にわかお城ファンの旅行記

にわか城好きの歴史探訪記

周りに影響されて城巡りを始めました。百名城スタンプ目当てだったのに気がついたら沼にハマっていました。

百名城 岐阜城 (39・岐阜県岐阜市) -信長居館跡

岐阜城山頂部の天守と遺構に引き続き、麓の居館跡へ

山頂部の訪問記はこちらから。
tmtmz.hatenablog.com

存在感ある岐阜城天守に惹かれてサクッとロープウェーに乗ってしまうと見忘れるかもしれませんが、なかなか広大。
復原はなくとも華やかなりし極楽と呼ばれた姿を伝えていて見ないともったいない。
すぐにたどり着けますしね。

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岐阜公園

岐阜城山頂部を見た後、ロープウェーで降りるところから再開です。
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リス村に行っていたわけではなくて、
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リス村の隣がロープウェー乗り場だったのです。

ロープウェーの眺めも素晴らしくてついつい遠くを見てしまいますが、足元を見ると向かって左手、南側に見えるのが居館跡
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斎藤氏の頃に作られ、信長の時代に大幅改修されたこと、その後、関ヶ原の戦い前哨戦で岐阜城が落城するまで使われていたことが分かっています。
現在の姿は信長の頃の居館跡。さすがの広さです。

ビニールのおかげ?で区画の段差が強調されて広大な敷地や高低差がよく分かります。
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ちなみに、居館を見るため下りのロープウェーでは左手の席を頑張って確保しました。
普通に前に乗っても良いですが、上からの見物には左側をお勧めします。

そんな居館跡へは、麓の岐阜公園を通って向かいます。
という訳で、来た時に通った岐阜公園をもう一度少し見学。
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寒い冬空ですが、水が綺麗な広い公園

一部には12月でも残る遅い紅葉もありました。
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水面に映る紅葉が美しい。

岐阜公園は今は綺麗な都市公園ですが、斎藤氏や織田氏の時代は政庁でした。
今も所々にかつての名残が残ります。

こちらはロープウェー乗り場の脇にあった井戸
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見えるところは綺麗に整備されていますが、底に桶を埋めた井戸が置かれていました。

こちらは山内一豊と千代を讃える石碑
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山内一豊は下級武士だった頃、信長の移動に従って岐阜に移り、ここで千代との新婚生活を始めました。

信長居館跡

そんな岐阜公園を巡りつつ、ロープウェー乗り場の南隣から信長居館跡へ

山頂の岐阜公園同様に、ここにも置かれた冠木門から侵入です。
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なんだかいい感じの門ですが、当時のものは違う場所にありました。

発掘調査が進められており、案内板には当時の居館部のイメージも。
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今の姿とかけ離れて想像が追いつきませんが、縦にも横にも広くて複雑で立派な居館ということは分かります。
できれば平面図があるとなお分かりやすいのですが、見落としたのかな。。。

谷奥に向けて緩やかに登る段々の区画5つは巨石で仕切られており、見せることを意識した居館であったと考えられています。
庭園や金箔瓦なども見つかっていて、かなりの権威を示すものであったことでしょう。

ということを頭に入れて、改めて現地を散策。

こちらが居館跡入口
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大きな大きな石が並んだ広い通路。
当たり前ですが、屈曲して奧が見通せない通路となっています。
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この広い通路、大きな石垣からすると上屋も大層立派だったんでしょう。気になる。

通路脇からは信長以前の頃の遺構も見つかり、展示されています。
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斎藤氏の頃の階段と思われる遺構。その上には炭の層も見つかっています。

通路を抜けたあたりから奥の区画。
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最初、勾配を利用して段々の区画の何が見せることにつながるのか理解していませんでしたが、地面だけでも結構な高さで威圧感があります。
ここにさらに立派な建物まであったら、なおさら圧迫感ありますね。

そして実際にはその上を行く金箔飾り瓦が葺かれた建物まであったと見られています。
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いやはや、さすがは時の権力者。一般庶民の想像を軽々と超えていきます。

こちらは埋め戻されていますが、6番目に見つかった庭園跡。
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6つも庭は要らんでしょ、と思いますが、迎賓用に失礼のないようにと考えるとそれくらいになるのかな。

一番広い区画に到着。江戸時代から千畳敷と呼ばれ、館跡と認識されていた地区です。
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居館の中心となる、金箔瓦や純金の留金などが用いられた豪華絢爛な迎賓館と、7番目の庭がありました。庭は6つじゃなかったんですね。。。

当時訪れたフロイスは地上の楽園と、美濃の人々は信長の極楽と呼んでいたという記録も残っています。

2階には濃姫と侍女たちの部屋があり、3階から山側の建物につながっていたそう。f:id:tmtmz:20211218120717j:image
庭園遺構と迎賓館とつながった建物跡が見つかったB地区。
建物は蔵のように厚い壁を持つもので、茶室があったと考えられています。

北の区画に目をやると見えてくるのが三重塔、、、ではなくて滝のある大庭園の跡。
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三重塔は大正期の建物で、信長期には三重塔足元の大岩盤からの2本の滝を利用した大きな庭園がありました。
そういわれると岩盤に滝の後のくぼみが見えるような。。。

庭園周辺からは景色を楽しむ建物も見つかっています。また足元の水路にも橋が架かっていました。
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当時は水が流れていて、橋の上からも大庭園と滝の景色、水の音を楽しめたと考えられています。

と、こんなところで見学終了。
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まだまだ発掘途上?のようですし、埋め戻されているところが多くて想像力を試されますが、乏しい想像力でも当時の楽園・極楽の姿に十分胸が高鳴る場所でした。
ただ、一層全貌が見えたころには復原なんかも提案されていると良いなぁ。

こちらもいかがでしょうか。

tmtmz.hatenablog.com

百名城関連で犬山城小牧山城も。

tmtmz.hatenablog.com

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