有名な有名な名城、名古屋城へ。
尾張名古屋は城で持つ、であり、三名城であり、そのエピソードには事欠きません。
ただ、この趣味にハマってから見に行くのは初めて。
隈なく回って、名城の名城たるゆえんを感じに行きますよ。天守には入れませんが。
お城:名古屋城(44)名古屋市中区
HP:名古屋城公式ウェブサイト
訪問日:2017年7月、2022年2月
概要
1610年、家康の命により、今川氏の那古野城が置かれていた地に築かれました。
西への備え、清州に代わる尾張の中心として、西国大名に天下普請が命じられました。
金鯱を載せた五重の天守を中心とした巨城が築かれ、三名城にも数えられました。
また、清州からの都市移転で築かれた街割りは名古屋の街の原型となりました。
明治維新では破城の申し出が受理されますが、ドイツ公使らの訴えにより姫路城とともに保存されました。
しかし、第二次大戦の空襲で大小天守、御殿など中心部の建築物を焼失しました。
戦後、鉄筋コンクリートの天守が再建され、2018年からは復元された本丸御殿も公開されました。
現在、天守の木造復元が議論されています。
訪問記
偉大すぎて避けてきた名城へ。
ただ、どう書いても全ては書ききれないでしょうし、気負わずに振り返っていきます。
訪問記は正門前駐車場からスタート。
混雑覚悟でしたが、平日だったからか空いていて少し拍子抜け。
金シャチ横丁の誘惑を振り払って
大きな堀を越えると、あっという間に旧榎多門、今の正門へ
今は大きな枡形の内側に櫓門がある構造ですが、元々は枡形の外側にも冠木門が置かれ、さらに多聞櫓に囲まれていました。
櫓門は明治時代に濃尾地震で倒壊した榎多門の後に移築された江戸城の旧蓮池門、を外観復元したもの。
江戸城から櫓門を持ってくるなんて、今の感覚ではありえないように感じますが、それだけ当時の名古屋城の扱いが特別だったということでしょう。
足元の石垣含めてとんでもなく立派だったことが伺えます。
この榎多門前に受付があり、スタンプを入手可能です。
モデルはもちろん天守ですね。
この先の有料区域に入る前にパンフレットをお借りして縄張りを確認。
本丸を中心に東に二之丸、西に西之丸、御深井丸を、さらに南に三之丸を持ちます。
格の割には簡単な縄張りですが、深い堀や、南と東の本丸虎口には馬出が設けてあるなど、防御も考えられています。
ただ、南の馬出は埋め立てられ、東は長らく修復中でほぼ見学不可なのは少し残念。
建築物のうち、天守や本丸御殿は戦災に見舞われましたが、いくつかの隅櫓は現存しており、復元天守、御殿とともに見学の目玉です。
今回は西之丸から御深井丸、本丸、二之丸へと見学するルートで巡ります。
西之丸
最初は西之丸へ
西之丸はかつて米蔵が立ち並んでいました。
今は外観を再現した西の丸御蔵城宝館が建てられています。(写真左奥)
右奥にも広いですが、表二之門前にあった大手馬出との間の堀が埋め立てられたもの。
西之丸だと入ったところの大きな大きな金シャチのレプリカや
カヤの木も見どころでしょうか。
樹齢600年、尾張徳川家初代藩主の義直が実を食したとも伝わる巨木です。
ただ、どうしても正面の天守と隅櫓に目が行きます。
正面が西南隅櫓、右奥は東南隅櫓と表二之門、左手奥は言わずもがなの大天守です。
天守以外は現存建築です。
榎多門を抜けるとすぐにこの景色で、やはり縄張りがシンプルすぎる気もしますが、この先には深い堀があるのでこれでも良いのかもしれません。
というか、時代的に圧倒的な権力を見せられれば良かったのかな。
西南隅櫓はぱっと見は二重ですが、実は窓のとおりに3階建て。
南と西の張り出し部分に石落としが設けてあります。
訪問時には見つけられませんでしたが、この堀に鹿が飼われているそう。
番犬ならぬ番鹿、ではなくて、いわゆるペットとして江戸時代から飼われていました。
平和な時代も長かったですしね。
先へ。大手は表二之門ですが、今回は御深井丸を経て不明門から向かいます。
御深井丸との境は鵜の首と呼ばれる狭い通路
上の写真では広めに見えますが、
左右の緑は堀で大軍では通れません。しかも本丸と今いる御深井丸が高く狙い放題。
本丸の空堀も恐ろしく大きいですし。
鵜の首を避けようにも西之丸と御深井丸の間の堀もかなり立派。
シンプルながらさすがの守りと感じました。
ここまでくると嫌でも目が行く大天守ですが、
まず見ておきたいのは、大小天守をつなぐ櫓台の剣塀
土塀の軒先に槍の穂先が並べられています。強烈な鉄条網みたいなものかな。違うか。
そのうえで改めて石垣と大天守
大きな大きな5重の天守に緑青の屋根と金シャチ。格好良いです。
足元のパイプ?が気になるあたり、木造再建を考えたくなるのはわからなくないかも。
御深井丸
本丸に目が行っていましたが、2つ目の曲輪、御深井丸(おふけまる)に到着です。
多数の武器庫が並んでいたとされる曲輪は、今は緑豊かな公園の様相です。
西之丸にたくさんいた観光客もまばらです。
御深井丸の見どころは、乃木倉庫
乃木希典が名古屋にいた頃に建てられたとされる旧陸軍の武器庫です。
第二次大戦時は宝物を入れていたため、天守の焼失時も無事だったのだそう。
もう一つが、西北隅櫓
そこらの天守にも匹敵するような三重の大きな隅櫓も現存建築です。
清州城から移築した可能性も考えられています。
外堀側から眺めるといっそう格好良い。
三重であることに加えて1層1層の平面の大きさも素晴らしい。
この立派さ、清州城から持ってきたと言われても信じられる風格です。
御深井丸からこのアングルを見に行くのはかなり遠いですが(笑)
ちなみに、外堀の広さも尋常ではありません。
絶対にこちらからは攻めさせない広さ。
御深井丸をさらに奧へ。不明門付近には天守礎石が並べてあります。
こちらが焼失したかつての天守に使われていた礎石たち。さすがに数が多い。
そのほか、櫓台や
立派な門跡がありますが、このあたりは解説なし。
この門なんかとてもよさそうですが、工事中なので仕方ない。
相変わらず大きな空堀を越えて
不明門から本丸へ向かいましょう。
不明門はその名の通り、常に施錠されていた開かずの門です。
ここだけ本丸虎口に馬出がありませんが、使うつもりがなかったから、でしょう。
とはいえ剣塀は使われていてぬかりありません。
かつての不明門は戦災で燃えてしまいましたが、復元されました。
脇道にそれますが、不明門からの天守は思い切りエレベータが主張していますね。
史跡とバリアフリーとの両立は難しい問題ですが、忠実に再建するにしてもバリアフリーなしはありえず、一番見えない角度にエレベータを置く今の形は一つの方法だろうと思います。本丸からも木に隠れてますし、考えられていますよね。
とはいえ、木造で作り直す時にはもう一つ目立たない形にならないかな。技術的に厳しいのは分かりますが。
不明門をぬけても本丸の景色は広がらず、さすがに枡形になっていました。
そして気になる石垣の刻印と焦げ
焦げの方は天守が燃えたときの戦災によるものでしょう。無念です。
天守へは、大天守脇の小天守から入ります。
と言いつつ、今は耐震性の問題とかで入れないのです。残念。
その分、本丸御殿と大小両天守を一枚に収めた良い写真が撮れますよ。
と、視界が開けたところで、ここから本丸の探索はまた次回へ。
愛知県の名城で、こちらはいかがでしょうか。
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