にわかお城ファンの旅行記

にわか城好きの歴史探訪記

周りに影響されて城巡りを始めました。百名城スタンプ目当てだったのに気がついたら沼にハマっていました。

関城 (茨城県筑西市) - 南北朝の坑道戦の跡 常総線でまわる城巡り④

大宝城の次は、大宝城と関係の深い関城へ。
同じく南北朝時代に歴史の表舞台に立ったお城です。

こちらも突き出した台地の先端に位置して基部には堀を施して。

そんな城には珍しい遺構がありました。

お城:関城 茨城県筑西市
HP:関城跡 | 筑西市公式ホームページ
訪問日:2021年7月

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概要

鎌倉時代初頭に関氏によって築かれました。

かつての大宝沼に突き出す半島の突端に位置し、東西南を大宝沼に囲まれ、陸続きの北には堀を設けてありました。

南北朝時代小田城から北畠親房が移り、城主関宗祐、宗政親子とともに南朝軍として戦いましたが、1343年、大宝城(訪問記)とともに関城は落城しました。
この落城までの間に、北畠親房神皇正統記を完成させたことでも知られます。

訪問記

関城へ

不勉強でもともと予定に入れていませんでしたが、いろいろ知ると大宝城の後に訪問せずにはいられない関城へ、大宝城訪問のその足で向かいました。

最寄り駅へは常総線で1駅ですが、列車の時間が合わず徒歩で30分かけて訪問です。
このあたりはローカル線のつらいところ。

道中いたるところに国指定史跡の標柱が建てられていて迷いません。
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あたり一帯関城まで国指定史跡の範囲となっています。

歩いているところはかつての大宝沼。いまは一面の田園地帯で大変長閑です。

関城に近づくと夕立雲も近づいてきましたが、雷鳴が遠いうちに何とか到着。
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正面の台地が関城。今も一段高いところに立地しています。

へりだとこれくらいの高低差
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この上には土塁もあるらしく、下から見上げると結構な圧迫感です。

関城跡

そのまま関城通りを通って見学開始。関城通りは城跡の真ん中を突っ切る道路です。
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もともとこのあたりは関城町で、この道も関城通りと関城にちなんだ名前がしっかりと付けられています。
地元の方の拠りどころになる城跡なんでしょうね。

関城通り右手には早速しっかりと土塁が残されています。
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後で出てくる看板にもある通り、関城は広い敷地に土塁が散在する形で残っています。

すぐに城址碑や関宗祐、宗政親子の墓があるちょっとした広場に到着。
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こちらが先述の看板
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土塁や堀が現代の道路と合わせて書かれていて、とても参考になりました。

墓前で手を合わせて、
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歴史を感じる城址碑を確認したら、散策です。
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周囲は住宅街ですが、こうしてアップダウンが残ります。
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低くなってはいますが、土塁マークのあたりなので、きっとそうなんでしょう。

関城通りを北に進みつつ、向かって左(西)側に描かれた土塁、堀を見に行きます。

思い切り人の家の前の路地を進みながら土塁へ。
庭いじりのお父さんに何も言われなかったから入っても大丈夫大丈夫。

と思いましたが、夕立雲で暗くなった中でこの森に突っ込む勇気は出ませんでした。
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左手の土塁と思しき地形だけを見て退散です。
調べてみるとこの方面に大きな土塁と堀が残っているようですね。勇気が足りなかった。。

坑道跡

関城通りに戻り、再度北へ歩くと坑道跡入口の看板を発見。
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今度は向かって右(東)に折れて少しで到着です。
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少し珍しい遺構ですが、れっきとした南北朝時代の遺構

今は厳重に保護されていますが、
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頑張ってカメラを延ばすと中は本当に坑道でした。
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南北朝時代北朝方の高師冬軍が関城を攻めるために掘ったとされます。
相対して城兵も坑道を掘っていたら、師冬側の坑道が落盤し、坑道戦は中止したそう。

坑道はこの図でいう上端右の赤い四角。
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当たり前ですが、北端の土塁(茶色)の外に位置します。
いつの間にか外に出ていたので、図中右(東)端の土塁を見つつ内部に戻りましょう。

関城の東側には八幡神社が作られていて、
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高い土塁が残されていました。
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北端を東西に延びる高く長い土塁。

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どこを見ても高い土塁か高低差なら、坑道戦を仕掛けたくなる気持ちも分かるかも。

三度看板に登場いただいて現在地を確認。
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右上端土塁(茶色)下から左右に延びる道で上側の水色(堀)を見に戻ります。

中央縦にちょこんと書かれた土塁がこちら
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これは高く残っています。

この土塁をヒントに探すと、堀もその隣の土塁もしっかり残っていました。
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だいぶ埋まってはいますが、広い堀。
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当時は相当な規模だったんでしょう。
これはまっとうに攻めたくなくなる気持ちも分かる気がする。

宅地化が進んで縄張りはよく分からない関城ですが、外周の堀は残っていて、堅城っぷりは感じることができました。

雷鳴が本格的に近づいてきたのでこのあたりで退散です。

最後に関城を振り返って一枚。
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これだけの立派な台地の城を攻めきってしまうとは。

騰波ノ江駅

歩いて25分ほどで常総線騰波ノ江駅へ。

やはりレトロな駅舎が良い味を出しています。
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駅名のフォントもいいですねぇ。
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小さな駅舎ですが、内部も丁寧に手が加えられていました。
騰波ノ江駅の昔話と駅名の由来です。
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なんで内陸で江なのかと思ったら、大宝沼の別名に由来していたとは。

最後はかわいらしいウェルカムボードでお別れです。
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こういう丁寧な仕事はほっこりした気持ちになれて良いです。

騰波ノ江~下館もやはり乗降少なめ。
落ち着いた車内にほとんど暗くなった車窓を見ながら北端の下館駅へ向かいます。

終点の下館駅は、JR、真岡鉄道との共同使用駅
大きな駅のホーム上に窮屈そうに精算所や駅員詰所が置かれた様子が印象的でした。
そういえば久しぶりに駅員さんを見たような。
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写真は別日に撮影したものです。

ローカルな無人駅も丁寧に整備されていて好印象だったので、飛ばした城跡・駅を見にまた行こうかな。

常総線の旅はこれで終わりですが、もう少しだけ付近の城めぐりを続けます。

感想

満足度 3/5

宅地と農地とが入り乱れていてなかなか想像は難しかったですが、散在する土塁から堅城の雰囲気を感じることはできました。
坑道戦の跡は他では見ない遺構ですが、それを選んだ理由が分かるような。

西側の土塁と堀が見どころだったようで、見逃したかな。明るい時間に来ないとですね。

アクセス

関城