にわかお城ファンの旅行記

にわか城好きの歴史探訪記

周りに影響されて城巡りを始めました。百名城スタンプ目当てだったのに気がついたら沼にハマっていました。

百名城 和歌山城 (62・和歌山県和歌山市) 2/3-いざ名城の天守へ

和歌山城その2。ようやく天守に向けて山を登ります。
元国宝の天守を外観復元された今の天守は、美しい。和歌山のシンボルですね。

山頂の天守への道も、石垣や眼下の曲輪群を見ながら登ると、あっという間です。
まぁそこまでの高さではないというのもありますが。

お城:和歌山城(62)和歌山県和歌山市
HP:トップ|史跡和歌山城
訪問日:2021年12月

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訪問記

南の丸~表坂

その1の締めとなった岡口門から城内に入り、天守方面へ足を向けます。
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改めて地図でルートを確認
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最初に南の丸を見て、引き返して右下の岡中門表坂から中央の天守へと向かいます。

という訳で南の丸に、相変わらずきれいに残った石垣に目を奪われつつ向かいます。
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写真左手へ進むと南の丸。今はがっつり和歌山城公園動物園です。
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周りはみんな子供連れの家族。

そんな子供連れに男一人で紛れ、、、られないかな、石垣ばかり見ていましたし。
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この辺の古い高石垣も良いですよね。

ここは何かあった痕跡だと思うんですが、解説がないので分かりません。。
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もっと見ていたいところですが、不審がられないうちに引き返して岡中門
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喰い違い虎口がはっきり。広さが名城を物語っています。

岡中門を越えると御蔵の丸ですが、折り返して表坂から本丸へ向かいます。
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山頂ですから仕方ないものの、良い感じに登り坂。。。

と言っても、岡中門の虎口や
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岡口門へと続く土塀などを見ていたら疲れる間もなくあっという間。
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登った先、帯曲輪のような細長い平場は松の丸

右手には本丸の石垣
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この荒々しさでそこまではらみもせず残ってるんですから、しっかりしたものです。

左手には七福の庭という小さな庭が置かれています。
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7個の巨石を七福神に見立てた庭は頼宣の頃に作られたものです。

天守曲輪

松の丸からさらに先へ。本丸表門跡
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折り返して中の門
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もう一つ折り返して天守一の門を越えると天守に到着です。
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この辺の門の説明は現地にはありませんでした。。。
もったいないような気もしますが、みんな天守に目が行っちゃうのかな。

そういう自分も天守へ行きそうになりますが、手前にまだ見どころがあります。
反対の本丸御殿
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その名の通り、御殿が置かれていた曲輪です。
今は給水場が作られていますが、登ることはできます。

この御殿、浅野期は二の丸御殿、徳川期は本丸御殿と呼ばれていました。
石垣の様子から浅野期の御殿は下段だったのかな。

結構狭い曲輪に御殿が置かれていたもので、、、と思ったら、徳川期には手狭で不便で晴れの日くらいしか使われなくなっていたようです。やっぱりそうですよね。

今は天守ビューポイント。大天守、小天守がよく見えました。
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威厳ありますね。良い。

という訳でようやく天守曲輪
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向かって右手、楠門(二の門)足元の券売所に100名城スタンプがあります。
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モデルは、岡口門越しの天守ですね。そんな風に見える角度があったのか。

写真と言えばこんな看板も出ていました。
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こう言われると、映えを狙わないわけには行きません(笑)
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どうでしょう?
構図は綺麗ですが、お手本を見たあとだと見劣りしちゃうかな。

改めて楠門から天守を見学へ。
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こういう角度も良いですよね。雰囲気あります。

和歌山城天守は豊臣期にもこの山頂に置かれていましたが、今とほぼ同じ形に築かれたのは、浅野期。徳川期には天守曲輪と呼ばれるようになりました。

天守から多門、楠門(二の御門)、二の御門櫓、多門、乾櫓、多門、御台所、小天守と続く連立式の天守天守曲輪を四角く囲います。
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東側の南北に並ぶ天守天守

北西隅の乾櫓
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天守と乾櫓が並んで見られる北東、南西からの姿に配慮した構造とのこと。
北東と言えば大手からの眺め、かな。街道筋とか他にもありそうですが。

三つ葉葵が出迎える天守内部では、もちろん和歌山城の歴史を学ぶことができました。

そして、眺めも。
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楠門、二の御門櫓、乾櫓など、連立式天守が若干ゆがんだ四角に建てられていることがよく分かります。
遠くに目をやると紀の川河口から海も良く見えます。当時はもっと近かったのかな。

北側は西の丸、二の丸。
向こうの市街化した三の丸は官公庁などの重要施設街に。当時も武家屋敷街だったと思うと、建物は違えど重要な施設が並ぶという使われ方はある意味近いのかも。
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足元には斜めにかかった珍しい御橋廊下も見えています。この後見に行かないと。

新裏坂の刻印石

天守の見学を終えたら、二の門櫓側から延びる新裏坂を下りて再度麓の曲輪群へ。

この道自体は絵図にもない新しい道ですが、見たいのは降りた先。
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見たいのは下りた先の駐車場、ではなくて。。

刻印石が多く見つかっているのです。
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金沢城訪問記)ほどではないにしろ、かなりの刻印を見つけることができます。

刻印は浅野期に修築された石垣に多く残っているんだとか。
用途は議論に決着を見ていませんが、当時の人の考えが知れるようで面白い。自分だったらどんな刻印をするだろうかな。

天守を見終えた次回は、残った西の丸、二の丸を見ていきます。

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百名城 和歌山城 (62・和歌山県和歌山市) 1/3-紀州徳川家の居城・かつての大手門へ

関西遠征第2弾は和歌山城へ。

紀州徳川家のお膝元ですが、個人的には和歌山観光はラーメンやらパンダやらばかりで(パンダは和歌山市ですらないですが)、城下町の印象はなく。
実際に訪れて印象を大きく覆されました。

今回は外周の石垣を見ながら現存の門を見ていきます。
有名な天守に至るまでにも見どころがたくさんありました。

お城:和歌山城(62)和歌山県和歌山市
HP:トップ|史跡和歌山城
訪問日:2021年12月

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概要

1585年、羽柴秀長が秀吉の命により虎伏山に城を築いたことが始まりです。
秀長は大和郡山城を居城としたため、桑山重晴が家老として城代を勤めました。
そのまま秀長家が断絶すると城主となります。

1600年、関ケ原の戦いの後、浅野幸長が入り、大改築。
天守や屋敷の造営、大手門の移設と城下町整備を行いました。

1619年、徳川頼宣が入り、紀州徳川家が成立。
御三家にふさわしい城として、二の丸の拡張や砂の丸、南の丸、庭園を造成しました。
1846年には落雷で天守が焼失しますが、御三家の特例で再建されます。

天守明治維新後も残り、旧国宝指定されますが、第二次大戦の空襲で焼失しました。

現在は、1958年に再建された天守を中心に和歌山城公園として整備されています。

訪問記

和歌山城公園へ

岸和田城からその足で、南海電車和歌山城へ。f:id:tmtmz:20211226225225j:image

和歌山と難波をつなぐ私鉄なので車窓は街中と思っていたら、意外と海沿いを走ったり
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山を越えたりとバリエーション豊か。
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峠を越えると遠くに来た気持ちになりますよね。

実際に1時間くらい揺られて、はるばる和歌山市駅に到着
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思えば遠くへ来たもので。

綺麗な駅とは裏腹に駅前はちょいと寂しいですが、大きな看板で紀州徳川家雑賀衆が推されていて歴史好きとしては嬉しい限り。
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駅から和歌山城までの徒歩10分の道中も、町名が城下町由来ばかりであったり、川が明らかに旧外堀らしい形をしていたり、さすがは御三家の居城という広がりです。
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この市堀川は睨んだ通り外堀由来で、江戸時代には北は町人町、南は武家屋敷(三の丸)に分かれていました。

ということは、ここから三の丸のはずですが、今の和歌山城公園までさらに徒歩5分。
さすがは御三家の居城です。広い。
和歌山市ってここまで城下町感を残っていたんですね。ラーメンとマリーナシティのイメージしかなかった。。

その市堀川から5分、トータル10分歩いて和歌山城公園に到着。
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早速大きな堀と石垣が見えてきました。

外郭は都市化した部分もとても広い和歌山城
遺構も狭まったとはいえ十分に広くて、ちゃんと計画していかないと。
吹上門入ったところにあった看板の図で今の姿を確認です。
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写真は岡口門にあった同じ絵をお借りしています。

中央緑に囲まれて描かれているのが山上に置かれた天守曲輪と、東の松の丸
その周りを南の丸、御蔵の丸、二の丸、西の丸、砂の丸が囲みます。
北東に大手門、南東に岡口門などを持ち、その外側には広い水堀が今も残っています。
この図の北側欄外が先ほど見てきた三の丸と市堀川です。

今いるのは北西オレンジの吹上門。今回は南下して南東の岡口門へ向かいます。

砂の丸・追廻門

吹上門は、最も湊に近く堀で繋がっており、物の行き来にも使われました。
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当時は変則的な枡形虎口で、橋の東側に物資搬入のための雁木があったとのことですが、大きく改変されていてなかなか厳しい。

そんな中でも当時を残すところが、勘定御門の左右の石垣の積み方
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目地が通って少し綺麗な西側と
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荒々しい野面の東側
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この東側石垣までが浅野期の初期に、西側は徳川期に積まれたと考えられています。
ここの石垣は大きさもバラバラで、いろいろな所で見る野面の中でも特に荒々しい。

本丸を囲む曲輪の一つ砂の丸は、かつての砂丘を利用しています。
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いまも砂のグラウンドなのは砂の丸の名残、、、ではないか。

砂の丸から東側、二の丸への通路は少しくぼんだ地形。
浅野氏が鶴を飼っていて、鶴の渓と呼ばれています。
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手前には鶴の門がありました。

鶴の渓から見る本丸方面の石垣もとても荒々しい野面積みの高い石垣が続きます。
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ここの石垣の雰囲気は好きですね。
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砂の丸へ戻って、高石垣と天守をチラ見しながら南下。
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和歌山県護国神社の入り口から折れて
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追廻門
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搦手にあたる門で小さめですが、空襲で焼けずに残る貴重な遺構です。
朱色は裏鬼門の厄除。

追廻門の名前は、門の外に馬術を練習する追廻があったことから来ているそう。
さすがに誰かを追い回したわけじゃなかったか笑

不明門・岡口門

追廻門からいったん外に出て、外から高石垣を堪能です。
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大きな城だけあってさすがの高石垣。
あの櫓台に櫓が建っていたら、見張られてる感すごいでしょうね。

南端はいかにも堀跡っぽい道路につながります。
頼宣の城改築に際して砂丘切通して作られた三年坂がもとになっています。
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そんな三年坂につながる門が不明門
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普段は開かない門で、遺体や罪人が通る不浄の門、有事の城主の避難口とされます。
門は明治後期まで残りましたが損傷が激しく解体、今は駐車場入り口です。
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櫓台の隅石や虎口の形状はとてもきれいに残っているのですが、門の損傷が激しかったとは、不浄の門だけあってあまり修復されなかったのかな。

不明門から東側には南堀が広がります。
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今は空堀ですが、当時は水堀でした。
不明門を境に同じ南面の防御が高石垣と水堀で変わっているのはなぜでしょうか。

先ほどの写真、不明門付近の南堀の石垣はきれい目の打ち込み接ぎですが、
岡口門に近づくと荒々しい野面積みに代わります。
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この辺古めなんですね。素人目にも築城時期が窺い知れて面白い。

そのまま南東端へ。

広い東堀を望む場所に
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岡口門が残ります。
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豊臣秀長、桑山重晴時代には正門として扱われた櫓門。
和歌山城では貴重な戦災を免れた建築物です。
東堀の写真左端の、石で囲った狭間をもつ土塀とともに重文指定されています。

かつては両端に蔵や櫓が続いていましたが、取り払われて切妻形式。
ちょっと寂しい印象ですかね。
ただ全体に感じる年季とその寂しさが当時を感じさせてくれるような。
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ここから天守方面に向かいますが、ここからはまた次回。

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続百名城 岸和田城 (161・大阪府岸和田市) -住宅街に溶け込んだ水堀と石垣と復興天守

昨年末の関西遠征を振り返っていきます。最初は続百名城の岸和田城

岸和田と聞いてもだんじりくらいしか浮かばない人間でしたが、なかなか立派な復興天守に水堀に石垣
そりゃ駅でおススメされるだけはありますね。

お城:岸和田城(161)大阪府岸和田市
HP:岸和田城特設サイト- 岸和田市公式ウェブサイト
訪問日:2021年12月

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概要

築城時期は不明ですが、岸和田古城から戦国時代に現地に移ったとみられます。

1585年には羽柴秀吉紀州討伐の後、秀吉の叔父、小出秀政が整備し、5層の天守も築かれました。
その後の歴代城主たちも、惣構えや城下、外堀や寺町などを築く改修を続け、1640年、岡部宣勝の頃に完成を迎えました。

1827年、落雷で天守を焼失、再建されないまま明治維新を迎え、廃城となりました。

訪問記

岸和田城訪問のスタート地点は南海本線岸和田駅
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岸和田と言えば、のだんじり
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と並んで岸和田城も紹介されていました。
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関西に住んでいた頃、岸和田にお城の印象はありませんでしたが、地元では推されていたんですね。失礼しました。

完全にベッドタウンの住宅街を歩くこと10分弱

かつての岸和田城主、岡部氏の新御茶屋跡を地元財閥が別邸とした五風荘を横目に
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立派な堀と天守が見えてきました。
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街中にこんな立派な堀と石垣、復興天守があったなんて驚きです。
犬走りがとても特徴的ですね。

そして、この姿を見て今自分が城内に居たことに気がつきました。
天守閣入り口あたりにあった絵図をもとに全体像を確認しましょう。
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本丸を中心に周りを曲輪が囲むきれいな輪郭式の大きな縄張りがあったんですね。
五風荘のあたりも本丸を囲む二の曲輪で、その外側にも城域が広がっていましたが、さすがに都市化しています。まぁ仕方ない。

大手にあたる二の丸方面へ、本丸をぐるっと回って向かいます。
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こちらにもしっかりと犬走り。何のために作ったんでしょうかね。

この辺から洗濯ができそうだなとか平和ボケなことを思ってしまいましたし。
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実際には搦手になる橋でも架かっていたのでしょうか。

本丸の堀はどこを見ても立派な広さが残っていてとても威厳を感じます。
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このあたりはまさに名城の趣きです。
自分が今いる周囲は二の曲輪とは思えないですが、そこは街中ですから仕方ない。

本丸に入る前に二の丸を見ていきましょう。

南東側には多聞櫓
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を模したトイレ。さすがにちょっとちゃちい。

二の丸は御殿が広がっていましたが、今は広場と観光交流センターが設けてあります。
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そんな中、北端にひっそりと置かれた伏見櫓の看板
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ここには伏見城から移築された伏見櫓がありました。
初期徳川政権において戦略上重要な城に伏見櫓が移される傾向があったことから、当時の岸和田城の位置づけが窺い知れる遺構です。

ここ以外、街中に遺構の解説をあまり見つけられなかった今の岸和田城においても、とても重要な場所であることが分かりました。

改めて本丸
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復興でも建物があると雰囲気が出ますね。

石垣と堀はとても立派ですし。
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中へ入って天守へ。
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とても馴染んだ天守ですが、実は当時のものとはまるで違う様相
当時は5層の天守であったことが絵図で分かっています。さすがに5層を立て直すことはできなかったのかな。

天守入口で百名城スタンプをゲット
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その後、岸和田城の歴史を学んだあとは、お決まりの展望へ。
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海側を眺めます。

気になる足元のお庭は八陣の庭
1953年に当時の庭園設計の第一人者、重森三玲氏の手により設計されました。
諸葛孔明の八陣法を取り入れ、当時なかった天守からの眺めを意識して作られた国指定名勝です。

枯山水を愛でる感性はありませんが、きれいなお庭です。
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天守とお庭。どちらも当時からすると全く異なるものですが、今の姿としてはどちらも馴染んでいます。
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重ね重ね天守はもう少し当時に近づけられなかったものかとは思ってしまいますが。

最後は二の丸北側の百間堀方面を散策。

古くは二の丸の石垣下まで海水が入り込む葦原であったとされますが、1600年代初頭に城下町として整備されました。
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今もこのあたりは狭いながらも瓦屋根が広がる雰囲気の良い景色が広がります。

そして二の丸方面に広がるのが百間堀
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今でも百間あるかと思うような広い堀ですが、これでも道路建設で埋められて狭くなっています。

というところで、岸和田城見学を完了。

最後はもう一つの南海本線の駅、蛸地蔵駅から和歌山方面へ。
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この駅もステンドグラスのある、何となく良い雰囲気のある駅でした。

おまけ:特急ひのとりで大阪南部へ

今回、岸和田城へ向かうにあたっての出発地点は近鉄名古屋駅でした。
新幹線でも良かったんですが、せっかく大阪南部なので近くに向かえる近鉄特急で。

というのも、その特別感で有名な特急ひのとりに乗ってみたかったのです。

電車の外観を撮るような鉄道好きもどきの行動に出ちゃったりしながら、ちょっと特別な移動を開始です。
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写真は終点の難波駅で。

近鉄名古屋駅大阪難波駅を2時間ちょっとでつなぐひのとりは、両端1両ずつにさらに特別なプレミアム車両を設けてあります。
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革張りのゆったりシートは、前の席まで足が全く届かない広い空間を持っています。

もう一つ特別なのは、座席のバックシェル。
リクライニング(電動!)をすべて倒しても後ろの人に全く影響しないのは嬉しい。

デッキにはカフェスポットも。
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ここは買って試すべきだったか。

座席へは階段を上がるので、少し高い目線からの展望を楽しむこともできます。
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運よく最後列が取れたので、振り返るとなかなか見られない景色が広がっていました。

名古屋から難波までの2時間余り。
新幹線より長い時間もあっという間。むしろもっと乗っていたい列車でした。

感想

満足度 3/5

街中に唐突に現れる天守と堀、石垣。
いわゆるお城の景色をしているので、普通の観光スポットとしても人気が出そうです。というか、普通に観光に来られていましたね。

天守が低くなっていたり、二の曲輪の外側はほとんど残っていなかったりと残念な所はありますが、街中の平城でここまで残っていたらそちらを楽しむべきなのでしょう。

アクセス

岸和田城

  • アクセス
    電車・バス:南海本線 岸和田駅から徒歩13分
       または南海本線 蛸地蔵駅から徒歩8分
       またはJR阪和線 東岸和田駅からバス 岸和田駅下車徒歩13分
    車:阪神高速4号湾岸線 岸和田南ICから約7分
    岸和田市役所第4駐車場をご利用ください
  • スタンプ・開館時間
    岸和田城天主閣受付
    開館時間:10:00~17:00(最終入場16:00)
     休城日:月曜日、年末年始(祝日、お城まつり期間中は開場)
     入城料:大人300円、中学生以下無料
    月曜は岸和田市二の丸広場観光交流センターで押印できます。
  • 城跡
    同上
  • 所要時間
    ~0.5時間
  • 付近のスポット
    百名城関連だと大阪城和歌山城が近くです。

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加納城(岐阜県岐阜市)-岐阜城に代わる天下普請の城

岐阜城に引き続き、岐阜駅前の加納城へ。
岐阜城の廃城後に、天守や石垣が移されたと伝わっています。

明確な遺構は住宅街に公園として残された本丸の周りだけですが、その本丸には立派な石垣が残されていて、往時を伝えてくれています。

お城:加納城 岐阜県岐阜市
HP:オフィシャルなものは見つけられませんでした。
訪問日:2020年10月

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概要

中世加納城は1445年に斎藤利永によって築城されますが、1538年に廃城となりました。

関ケ原の戦い後の1601年、徳川家康の命により中世加納城の跡地に築城されました。
初代城主、奥平信昌のあとは譜代大名が入れ替わり、明治維新の際に廃城となります。

東と南北に川が流れ、西には長刀堀を設けた平城で、本丸を中心に5つの曲輪が設けられました。
石垣などは関ケ原の戦いの前哨戦で落城した岐阜城から運ばれたとされます。

二の丸北東角には岐阜城天守を移築したとされる御三階櫓がありましたが、1728年に落雷で焼失しています。

訪問記

岐阜駅から徒歩での訪問。駅徒歩20分ほどの小散歩です。
岐阜城からわざわざ資材を移して作った家康肝入りの城跡はどんなもんでしょう。

徒歩20分と聞くと少し遠い印象もありますが、道中には大手門跡や中山道の案内などがあって意外とすぐ。
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こちらは大手門跡。今は住宅街の路地と街道の交差点です。
一応交差点の名前にも大手の名を残していますが、流石に街中で痕跡は少なめです。

岐阜駅からだと少し手前、北側に中山道が通っていて、加納宿が置かれていました。
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写真はやや離れた場所で見かけた碑

本丸へは、たくさんの小中学校が立ち並ぶ文教地区を抜けていきます。

「学校が立ち並ぶ」から想像される通り、加納城の城下町に関連した場所でした。
大部分は侍屋敷跡を利用したものですが、南端の加納小学校は三の丸跡にあります。
と言っても、例によって小学校はじろじろ見られず、チラ見だけして城跡へ。

あとで分かったことですが、加納小学校南東端には御三階櫓の石垣も残されています。
ここは看板も出ているようなので予習しておけばよかった。

大手門から真っすぐに加納城の本丸跡、今の加納公園へ到着。
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こちらが今の加納公園のマップ。
外枡形のある本丸の形は綺麗に保たれています。

このマップ、絵では遊具やテニスコートが書かれていますが、字があるのは本丸跡だけという。都市公園ではなくて城跡ということをアピールしてるのかな。

ちなみに今の地図と当時の姿を重ねた縄張り図もあるので、本丸以外の様子も何となく想像することができます。ここは予習なしでも行けたのに、御三階櫓を見逃すなんて。

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2つ目の地図の通り、本丸北側の今の入り口へ。
かつてここは堀で、大手門は外枡形に置かれていました。

堀は埋められていますが、その名残は感じられます。
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大手北堀は堀底に畝を設けた障子堀であったことが分かっています。
障子堀と言えば山中城訪問記)などの北条氏のイメージですが、徳川氏も取り入れていたんですね。

ここの土塁には見にくいですが石垣が残されています。
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隅櫓はありませんが、堀の広さと石垣の高さに大きさの一端を感じるような。

今の入り口から本丸内へ。
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本丸は綺麗な芝生広場となっていて、

周囲は高い土塁に囲まれています。
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ほぼ方形の本丸に方向感覚を失わないうちに出っ張った外枡形
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こちらは道らしい道はないですが、先へ進むと土塁の切れ目
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テニスコートのあたりが二の丸で、そことをつなぐ極楽橋、筋鐵門があったあたりでしょう。たぶん。

このあとは、土塁に登ったりしながら南側の公園入口へ。
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ここは当時から本丸と隣の大藪曲輪をつなぐ臆病門と橋が架かっていました。
臆病門とはなかなかなネーミングで。

最後は西側遊具ゾーンに残る石垣を見ながら戻ります。

最初の堀の石垣よりもよく見えますので、ここら辺が加納城のハイライトでしょう。
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しっかりと残る石垣。

北西端には天守台が置かれていました。
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こちらの石垣もしっかり。いいですねぇ。

並木の裏手にあるのでちょっとだけ手がかかりますが、頑張ってみる価値ありますよ。
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その後は住宅街を散策しながら名残を楽しみつつ岐阜駅へ戻りました。
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感想

満足度 3/5

残る遺構は本丸中心に少しだけですが、本丸はしっかりと残されていますし、堀や石垣も様子はよく分かります。天守台石垣はとても良い。
アクセスも容易ですし、岐阜城探索のついでに寄ってみるのはアリかと。

岐阜城からもほど近いですが、それでも山頂から天守と石垣を運ぶのはさぞ大変だったんじゃないかなぁ。

アクセス

加納城

百名城 岐阜城 (39・岐阜県岐阜市) -信長居館跡

岐阜城山頂部の天守と遺構に引き続き、麓の居館跡へ

山頂部の訪問記はこちらから。
tmtmz.hatenablog.com

存在感ある岐阜城天守に惹かれてサクッとロープウェーに乗ってしまうと見忘れるかもしれませんが、なかなか広大。
復原はなくとも華やかなりし極楽と呼ばれた姿を伝えていて見ないともったいない。
すぐにたどり着けますしね。

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岐阜公園

岐阜城山頂部を見た後、ロープウェーで降りるところから再開です。
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リス村に行っていたわけではなくて、
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リス村の隣がロープウェー乗り場だったのです。

ロープウェーの眺めも素晴らしくてついつい遠くを見てしまいますが、足元を見ると向かって左手、南側に見えるのが居館跡
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斎藤氏の頃に作られ、信長の時代に大幅改修されたこと、その後、関ヶ原の戦い前哨戦で岐阜城が落城するまで使われていたことが分かっています。
現在の姿は信長の頃の居館跡。さすがの広さです。

ビニールのおかげ?で区画の段差が強調されて広大な敷地や高低差がよく分かります。
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ちなみに、居館を見るため下りのロープウェーでは左手の席を頑張って確保しました。
普通に前に乗っても良いですが、上からの見物には左側をお勧めします。

そんな居館跡へは、麓の岐阜公園を通って向かいます。
という訳で、来た時に通った岐阜公園をもう一度少し見学。
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寒い冬空ですが、水が綺麗な広い公園

一部には12月でも残る遅い紅葉もありました。
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水面に映る紅葉が美しい。

岐阜公園は今は綺麗な都市公園ですが、斎藤氏や織田氏の時代は政庁でした。
今も所々にかつての名残が残ります。

こちらはロープウェー乗り場の脇にあった井戸
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見えるところは綺麗に整備されていますが、底に桶を埋めた井戸が置かれていました。

こちらは山内一豊と千代を讃える石碑
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山内一豊は下級武士だった頃、信長の移動に従って岐阜に移り、ここで千代との新婚生活を始めました。

信長居館跡

そんな岐阜公園を巡りつつ、ロープウェー乗り場の南隣から信長居館跡へ

山頂の岐阜公園同様に、ここにも置かれた冠木門から侵入です。
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なんだかいい感じの門ですが、当時のものは違う場所にありました。

発掘調査が進められており、案内板には当時の居館部のイメージも。
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今の姿とかけ離れて想像が追いつきませんが、縦にも横にも広くて複雑で立派な居館ということは分かります。
できれば平面図があるとなお分かりやすいのですが、見落としたのかな。。。

谷奥に向けて緩やかに登る段々の区画5つは巨石で仕切られており、見せることを意識した居館であったと考えられています。
庭園や金箔瓦なども見つかっていて、かなりの権威を示すものであったことでしょう。

ということを頭に入れて、改めて現地を散策。

こちらが居館跡入口
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大きな大きな石が並んだ広い通路。
当たり前ですが、屈曲して奧が見通せない通路となっています。
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この広い通路、大きな石垣からすると上屋も大層立派だったんでしょう。気になる。

通路脇からは信長以前の頃の遺構も見つかり、展示されています。
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斎藤氏の頃の階段と思われる遺構。その上には炭の層も見つかっています。

通路を抜けたあたりから奥の区画。
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最初、勾配を利用して段々の区画の何が見せることにつながるのか理解していませんでしたが、地面だけでも結構な高さで威圧感があります。
ここにさらに立派な建物まであったら、なおさら圧迫感ありますね。

そして実際にはその上を行く金箔飾り瓦が葺かれた建物まであったと見られています。
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いやはや、さすがは時の権力者。一般庶民の想像を軽々と超えていきます。

こちらは埋め戻されていますが、6番目に見つかった庭園跡。
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6つも庭は要らんでしょ、と思いますが、迎賓用に失礼のないようにと考えるとそれくらいになるのかな。

一番広い区画に到着。江戸時代から千畳敷と呼ばれ、館跡と認識されていた地区です。
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居館の中心となる、金箔瓦や純金の留金などが用いられた豪華絢爛な迎賓館と、7番目の庭がありました。庭は6つじゃなかったんですね。。。

当時訪れたフロイスは地上の楽園と、美濃の人々は信長の極楽と呼んでいたという記録も残っています。

2階には濃姫と侍女たちの部屋があり、3階から山側の建物につながっていたそう。f:id:tmtmz:20211218120717j:image
庭園遺構と迎賓館とつながった建物跡が見つかったB地区。
建物は蔵のように厚い壁を持つもので、茶室があったと考えられています。

北の区画に目をやると見えてくるのが三重塔、、、ではなくて滝のある大庭園の跡。
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三重塔は大正期の建物で、信長期には三重塔足元の大岩盤からの2本の滝を利用した大きな庭園がありました。
そういわれると岩盤に滝の後のくぼみが見えるような。。。

庭園周辺からは景色を楽しむ建物も見つかっています。また足元の水路にも橋が架かっていました。
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当時は水が流れていて、橋の上からも大庭園と滝の景色、水の音を楽しめたと考えられています。

と、こんなところで見学終了。
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まだまだ発掘途上?のようですし、埋め戻されているところが多くて想像力を試されますが、乏しい想像力でも当時の楽園・極楽の姿に十分胸が高鳴る場所でした。
ただ、一層全貌が見えたころには復原なんかも提案されていると良いなぁ。

こちらもいかがでしょうか。

tmtmz.hatenablog.com

百名城関連で犬山城小牧山城も。

tmtmz.hatenablog.com

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百名城 岐阜城 (39・岐阜県岐阜市) -斎藤道三、織田信長の夢の跡

岐阜の名城、岐阜城へ。
金華山登山も考えましたが、今回はロープウェーでさくっと登城です。
その分、山頂をゆっくり回りましたので。

信長に道三、積み重ねた歴史が深い名城ですが、明治維新以降も面白い歴史が重ねられていました。地元のシンボルとなる名城って良いですよね。

お城:岐阜城 岐阜県岐阜市
HP:岐阜城天守閣|岐阜市公式ホームページ
訪問日:2018年2月、2021年12月

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概要

鎌倉時代二階堂行政が築城したとされますが、詳細は不明です。

一度廃城となりますが、斎藤氏が修復。
斎藤道三が山頂部分に稲葉山城を築城、城下も整備します。

1567年、織田信長が攻め落とし、本拠を小牧山城から移します。
名前を岐阜城と改め、大きく改修しました。

1600年、関ケ原の戦いの前哨戦で福島正則池田輝政らの手で落城。
その後、廃城となりました。

訪問記

スタート地点は岐阜公園

時の城主たちの居館があったとされる場所ですが、今の姿は金華山の麓の綺麗な公園。
駐車場も完備、岐阜駅からのバスもたくさん走る交通至便な公園でもあります。

早速、山上の天守が姿を見せていました。
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高い。。。あそこまで登る元気はありません。。。

というわけで文明の利器で山上へ
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ロープウェーを作れる人気の山城は珍しい気がします。しかも結構なお客さんでした。
他に浮かぶのは八幡山城訪問記)とか松山城とかでしょうか。
もちろん登山道もあるのでいつかは気合いを入れて登らないと。

ロープウェーからは目立つ三重塔が見えていました。
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岐阜城ゆかりかと思いきや、大正天皇即位記念事業で作られたもの。
これだけきれいだと今の岐阜公園のシンボルですね。

ロープウェー降りて散策開始です。

と言っても見える範囲はリス村展望レストラン。綺麗な観光地にしか見えません。
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実はリス村は煙硝蔵跡地。でも面影は感じません。

きれいすぎるよなーと思っていたら、近くの看板には立派な看板と縄張り図
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こちらは城跡を感じさせてくれます。

著名かつ難攻不落とも呼ばれた城とは思えない細い尾根に小さな曲輪たちが並びます。
見て回っても一つ一つの曲輪は狭い印象でした。高さで守りを高めたのでしょうか。
実際には何回も落城していますが。

改めて先へ向かいましょう。すぐに分かれ道
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下 (右) から向かって上から帰ってくるルートで進みます。
左手は展望レストランのある太鼓櫓跡ですが、リス村同様に面影はありません。

おもむろに置いてある冠木門
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趣あるのかな。どうなんでしょうね。
天守までおおよそこんな感じのよく整備された散策路でした。

伝一ノ門跡

よく分かる最初の遺構は伝一ノ門跡
岩盤の尾根筋を切って作られていて、右手には巨石の石垣がありました。
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今も残る巨石が威厳を示しています。
この付近、訪問時も発掘調査をされていました。
これだけ整備された城跡ですが、まだ未調査の部分があるんですね。
面白い発見があることを期待したいところ。

一ノ門の先には馬場跡
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ここで馬を繋いでいました。
備中松山城訪問記)でも思いましたが、急峻な山も馬で登れるんですね。驚きです。

左手に太鼓櫓の曲輪を仕切る堀切を見ながら
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少し高さを稼いで二ノ門へ
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と、サクサク進んでしまいそうですが、このあたりに石垣遺構がたくさん。

踊り場付近に信長期の石垣
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登り切って少しロープウェー側へ戻ったところに後斎藤期の石垣
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先ほどの信長期のものより角がとがっているのが特長だとか。
そして二ノ門の石垣
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右手の石など、さすがに大きい。
こちらは信長期のものとされています。

改めて角度を変えて伝ニノ門
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立派な枡形虎口。

内部は下台所と呼ばれる曲輪でした。
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ルイスフロイスの記録では、大きな座敷があり、100人程の若い貴人がいたとのこと。

今は絶好のビュースポットです。
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こういう写真を撮るとそのまま下の道を進みたくなりますが、あえて上へ。
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上には上台所と呼ばれる曲輪と、

わき道を進んだ先に当時から残る井戸があります。
井戸は看板が出ていますが、わき道に入らないといけないので見落としやすいかも。
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岩盤をくりぬいて雨水をためた井戸は、今でも水を湛えていました。
籠城戦に必須の設備ですね。
本当は水が湧けばよいのでしょうが、さすがに山頂ですしね。

天守

上台所を抜けると改めて天守ビュースポット
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いやー美しい。

当時の姿が分からないことは残念ですが、見事な姿でたたずんでいるからお客さんがたくさん来るってもんです。

この天守、実は観光目的の天守としても2代目
初代復興天守はなんと明治時代、1910年に作られた日本初の観光目的復興天守
地元の方の岐阜城への愛着が良く分かります。

ちなみに本物?のお城で最終期に作られた松前城、福江城は1850~60年の築城です。
岐阜城模擬天守との差は50年程度。模擬と本物の違いが分からなくなってきます。
まぁ目的が違う訳ですが。

天守に入る前に、正面の石垣。こちらは当時のもの。
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角が算木のようになっていて、信長期より後に積まれたものの可能性もあります。

いざ、天守内部へ。
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中はご多分に洩れず歴史資料館。

歴史はもちろんですが、ジオラマで城の全体像をつかめるのがありがたい。
麓の居館イメージもありました。

興味深く見学したら、最上階から展望。こちらも定番ですが、見晴らしがすばらしい。

長良川方面。長良川球場が見えています。野球好きなもので。。。
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名古屋方面。今日は木曽川までですが、小牧山城やミッドランドスクエアも見えるよう
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天守の後はスタンプのある岐阜城資料館へ。
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かつては蔵が建てられていた曲輪に建てられています。

スタンプはもちろん山上の天守です。
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最後は帰りがけにもう一つ石垣を。
さきほど上台所から天守に向けて歩いた通路下の石垣も戦国期のもの
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岐阜城全体でも一番立派に残っていて圧巻です。見ないともったいない。

付近には貯水用井戸も。
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大きな城ですし、さすがに井戸1個じゃないですよね。
ここも貯水なのは苦しいところですが。

最後に天守と石垣で1枚
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やはり絵になる天守です。陽が差して輝いてますし。
いいところから見ました。

この後はローウェー下の居館跡へ向かいます。

感想

満足度 3/5

平日に訪れてもロープウェーにたくさんのお客さんがいるほどに人気の観光地でした。まぁ有名ですしね。

整備されすぎて、観光施設も多くて遺構は分かりにくいですが、随所に石垣も見えて、ロープウェーでさくっとみられて、観光地として十分魅力的ですね。
天守から岐阜の街を見下ろして城主たちの気持ちになってみては。

アクセス

岐阜城

  • アクセス
    電車・バス:JR岐阜駅または名鉄岐阜駅よりバス 岐阜公園 歴史博物館前バス停下車 徒歩3分で金華山ロープウェイ乗り場
    車:東海北陸道 岐阜各務原ICから車で約20分でロープウェイ乗り場
      有料駐車場あり
  • スタンプ・開館時間
    岐阜城資料館
     開館時間:8:30~17:30 (5/12~10/16)
          9:30〜16:30 (10/17~3/15)
          9:30~17:30 (3/16~5/11)
          年度によって変更あり
     休館日:年中無休
     入館料:一般200円、小人100円
     岐阜城天守閣入場料を含む
  • 城跡
    同上
  • 所要時間
    ~1時間
  • 付近のスポット
    百名城関連では犬山城小牧山城名古屋城あたりでしょうか。

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蓮華寺池公園 (静岡県藤枝市) -桜直後の藤まつり

GW直前に訪問した藤枝市蓮華寺池公園の藤まつりを振り返ります。

メインとなる池の周りのフジ以上に、山向こうのフジ広場の多種多様なフジたちがとても綺麗で、さすがは藤枝の名前を持つ市の藤まつりでした。

長い藤棚もあって、インフィニティ藤棚的な写真も撮れるんじゃないかな。
聞いたことないけど。

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蓮華寺池公園

蓮華寺池公園はその名の通り、江戸時代のため池、蓮華寺の周りに広がる公園です。
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大きな池、長い滑り台やスワンボートなど気になる施設がたくさんあり、老若男女問わず地元住民の憩いの場となっていました。

とんがりぼう」という名前の、旧藤枝製茶貿易商館の一部を利用した施設も新しく作られ賑わっていました。
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レトロな見た目の中身はカフェやお店。
開店効果か大賑わいでしたが、このまま定着するでしょうか。

藤まつり

そんな蓮華寺池公園に向かった目的は藤まつり
藤枝市」ですし、フジには力が入っているのでは、と勝手に期待しての訪問です。
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とんがりぼう完成を記念してか藤まつりのメインかステージも設置されていました。
この日は鳩の遊び場でしたが、日によっては何かやるのかな。やらないなら作らないか

池の周りを歩いて公園奥へ。藤まつりを見て行きます。

訪問したのは4月中旬。ソメイヨシノの後に里桜が綺麗な花を咲かせていました。
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そしてその奥にいたのが立派な藤
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ほぼ満開。いい時期に来られたのでは。

さらに池の周りを進むと期待通りの藤棚が見えてきました。
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先の方はまだ咲いておらず満開とは言えなくとも、十二分に見頃
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蓮華寺池の向こうには鯉のぼりも。GW直前の、端午の節句の季節感がよい。
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さらに進んで大きな藤棚
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足元のつつじや新緑、

芝桜など
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紫以外の色との取り合わせもきれいです。

色とりどりの春ですね。
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蓮華寺池公園は思いのほか広く、入口から見渡せる池の周辺だけでなく、周囲の山の上や奥にも広がります。という訳で、そちらへ。

この長く続く藤棚 とても綺麗じゃないですか。
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インフィニティプールならぬインフィニティ藤棚、的な。

山向こうの藤広場

山を超えてフジの広場へ向かいます。
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藤棚ではなく、フジが色々な形に仕立てられていて、なかなか見ない展示のような気がします。園全体の品種の解説もありましたし。

白フジや
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紫は紫でも長いフジ
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これは、何だったかな。品種名が書かれていて、現地では違いが分かったんですが。
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紅色で短い品種
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紫で短いもの
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フジも藤棚にするだけじゃなくて奥が深いんですね。素人丸出しで笑
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多様なフジを愛でて、かなりフジに詳しくなれそうな広場。山を越える価値ありです。

もう一度池の周りに帰ってきました。f:id:tmtmz:20220417222029j:image
このあたり、出店のほかにフジの相談会もやっていました。
相談するようなフジがある家に住んでみたいもので。
私は何を相談するのかすら分かりません。

対岸からサトザクラと藤棚
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池、濃いピンク、紫、淡いピンク。十二分にきれいですが、青空だったら完璧でした。

もっと進むと藤枝市のフジの標本木がありました。
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桜のように、フジでも開花宣言しているのかと思ったら市がやっているだけでした。
力が入っています。さすが市名に藤が入っているだけある。

この標本木のあたりの藤棚が一番大きかった。
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まさに紫の絨毯。やはりフジと言えばこの景色ですよね。最後まできれいでした。

名前だけだと普通の公園のようですが、さすがは藤の名前を持つ市だけあって、力の入りようもその景色も違いました。

写真で載せたもの以外にもたくさんのフジたちを見られました。
でもフジの紫以外もとてもカラフルでよい春の散歩となりました。
爽やかな春の時期は外に出ないとですね。

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