはありませんが、やはり明智つながりでこちらも

    tmtmz.hatenablog.com

    こちらは森氏のつながりで。tmtmz.hatenablog.com

    ↓気が向いたら押してやってください

    城 - ブログ村ハッシュタグ
    #城


明知城 (岐阜県恵那市) 1/2-明智光秀ゆかりの城を大手道から本丸へ

岐阜県に二つある明智/明知城の内、恵那市の明知城へ。

明智光秀生誕の地とも言われていますが、それより印象的だったのはその遺構。
どこを見ても素晴らしい遺構の数々でした。

まずは大手道を本丸へ向かいます。

お城:明知城(白鷹城)岐阜県恵那市
HP:明知城跡|観光スポット|岐阜県観光公式サイト 「岐阜の旅ガイド」
訪問日:2022年3月

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概要

1247年、遠山景重が築城したと伝わります。

明知城のある東濃地域は、戦国時代に織田家と武田家の争奪戦の舞台となりました。

1574年、明知城は武田家の侵攻を受け、落城します。
1575年、長篠の戦いで武田軍が敗れると、そのまま明知城も織田方が奪還します。

1583年、森長可が東濃に勢力を拡大、時の城主、遠山一行は明知城から退去します。
翌年の小牧長久手の戦いで奪還しますが、その後、再度森家の所領となります。

1600年、関ケ原の戦いの際に明知城は、岩村城主、田丸直昌の支城となっていました。
これを遠山利景が攻略。岩村城とともに落城させます。
この戦功により遠山氏は明知城主に返り咲き、旗本となりました。

1615年、一国一城令の頃に明知城も廃城となり、麓に明知陣屋が築かれました。

なお、明智光秀生誕の伝承が残る、ゆかりの地でもあります。
また、遠山の金さんで有名な遠山景元は、明知遠山家の家系につながる人物です。

訪問記

明知陣屋

明智駅の駅前にある、日本大正村駐車場から散策スタートです。
ここに大きな縄張図がありますので、予習してから向かいましょう。
ちなみに城内にもたくさんの縄張図があります。大河パワーか整備がすばらしいです。
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図中右手の山頂に2つの曲輪と出丸が、その周囲にも大小の曲輪が置かれます。
それを取り囲むように青で描かれた横堀、竪堀が走るのが特徴です。
まずは、左手に茶色で描かれた、明知陣屋土塁沿いの登城路へ向かいます。

ちなみに日本大正村で手に入るパンフレットにも分かりやすい案内があります。
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どうせならゲットしてから進みたいところ。

駅から10分足らず。冠木門をくぐって明知陣屋に到着です。
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ここには看板と水堀が残されています。
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明知陣屋は1615年ごろに明知城が廃城となって以後の、この地の支配拠点でした。

大手口から出丸へ

明知陣屋を過ぎて、大手口側に当たる稲荷神社登城口から登り始めます。
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ここにも縄張図があって現在地を確認できます。ありがたい。クマ注意は見たくないですが…  

登城路は土塁外側にあたります。この土塁は明知陣屋北辺を区切るもの。
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陣屋側には赤い稲荷社も見えています。当時のままだとか。

3, 4分ほど登ると土塁が途切れて、このあたりからがかつての大手道
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看板もありますが、違いはちょっと分かりづらかった。

左手の高台には大手道を守るためと思われる曲輪があります。
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正面の看板には大手門東砦の文字。

見えていた曲輪群までは数分でした。すぐに登れるのもありがたい。
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縄張図の通り、何段か連なる様子を見ることができました。

このあたりから、横堀竪堀に囲まれた主要部が始まります。
太めの土橋を越えると
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振り返って撮影しました。

畝状空堀の看板。こちらも気になりますが、
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まずは正面の大きな空堀へ。
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堀底を大手道として、門があったと推定されています。
あー狙われているなぁ、、、と思う構図ですね。思う間もないか。

堀底を越えると、大手道は左へ曲がります。
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私は右手に進み、まずは大手道を見下ろす曲輪へ。
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小ぶりな曲輪からは

今も下が良く見えました。
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改めて堀底の東屋から本丸方向への通路へ。
こちらには通路が二本。下る道には武者走りの名がつけられています。
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最終的には二の丸、本丸に続く道ですが、ここでは降りていくようにしか見えません。
こういう道、何が出てくるかわからず怖いですね。。。
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私が進むのはもう一つの登っていく方
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虎口曲輪へと進みます。
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曲輪名にも看板にも枡形虎口と書かれていますが、ちょっとわからないな。

虎口曲輪も大手道を守るためと思われる小さな曲輪でした。
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相変わらず大手道が良く見えます。
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先ほどの通路を上るまでずっと攻撃を加えられる上に、ここはここで一段上の帯曲輪や本丸からよく見下ろされる構図となっています。厳重。
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写真下段が帯曲輪(現地では三の丸)上段が本丸です。

という訳で、本丸下段を取り囲む帯曲輪を進みます。まずは向かって左手。
今は崩れて途切れていますが、ここから横堀と畝状空堀群を見下ろすことができます。
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写真ではただの林かな

反対側の帯曲輪を通って
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二の丸下の腰曲輪へ。ここで先ほどの武者走りが合流してきます。
北方向へ進むと二の丸ですが、まずは南の出丸へ。
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土橋の先が出丸。

縄張図でいうと右下の現在地、にあたるところ
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出丸は、中央に巨石の列がある独特な作りです。
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本丸や二の丸より広く、江戸時代には南本城とも呼ばれていました。
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猿戻しと呼ばれる南面の強烈な切岸や
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穴の開いた変わった石も置かれており、重要な曲輪だったと考えられています。
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江戸時代に「くつ石」と呼ばれ、旗立石とも手水鉢とも考えられているのだとか。
こんな明瞭な穴の開いた石、何に使っていたんでしょう。本当に。

二の丸~本丸

折り返して二の丸方面へ。

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一段本丸方面へ上がると二の丸
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ここも切岸が急です。
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さらに斜面を登って本丸に到着
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出丸等と並んで明知城の曲輪では一番広い部類の曲輪です。
ここまで見てきた曲輪群と同じで、土塁などはありません。

そしてここにも大きな縄張図があります。本当、至れり尽くせりです。
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右側中央に描かれた、山頂の曲輪が本丸。

山頂ということで、ここまで登ってきた帯曲輪や大手道方面も良く見えます。
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素人にも狙いが分かる構造で見ていて楽しい。
ここから帯曲輪の敵を狙う状態だと、形勢は絶望的ですが。

一通り眺望を楽しんだら、折り返して横堀、竪堀群を見に行きます。
ここからはまた次回。

続百名城 田丸城 (154・三重県玉城町) 2/2 -二の丸、本丸から天守台へ

前回に引き続き、田丸城を散策。
大手道を進んでいきましたが搦手から一度出てしまったので笑、もう一度入って二の丸、本丸、天守台と中央部を順にみていきます。

非常に残りの良い遺構たちを見ていきますよ。

その1はこちら。

tmtmz.hatenablog.com

お城:田丸城 三重県玉城町
HP:田丸城跡|見どころ|玉城町
訪問日:2020年1月, 2023年3月

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訪問記

二の丸

前回最後に訪れた搦手口からスタートです。

この搦手口、住宅街の狭い道の突き当りに位置していて、今も完全に裏口なのですが、遠くからも見える立派な看板が立ちます。
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隣を走るJR参宮線に向けたアピールなのでしょう。
本来は田丸城への来訪を呼びかける意図の看板だと思いますが、参宮線もなかなかのローカル線ですし、両者ともに少しでもお客さんが増えると良いですね。

改めて二の丸下の帯曲輪まで戻ってきました。
今は二の丸南に上がる階段がついていますが、当然ながら当時はありませんでした。
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という訳で、二の丸の南東方までやってきました。
当時からの二の丸への入り口である二の丸虎口です。
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登りつつ枡形となっていて、高さもあり、さすがは二の丸、やはり厳重です。

二の丸はいろいろな所で展望が紹介されています。
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こちらは東側
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それくらい眺望が良いということですが、それは当時からだったのかもしれません。

というのも、二の丸南東側にあったのが、富士見台
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ここから富士が見えるというのは、かなりの遠望ですね。
本当に見えるのか気になりますが、曇り空では頑張る気にはなれませんでした笑

改めて二の丸全景
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縄張図では北の丸よりやや小さい曲輪ですが、こうしてみるとそこそこの広さ。
北の丸とは違い、土塁などはありません。

右奥にかすかに見えるのが本丸とをつなぐ土橋。

足元には北の丸同様に石垣が使われ、最上段には細部へのこだわりを感じます。
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土橋を渡って本丸へ向かいます。

本丸

こちらが本丸に2つある虎口のうち、二の丸側にあたる本丸門
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こちらも枡形となっています。さすがに本丸の方が高くなっていますね。
あと、石が心なしか大きいような。

本丸
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最上段の3つの曲輪の中でも一番広い本丸は、実際に見るとやはりかなりの広さです。
奥に見える天守台に目が行きますが、その前にもう一つの虎口、東側の本丸虎口へ。
写真では右手にかすかに写るものです。

外から、本丸虎口
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大手門から道なりに、北の丸との分岐を本丸側に進むとここに着きます。
発掘調査で遺構が見つかった、17世紀に建てられたと思われる門を、足元の礎石で表示されています。
なかなか大きな石を使った石垣ですし、門も立派だったのでしょう。

石垣は全体には野面に見えますが、隅石の近くは切石です。
算木を意図しているような不完全なような。
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正面からのぞむ虎口内部には鏡石のような巨石もありました。
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と、素人の推測を書かせていただきました。この辺、どこかに解説あるのかな。

天守

改めて本丸内部にもどり、天守
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本丸北端に位置する天守台。右手前には付櫓台も見えています。

2回目の訪問では何ら違和感ない姿でしたが、最初の訪問ではこんな姿に。

冬場のイルミネーションで模擬天守?が置かれていました。
ちょっとチープすぎる気もしますが、馴染みを持ってもらえるなら良いのかな。

なお、織田信雄時代は三層の天守が建てられていました。模擬天守?の方が小さいとは笑

信雄時代の天守は火災にあい、あったのは僅かな期間。
松ヶ島城に信雄は去ってしまいました。

その後、田丸氏、稲葉氏時代を経て再度天守が置かれていたようですが、その天守も江戸時代に風雨で倒壊したと記録されています。

改めて、模擬天守の無い天守台を見ていきます。

穴蔵から天守
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奧には石の階段も見えていますね。
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右手前にも階段
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登って天守台全景です。
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広さはさほど、かな。
ただ、天守台からでも眺めが良い。天守からの眺めはもっとよかったでしょう。

やっぱり天守があった姿が気になります。

感想

満足度 4/5

三の丸は町役場や学校など、よくある跡地利用をされていますが、それでも外堀や二の門はよく残っています。二の丸から内部はもっと良く残っており、かなり面白い。

当時に思いを馳せるには十分な残り具合で、野面の石垣の武骨さや搦手の土づくりの虎口も含めて多様な遺構が残っており、良いと思わせるには十分でした。満足度高めです。

アクセス

田丸城

続百名城 田丸城 (154・三重県玉城町) 1/2-大手から北の丸、本丸下段を経て搦手へ

三重県の続百名城めぐり、最後は田丸城へ。
こちらもやはり北畠氏の城でしたが、その後は織田信雄の手が入って、さらに江戸時代まで使われていました。

始まりは町役場に中学校に、ではありますが、その奥には素晴らしい遺構が残ります。
アウェー感にめげずにその先まで見に行きたいところ。

お城:田丸城 三重県玉城町
HP:田丸城跡|見どころ|玉城町
訪問日:2020年1月, 2023年3月

概要

1336年、北畠親房南朝方の拠点として築いたとされます。
南北朝時代に争奪戦が繰り広げられたのち、北畠氏の居城となりました。

信長の伊勢侵攻の結果、北畠具教の養嗣子となった織田信雄が1575年に入城、三層の天守を持つ近世城郭へと改築しました。
1580年、天守が焼失、信雄も松ヶ島城へと移りました。

その後は、稲葉氏、藤堂氏を経て久野氏が入り、明治維新に至りました。

久野氏のもとの居城、久野城の訪問記はこちら。

tmtmz.hatenablog.com

訪問記

続百名城スタンプ・大手門・二の門

田丸城訪問は、多気北畠氏城館からでした。

三重県を南下して、最寄り駅のJR田丸駅からスタートです。
せっかくの駅近物件ですが、三重のJRは列車の本数が物足りません。。。


駅舎はレトロな良い雰囲気でしたが、耐震性の問題で2023年に建て替えが始まりました。
最後に見られてよかった。

駅から徒歩10分ほどで田丸城に到着。駅からのアクセスは良好です。
駐車場も十分。こちらの地図のPの場所に駐車場があります。
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一番大きいのは、玉城町役場の駐車場でしょうか。

駐車場近くにあった絵図をもとに、全体像を確認です。かなり薄いですが、あまり良い縄張図が現地になく。。
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山頂に本丸、二の丸、北の丸を南北に並べ、その下に三の丸などを持ちました。
三の丸やその下の曲輪は玉城中学校などになっていますが、本丸、二の丸、北の丸やその石垣は非常に良く残っています。

改めて、大手門の外から見ていきます。

大手門は改変されて直線になっていますが、外堀が残っています。
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今も結構な幅。
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堀の内側、大手門左手には、紀州藩同心屋敷や目付役所がありました。
今は町役場が建ちます。

右手にはスタンプのある村山龍平記念館。かつては代官所などがありました。
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村山龍平さんは、田丸生まれの朝日新聞創始者
田丸城も、村山氏が払い下げを受けたうえで町に寄付した経緯があります。
そりゃ堀の内側に記念館が建っていても不思議ではないですね。
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という訳で、記念館でスタンプを頂きます。

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モデルは天守台。石垣は本当に魅力的でした。

二の門方面へ進みます。

町役場側から二の門方面を見上げると、石垣と内堀。
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石垣も良いですが、二の門脇のこの場所にだけある内堀も気になります。
他が埋められたわけでもなく、当時からここだけだったよう。なぜ。

二の門
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先ほどから見えている石垣ですが、傾斜も相まってかなりの高さ。威圧感があります。

抜けると三の丸。今は玉城中学校。
当時は二の丸方向への直進ルートもあったようですが、今は中学校の脇を進みます。
学生さんがいない時間でよかった笑

中学校の近くには、蓮池という池や
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富士見門がありました。
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三の丸から二の丸富士見台に向かう門で、移築されていたものを再度移したもの。
両側にあった侍溜は取り払われていますが田丸城では貴重な現存建築です。

ただ、通路脇にポツンとある今の状態では何かの小屋のよう。
もう少し門っぽいところにおいてあげても良いのに。

さらに進むと本丸虎口がありますが、越えて中学校のグラウンド脇へ。
若干気まずい場所に、三の丸井戸の石碑があります。
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田丸城周辺は湿地帯で、井戸の水質には苦労したのだとか。
この金明水、銀明水は、当然城内の飲み水でしたが、近代には城下の生活用水にも使われた、と看板に書かれております。

改めて本丸虎口から最上段へ。
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二の門同様に傾斜を持った虎口です。

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石垣や土塁に囲まれてなかなか厳重。

発掘調査では、宝暦年間の絵図にないより古い時代のものと思われる石列や礎石も見つかったそう。宝暦以後の遺構は立体的に、以前の遺構は平面的に表示されています。

門と思しき平面の礎石や
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石組の側溝も見つかったそうです。グレーチングが目立つここじゃなくて奥だったかも。
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奧にも礎石
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門に加えて石垣、石垣、石垣。
当時は見通せていなかったとはいえ、なかなかの威圧感だったのでしょう。
正面上は、本丸と天守台の石垣です。

このまま真っすぐ本丸へ、はさすがにつながらず、本丸と北の丸の間に到着。
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となると、まずは北の丸から、ですね。

北の丸

最上段の曲輪は深い空堀を持っています。
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石垣となっていてなかなか厳重。
最上部の堀にまで石垣が使われているあたり、当時の権威を感じます。

北の丸内部へ
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今は城山稲荷が建ちます。
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鳥居に圧を感じます。

北の丸周囲には土塁が残ります。
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なかなかしっかりと残っています。

搦手へ

参拝し、一通り周囲を見下ろしたりしたら、本丸方面へ。
こちらは本丸の石垣。
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なんだか重厚感を感じる石垣です。真っすぐ、だからでしょうか。

ここからは本丸に入らず周辺の曲輪を散策。私は真っすぐではないので笑
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右手には北の丸とを切る堀、奥には櫓台か横矢掛けの石垣も見えています。
土と石垣が共存する感じが良い

西側斜面に到着。
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こちらはなかなかの傾斜、かつたくさんの腰曲輪?帯曲輪?があります。
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桜の木でしょうか。時期が来たらきれいでしょうね。

見上げると石垣。
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櫓台でしょうか。やはり重厚感を感じる石垣です。

しばらく進んで本丸南面と二の丸との堀に到着。
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こちらもしっかりと断ち切られています。二の丸の石垣は残念ながら崩れていました。
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あるとないとでだいぶ印象が変わってしまいますね。

道なりに二の丸を回り込んで、南面へ
こちらには一部崩れているものの、高い石垣が残っております。
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傾斜も相まってかなりの高さです。今までで一番高いんじゃないかな。良い。

そして反対側には搦手につながる虎口。
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こちらはこちらで高い土塁で厳重です。ここだけみると中世城郭のような雰囲気。

何度か折れながら降りると
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外堀へ
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今は保育所が建ちますが、かつては船着き場があったとのこと。
船が入ってくるとすると近くの川を経由してきたのかな。

天守を見ずに出てしまいましたので、もう一度搦手から登ります。
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続きはまた次回。二の丸、本丸内部へと向かいます。

付近のスポット

おなじ三重県の続100名城を。

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