にわかお城ファンの旅行記

にわか城好きの歴史探訪記

周りに影響されて城巡りを始めました。百名城スタンプ目当てだったのに気がついたら沼にハマっていました。

百名城 明石城 (58・兵庫県明石市) 2/2-三重櫓が残る本丸へ

明石城訪問2回目は本丸へ。

石垣と櫓にばかり目が行くところですが、本丸手前の深い空堀や櫓台など随所に想像力を刺激してくれます。
最後には美味しい明石焼きも食べて、大満足の訪問でした。

お城:明石城(58)兵庫県明石市
HP:明石城 公式ウェブサイト
訪問日:2021年12月

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訪問記

本丸

改めて二ノ丸最西部に帰ってきました。
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ここから中央下(西)の本丸、稲荷曲輪を見ていきます。

始まりは本丸とをつなぐ土橋から。
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どうしても辰巳櫓に目が行きますが、
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足元の堀切もなかなかなもの
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石垣がふんだんな平山城ですが、土橋に堀とこの辺りはかなり山城的。
まだまだ戦国期の築城思想も残していたのかな

北面も見ておきましょう。
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良く残る石垣を見ていると、あのへんが艮櫓かなとか、妄想もはかどります。
ただ右の高い石垣には櫓はありませんでした。素人目には櫓台に見えますが、難しい。

本丸枡形虎口。当時は番の門が置かれていました。
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写真では窮屈でサイズ感小さめに見えるかもしれませんが、結構な高さの石垣でした。
さすがは本丸虎口です。

本丸内部へ。

築城当時は御殿と、四隅に三重櫓が置かれました。
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今は御殿はなく中央は自然豊かな森林。四隅の三重櫓のうち、二基が目玉の公園です。

というわけでようやく巽櫓
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本丸側には窓がなくちょっとのっぺりした印象。三ノ丸側からの姿がベストかな。

明石城の前身となった船上城の遺材が使われたと言われます。
偶数月の土日に開放されるそうですが、この日は平日。。。

そのまま南西隅の坤櫓
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坤櫓は本丸向きにも窓があってこちらから見ても美しい。

そして、下から見上げた姿はもっと美しい。
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巽櫓より一回り大きいこちらが天守の代わりだったという推測がよく分かる美しい姿
伏見城の遺材が使われたとも言われます。

奇数月に開放されるそうですが、この日は12月。。。

両櫓の間に復元された土塀には足場もあって、
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巽櫓と明石海峡大橋明石市街を一望できます。
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これはいいビュースポット。足場ありがとうございます。

ここまで見てきた三重櫓は、日本に12基しかない現存三重櫓の二つ。
現存12天守と同じ数の貴重なものですが、そこまで有名ではないような。
明石城でも特に説明はないですし。
もうちょっと丁重に扱っても良いような気がするのは私だけでしょうか。

さて、もう一度本丸西側へ。坤櫓の北隣には天守があります。
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天守の設けられなかった明石城ですが、大きな天守台は置かれていました。
本丸西に張り出していて、このあたりからも西側を意識していたことが窺い知れます。

広い天守台は五重の天守が建てられる規模だそうで。
四隅の櫓と全て揃ったらさぞ圧巻だったでしょう。
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残り二つの三重櫓は今は解体されていて、跡が残されています。

北東の艮(うしとら)櫓跡
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艮櫓は明治初期に解体され、資材は学校建築に回されました。
何の変哲もない場所に見えますが、礎石が残っているそうで、明石城には珍しく解説や展示用の礎石が置かれていました。

北西、乾櫓跡
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乾櫓も明治期に解体され、巽、坤両櫓の資材に回されました。
今は説明もなし。艮櫓と違ってかわいそうな扱いだったので写真2枚載せました。

本丸最後は、北側の埋見門跡から抜けます。
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二ノ丸南側と同様にこちらも坂虎口

本丸北側の石垣を見ながら降りると
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稲荷曲輪の北側の虎口、万の門に繋がります。
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ここが明石城中心部の搦手にあたります。

抜けると桜堀と本丸北面の石垣
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広い池に高い石垣と、防御正面でないもののこちらへの守りもしっかりしています。

この先は北ノ丸につながりますが今は公園。折り返して稲荷曲輪へ向かいます。
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ここから見上げるは本丸石垣
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この写真奥に見えるのが、

上からも眺めた大きな大きな天守
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下から見てもその大きさに圧倒されます。

南側虎口のあたりで坤櫓と一枚。
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良いですね~

稲荷曲輪内部を見ていきましょう。
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二基の櫓が置かれた曲輪も今は公園として整備されていて

西側には櫓台が残されています。正の櫓跡
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西国に向けた西側曲輪の最西端の櫓ですし、物見的な役割もあったのかな。

最後は、山里曲輪から稲荷曲輪の石垣を見上げます。
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阪神大震災からの積み直しもあって保たれている美しい石垣を堪能したら、明石城散策終了です。

おまけ・明石公園で明石焼き

明石城に来たからにはぜひ食べたい明石焼き(地元では玉子焼き)
お出汁と柔らかい生地、こりこりのタコが本当に絶品。個人的にはたこ焼きより美味しいんじゃないかというくらい。

そんな明石焼き明石城から線路を挟んで反対側にある明石市民の台所、魚の棚商店街でいくらでも選んで買うことができます。
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とても元気な駅前の商店街。魚介類や明石焼き以外にも買いたくなるものがたくさん。
明石城築城と合わせて、宮本武蔵がここの街割りにもかかわっていたのだとか。

今回の明石焼きはどのお店で買ったか忘れてしまいましたが、並んでいたのできっと人気店でしょう。
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明石焼き

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タコ飯をテイクアウト。

やっぱりはずれの無い味でした。明石城訪問の際には是非。

感想

満足度 3.5/5

兵庫県民の子供心に明石にはまったく城の印象がなく。姫路城の印象が強すぎたんでしょうか。ちゃんと訪問してみると大層立派な遺構で。満足度はかなり高いです。

二基の櫓はとても美しいですし、駅近ですし、明石観光で明石焼きを食べるついででも少し足を延ばす価値はあるでしょう。

ちょっと解説がなさすぎるところは、知識不足のにわかな城好きとしては残念。
まぁ周辺情報を頭に入れてから行けばよいのですが。

アクセス

明石城

  • アクセス
    電車・バス:JR神戸線、または山陽電鉄本線 明石駅から徒歩5分
    車:第二神明道路 大蔵谷ICから約10分
             または玉津ICから約15分
    有料駐車場あり
  • スタンプ・開館時間
    明石公園サービスセンター受付窓口
    開館時間:8:45~17:00(月初日は9:00~)
     休館日:年末年始
     入城料:無料
  • 城跡
    散策自由
  • 所要時間
    ~1時間
  • 付近のスポット
    百名城関連だと姫路城、赤穂城、洲本城や大阪城が近くです。

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百名城 明石城 (58・兵庫県明石市) 1/2-三重櫓を三ノ丸から見上げる

関西城めぐりその3は少し飛んで兵庫県明石城へ。

元地元民としては、明石といえばタコ、鯛、明石海峡大橋、子午線が先に浮かんでしまいますが、駅からも見える三重櫓は貴重な現存櫓でそれはそれは立派でした。
もっと推していいような。実はもう推しているのかな

お城:明石城(58)兵庫県明石市
HP:明石城 公式ウェブサイト
訪問日:2021年12月

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概要

1617年、時の松本城主、小笠原忠真が明石に入ります。
翌18年、徳川秀忠より命を受け、西国監視のために築城開始。1620年に完成しました。

本丸には天守台も築かれたものの天守は建てられず、四隅に三重櫓が設けられました。

その後、60年ほどの間、城主は頻繁に交代しますが、越前松平家より移った松平直明の後は松平氏の居城となりました。

廃城令を受けて廃城、本丸に2基の櫓を残して明石公園として整備されています。

訪問記

関西遠征3城目は兵庫県明石城へ。

明石と言えば、の明石海峡大橋
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日本標準時子午線の通る天文科学館を車窓から眺めながら
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明石駅
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明石城は道路を挟んですぐ堀が始まる極端な駅近物件
駅ホームから本丸の三重櫓を見ることができます。
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こんな景色を見ながら通勤通学したいものです。毎日見てればなにも思わなくなるかな。

駅を出て道路一本渡ったところ。大きな中堀からスタート
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写真だと池にも見える広い堀の向こうは三の丸。
左手に写る土橋が大手道、太鼓門につながる道となります。
元は土橋ではありませんでしたが、公園整備で埋め立てられました。

中堀東西には不明門があり今も出入り口となっていますが、せっかくなので大手から向かいましょう。

明石公園の正面玄関ともなっている太鼓門枡形
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枡形越しに見える二基の三重櫓と土塀が美しい。。。

かつては高麗門と櫓門からなる太鼓門が置かれていました。
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立派な枡形を通り抜けて城内へ向かいましょう。

散策前に案内板をお借りして全体像を確認です。
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公園が広すぎて字が小さいですが、中央に東西(看板では上下)に並ぶ本丸、二ノ丸、東ノ丸、稲荷曲輪、その南北(看板では右左)に三ノ丸北ノ丸が置かれています。

このうち本丸、二ノ丸、東ノ丸、稲荷曲輪は石垣や曲輪など当時の姿を残しています。
川を北と西に置き、天守台も西に設けるなど、西の防御への意識が伺えます。

ということを頭に入れて、三ノ丸から二ノ丸、本丸、稲荷曲輪と見ていきましょう。

三ノ丸

本丸や二ノ丸を仰ぎ見る平地部分の広大な曲輪が三ノ丸。

西側には内堀に囲まれた居屋敷郭があり、表御殿、裏御殿などが置かれていました。
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今は内堀は埋め立てられ、公園と

明石トーカロ球場となっています。
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この明石トーカロ球場高校軟式野球の全国大会が開かれる軟式版の甲子園球場です。
2014年の延長50回の熱戦をはじめ硬式に負けず劣らずの熱戦が繰り広げられる地ですが、強度の問題を抱えていて、史跡保護と両立に苦心されているとか。
何とかうまい策が見つかってほしいものです。

トーカロ球場の近くには陸上競技場「きしろスタジアム」も。
広い敷地を使ったよくある再利用の図です。
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こちらもやっぱり老朽化の問題が浮上しているとか。難しい。

陸上競技場のある場所は元は捨曲輪、後に山里曲輪と呼ばれました。
捨曲輪と呼ばれた頃は、あえて敵を入れて迎撃するための曲輪として使われました。
城内最西部ですし、最前線として手厚い守りを想定していたのでしょう。

山里曲輪の頃は、樹木屋敷という遊興所が置かれます。

この樹木屋敷を作ったのは、かの有名な宮本武蔵

樹木屋敷自体は残っておらず、記録も少ないですが諸々考察しながら作られたのが、三ノ丸東側の武蔵の庭園
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乙女池周辺に樹木屋敷の庭園資材が移されたという記録などを元に整備されました。

当時の姿は神のみぞ知るですが、街中に居ながら自然を感じるというコンセプトは分かるような。今と同じようなわがままな希望を当時から持っていたんですね。
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武蔵の庭園からは池越しに巽櫓を見上げられます。
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池に移った鏡巽櫓。現地ではもう少しきれいに映っていたのに。。。

二ノ丸、東ノ丸

城の中心部へ向かいましょう。
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両櫓をつなぐ土塀阪神大震災からの復興に合わせて1999年に復元されました。
土塀と聞くと小さな復元と思ってしまいますが、あるとないとで大違い。効果的な復元はいいですね。

右手の辰巳櫓のさらに右手に、当時から続く二ノ丸への道があります。
という訳で、真っすぐ二ノ丸方面へ
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南面の細長い南帯曲輪を越えて

近くで見ると一層高い二ノ丸へ上がりましょう。
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石垣はどれも立派ですが、特に東側は反りが美しい。
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この石段、二ノ丸の、しかも本丸すぐそばにつながるので、一瞬弱点ではと思ってしまいましたが、広大な三ノ丸と二ノ丸への高低差などを考えるとさすがに正面突破はできませんね。
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本丸からも丸見えですし。

登り切ったところには大の門
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石垣の規模からするとさぞ立派な門があったのでしょう。

石段を何とか登ればすぐ本丸にも行けるように見せかけて、深い堀切もありました。
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深くて広い。総石垣で威圧感もあります。こりゃ正面突破はないですわ。。

櫓が気になるところですが、その前に二ノ丸、東ノ丸を見て回ります。

こちらが二ノ丸
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北東、南東隅に二基の二重櫓、礼の櫓真の櫓が置かれていました。
広さはそれなりですが、広すぎる三ノ丸があれば山上はこれくらいでも十分かな。

今は公園。とくに解説もありません。明石城全体に解説は少なめ。欲しいなぁ。
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明石の街並みがよく見えるベンチも置かれて、のんびりできそうです。

二ノ丸と東ノ丸を区切る虎口
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こちらも説明はありませんが、方の門がありました。

抜けると東ノ丸
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当時は南東隅に二重櫓、角の櫓がありました。

こちらも広さはそれなり、今の姿は二ノ丸と大差ありません。
もちろん現役時の使われ方は違ったのでしょうが、同じ高さ、堀も無い二ノ丸と東ノ丸を土居で区切った理由は何でしょうか。仲が悪い人でもいたのか笑

東ノ丸は北と東に虎口がありました。

こちらは北面の枡形虎口
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真の門が置かれていました。こちらも解説は。。。
さすがにこれまでより小ぶりですが、枡形や石垣は立派です。
抜けると北ノ丸。今は図書館や自転車競技場になっているので折り返し。

東の虎口へ

こちらには天の門が置かれ、
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抜けた東帯曲輪には弁の櫓と出の門も置かれています。こちらも、、、

外は堀を抜けて城外へつながる門だからか、真の門より少し手厚め。
とはいえ、東側だからか高低差も小さく、西より防御の意識が低いように思えました。

ちなみに、今も堀は残りますが、薮やらでよく見えません。

折り返して本丸を見に行くところから次回。
東ノ丸から見える明石海峡大橋とともにお別れです。
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近畿地方つながりでこのあたりはいかがでしょう。無理やり?

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百名城 和歌山城 (62・和歌山県和歌山市) 3/3-御殿と御橋廊下と西の丸庭園と。

和歌山城の訪問記も3回目。
今回は西の丸、二の丸の御殿跡を見て回ります。

御殿自体は残っていなくても西の丸庭園に御橋廊下に、たくさんの復元整備施設を見ていたら御殿の様子も少し見えるような。

お城:和歌山城(62)和歌山県和歌山市
HP:トップ|史跡和歌山城
訪問日:2021年12月

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訪問記

三度地図をもとに場所を確認です。
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前回下りたのが、天守から下に伸びる新裏坂
今回は、左上の黄緑、西の丸庭園から黄緑ゾーンを右手に二の丸方面へ進みます。

西の丸〜二の丸

という訳で、現在地は西の丸庭園入り口
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西の丸庭園は、徳川頼宣が西の丸御殿に築いた庭園です。
内堀の一部や自然地形、湧水も使いながら築かれた、江戸初期における日本屈指の名園とも称されます。

お庭を楽しむ造詣は全くありませんが、それでも何となく心動かされる風景です。
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ちょっと長く見ていたくなるような。

こちらは水に浮かぶ鳶魚閣御橋廊下
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紅葉渓庭園と呼ばれるくらいの紅葉の名所なんだろうなぁと思える枯木模様。。。
真冬に来たことを少し後悔

ちなみに、鳶魚閣は当時はもう少し池の真ん中にあったようです。
というのも、この西の丸庭園は、明治維新以後は荒廃していたから。
ここまできれいに復元整備して下さって、無料公開して頂いて、感謝しかありません。

西の丸には、頼宣の隠居所としての御殿も建てられていました。
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広間だけでなく能舞台や茶室もあったそうで、趣味をたしなむ場所でもあったのかな。

御殿は復元されていませんが、西の丸と二の丸をつなぐ御橋廊下が復元されました。
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かつては藩主とおつきの人しか通れませんでしたが、今は誰でも通れるように。良い時代です。

屋根と壁に囲まれて、外から見えない廊下橋。渡る気分は藩主かな。
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この写真が右上に斜めなのは私の腕の問題ですが、奥に上がるのはこの橋特有の傾斜。
やや高い二の丸に向けて斜めにかかった珍しい橋です。
西の丸側の足元を持ち上げて真っすぐかけるより斜めを選んだ理由は何でしょう。

廊下橋と言えば福井城でも復元されていました。

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二の丸

渡り切ったら二の丸、ですが、御橋廊下の足元に少し遺構が。
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何か大事なものを収納する施設だったと考えられています。
近くに大奥があり、江戸城では大奥近くに緊急時に調度品を納める施設がありました。
ということは、、、と思ってしまいますが、この施設は御橋廊下が架かっていた時期には使われていなかったらしく、いやはや難しい。

改めて二の丸
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広い二の丸には和歌山城の主要施設が集まる御殿があり、西から東に、謁見や儀式、政庁として使われた、藩主の居間や家老、側近が詰める場が置かれた中奥大奥とに分かれていました。
もちろん周りは多門や櫓に囲まれ、内部にも庭などもありました。

上の写真のあたりは大奥があった場所。

このあたりが中奥で浅野期から御屋敷と呼ばれていました。
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表との境は不明瞭な一方で大奥とは厳重に区画されていました。

このあたりが。政庁があった場所
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今の姿に違いはよく分かりませんが。。。

表の付近にあった建物は明治期に大阪城に移されたものの、戦後すぐに失火で焼失。
古写真ではたいそう立派な御殿だっただけにもったいない。。

裏坂・大手門

このまま大手門に向かう前に少しだけ寄り道。通っていないかった裏坂へ。
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ここは昔からある通路で台所門跡があります。

苔むして雰囲気の良い野面を見ながらそこそこ登ると
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銀明水に到着
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城内に40ほどある井戸の一つですが、素人が簡単に見つけられるのは少ないような。
それなりに天守からも近く非常用水となっていました。ええ、もう一度登りました。

最後は大手門方面へ。
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一中門を抜けていきます。
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きれいな切込接。解説を見つけられませんでしたが、徳川期のものでしょうか。

これだけ綺麗で大きいと振り返って見たくもなります。
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大手門と北内堀に架かる一の橋から城外へ。
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浅野氏の頃に岡口門から変えてここに大手門が置かれました。
ただ、大手門、一の橋と呼ばれるようになったのは1769年からと比較的最近のこと。
岡口門と比べてちょっと質素に見えるのはその辺もあるのかな。

門自体は明治末期に倒壊しましたが、昭和の頃に再建されています。
当時は門の西側(写真右手)に月見櫓が設けられていました。

改めて北内堀
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右手の内郭、二の丸と左手の外郭、三の丸を仕切っていました。
かつては、今の道路のセンターラインを越えたところまで続く41mの堀幅だったとか。
いやいや広すぎでしょうよ。

最後は天守ビュースポットからの一枚でお別れです。

御橋廊下越しの天守
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時間が無くてもたっぷり時間をかけて巡ってしまう、良いお城でした。

引き続き、関西の城めぐりを続けます。

感想

満足度 4.5/5

さすがは御三家の居城でした。
正直ここまでとは思っておらず、あまり時間を取っておらず、失礼しました。

足元の曲輪群、天守はもちろんですが、素人目にも分かる石垣の違いなど、いろいろ味わって回れるところも良いです。
珍しい連立式の天守もかつての姿に復元されていてとても良い雰囲気ですが、第2次大戦まで残っていたと聞くと当時の天守が惜しくなってしまいます。

アクセス

和歌山城

  • アクセス
    電車・バス:南海本線 和歌山市駅から徒歩10分
          またはJR阪和線 和歌山駅からバス 和歌山城前下車すぐ
    車:阪和道 和歌山ICから約15分
      有料駐車場が多数
  • スタンプ・開館時間
    和歌山城天守閣チケット売り場
    開館時間:9:00~17:30(最終入場17:00)
     休城日:12月29日~12月31日
     入城料:大人410円、小中学生200円
  • 城跡
    同上
  • 所要時間
    ~1.5時間
  • 付近のスポット
    百名城関連だと岸和田城が近くです。

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百名城 和歌山城 (62・和歌山県和歌山市) 2/3-いざ名城の天守へ

和歌山城その2。ようやく天守に向けて山を登ります。
元国宝の天守を外観復元された今の天守は、美しい。和歌山のシンボルですね。

山頂の天守への道も、石垣や眼下の曲輪群を見ながら登ると、あっという間です。
まぁそこまでの高さではないというのもありますが。

お城:和歌山城(62)和歌山県和歌山市
HP:トップ|史跡和歌山城
訪問日:2021年12月

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訪問記

南の丸~表坂

その1の締めとなった岡口門から城内に入り、天守方面へ足を向けます。
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改めて地図でルートを確認
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最初に南の丸を見て、引き返して右下の岡中門表坂から中央の天守へと向かいます。

という訳で南の丸に、相変わらずきれいに残った石垣に目を奪われつつ向かいます。
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写真左手へ進むと南の丸。今はがっつり和歌山城公園動物園です。
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周りはみんな子供連れの家族。

そんな子供連れに男一人で紛れ、、、られないかな、石垣ばかり見ていましたし。
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この辺の古い高石垣も良いですよね。

ここは何かあった痕跡だと思うんですが、解説がないので分かりません。。
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もっと見ていたいところですが、不審がられないうちに引き返して岡中門
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喰い違い虎口がはっきり。広さが名城を物語っています。

岡中門を越えると御蔵の丸ですが、折り返して表坂から本丸へ向かいます。
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山頂ですから仕方ないものの、良い感じに登り坂。。。

と言っても、岡中門の虎口や
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岡口門へと続く土塀などを見ていたら疲れる間もなくあっという間。
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登った先、帯曲輪のような細長い平場は松の丸

右手には本丸の石垣
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この荒々しさでそこまではらみもせず残ってるんですから、しっかりしたものです。

左手には七福の庭という小さな庭が置かれています。
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7個の巨石を七福神に見立てた庭は頼宣の頃に作られたものです。

天守曲輪

松の丸からさらに先へ。本丸表門跡
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折り返して中の門
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もう一つ折り返して天守一の門を越えると天守に到着です。
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この辺の門の説明は現地にはありませんでした。。。
もったいないような気もしますが、みんな天守に目が行っちゃうのかな。

そういう自分も天守へ行きそうになりますが、手前にまだ見どころがあります。
反対の本丸御殿
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その名の通り、御殿が置かれていた曲輪です。
今は給水場が作られていますが、登ることはできます。

この御殿、浅野期は二の丸御殿、徳川期は本丸御殿と呼ばれていました。
石垣の様子から浅野期の御殿は下段だったのかな。

結構狭い曲輪に御殿が置かれていたもので、、、と思ったら、徳川期には手狭で不便で晴れの日くらいしか使われなくなっていたようです。やっぱりそうですよね。

今は天守ビューポイント。大天守、小天守がよく見えました。
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威厳ありますね。良い。

という訳でようやく天守曲輪
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向かって右手、楠門(二の門)足元の券売所に100名城スタンプがあります。
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モデルは、岡口門越しの天守ですね。そんな風に見える角度があったのか。

写真と言えばこんな看板も出ていました。
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こう言われると、映えを狙わないわけには行きません(笑)
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どうでしょう?
構図は綺麗ですが、お手本を見たあとだと見劣りしちゃうかな。

改めて楠門から天守を見学へ。
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こういう角度も良いですよね。雰囲気あります。

和歌山城天守は豊臣期にもこの山頂に置かれていましたが、今とほぼ同じ形に築かれたのは、浅野期。徳川期には天守曲輪と呼ばれるようになりました。

天守から多門、楠門(二の御門)、二の御門櫓、多門、乾櫓、多門、御台所、小天守と続く連立式の天守天守曲輪を四角く囲います。
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東側の南北に並ぶ天守天守

北西隅の乾櫓
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天守と乾櫓が並んで見られる北東、南西からの姿に配慮した構造とのこと。
北東と言えば大手からの眺め、かな。街道筋とか他にもありそうですが。

三つ葉葵が出迎える天守内部では、もちろん和歌山城の歴史を学ぶことができました。

そして、眺めも。
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楠門、二の御門櫓、乾櫓など、連立式天守が若干ゆがんだ四角に建てられていることがよく分かります。
遠くに目をやると紀の川河口から海も良く見えます。当時はもっと近かったのかな。

北側は西の丸、二の丸。
向こうの市街化した三の丸は官公庁などの重要施設街に。当時も武家屋敷街だったと思うと、建物は違えど重要な施設が並ぶという使われ方はある意味近いのかも。
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足元には斜めにかかった珍しい御橋廊下も見えています。この後見に行かないと。

新裏坂の刻印石

天守の見学を終えたら、二の門櫓側から延びる新裏坂を下りて再度麓の曲輪群へ。

この道自体は絵図にもない新しい道ですが、見たいのは降りた先。
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見たいのは下りた先の駐車場、ではなくて。。

刻印石が多く見つかっているのです。
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金沢城訪問記)ほどではないにしろ、かなりの刻印を見つけることができます。

刻印は浅野期に修築された石垣に多く残っているんだとか。
用途は議論に決着を見ていませんが、当時の人の考えが知れるようで面白い。自分だったらどんな刻印をするだろうかな。

天守を見終えた次回は、残った西の丸、二の丸を見ていきます。

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百名城 和歌山城 (62・和歌山県和歌山市) 1/3-紀州徳川家の居城・かつての大手門へ

関西遠征第2弾は和歌山城へ。

紀州徳川家のお膝元ですが、個人的には和歌山観光はラーメンやらパンダやらばかりで(パンダは和歌山市ですらないですが)、城下町の印象はなく。
実際に訪れて印象を大きく覆されました。

今回は外周の石垣を見ながら現存の門を見ていきます。
有名な天守に至るまでにも見どころがたくさんありました。

お城:和歌山城(62)和歌山県和歌山市
HP:トップ|史跡和歌山城
訪問日:2021年12月

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概要

1585年、羽柴秀長が秀吉の命により虎伏山に城を築いたことが始まりです。
秀長は大和郡山城を居城としたため、桑山重晴が家老として城代を勤めました。
そのまま秀長家が断絶すると城主となります。

1600年、関ケ原の戦いの後、浅野幸長が入り、大改築。
天守や屋敷の造営、大手門の移設と城下町整備を行いました。

1619年、徳川頼宣が入り、紀州徳川家が成立。
御三家にふさわしい城として、二の丸の拡張や砂の丸、南の丸、庭園を造成しました。
1846年には落雷で天守が焼失しますが、御三家の特例で再建されます。

天守明治維新後も残り、旧国宝指定されますが、第二次大戦の空襲で焼失しました。

現在は、1958年に再建された天守を中心に和歌山城公園として整備されています。

訪問記

和歌山城公園へ

岸和田城からその足で、南海電車和歌山城へ。f:id:tmtmz:20211226225225j:image

和歌山と難波をつなぐ私鉄なので車窓は街中と思っていたら、意外と海沿いを走ったり
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山を越えたりとバリエーション豊か。
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峠を越えると遠くに来た気持ちになりますよね。

実際に1時間くらい揺られて、はるばる和歌山市駅に到着
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思えば遠くへ来たもので。

綺麗な駅とは裏腹に駅前はちょいと寂しいですが、大きな看板で紀州徳川家雑賀衆が推されていて歴史好きとしては嬉しい限り。
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駅から和歌山城までの徒歩10分の道中も、町名が城下町由来ばかりであったり、川が明らかに旧外堀らしい形をしていたり、さすがは御三家の居城という広がりです。
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この市堀川は睨んだ通り外堀由来で、江戸時代には北は町人町、南は武家屋敷(三の丸)に分かれていました。

ということは、ここから三の丸のはずですが、今の和歌山城公園までさらに徒歩5分。
さすがは御三家の居城です。広い。
和歌山市ってここまで城下町感を残っていたんですね。ラーメンとマリーナシティのイメージしかなかった。。

その市堀川から5分、トータル10分歩いて和歌山城公園に到着。
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早速大きな堀と石垣が見えてきました。

外郭は都市化した部分もとても広い和歌山城
遺構も狭まったとはいえ十分に広くて、ちゃんと計画していかないと。
吹上門入ったところにあった看板の図で今の姿を確認です。
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写真は岡口門にあった同じ絵をお借りしています。

中央緑に囲まれて描かれているのが山上に置かれた天守曲輪と、東の松の丸
その周りを南の丸、御蔵の丸、二の丸、西の丸、砂の丸が囲みます。
北東に大手門、南東に岡口門などを持ち、その外側には広い水堀が今も残っています。
この図の北側欄外が先ほど見てきた三の丸と市堀川です。

今いるのは北西オレンジの吹上門。今回は南下して南東の岡口門へ向かいます。

砂の丸・追廻門

吹上門は、最も湊に近く堀で繋がっており、物の行き来にも使われました。
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当時は変則的な枡形虎口で、橋の東側に物資搬入のための雁木があったとのことですが、大きく改変されていてなかなか厳しい。

そんな中でも当時を残すところが、勘定御門の左右の石垣の積み方
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目地が通って少し綺麗な西側と
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荒々しい野面の東側
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この東側石垣までが浅野期の初期に、西側は徳川期に積まれたと考えられています。
ここの石垣は大きさもバラバラで、いろいろな所で見る野面の中でも特に荒々しい。

本丸を囲む曲輪の一つ砂の丸は、かつての砂丘を利用しています。
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いまも砂のグラウンドなのは砂の丸の名残、、、ではないか。

砂の丸から東側、二の丸への通路は少しくぼんだ地形。
浅野氏が鶴を飼っていて、鶴の渓と呼ばれています。
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手前には鶴の門がありました。

鶴の渓から見る本丸方面の石垣もとても荒々しい野面積みの高い石垣が続きます。
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ここの石垣の雰囲気は好きですね。
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砂の丸へ戻って、高石垣と天守をチラ見しながら南下。
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和歌山県護国神社の入り口から折れて
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追廻門
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搦手にあたる門で小さめですが、空襲で焼けずに残る貴重な遺構です。
朱色は裏鬼門の厄除。

追廻門の名前は、門の外に馬術を練習する追廻があったことから来ているそう。
さすがに誰かを追い回したわけじゃなかったか笑

不明門・岡口門

追廻門からいったん外に出て、外から高石垣を堪能です。
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大きな城だけあってさすがの高石垣。
あの櫓台に櫓が建っていたら、見張られてる感すごいでしょうね。

南端はいかにも堀跡っぽい道路につながります。
頼宣の城改築に際して砂丘切通して作られた三年坂がもとになっています。
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そんな三年坂につながる門が不明門
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普段は開かない門で、遺体や罪人が通る不浄の門、有事の城主の避難口とされます。
門は明治後期まで残りましたが損傷が激しく解体、今は駐車場入り口です。
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櫓台の隅石や虎口の形状はとてもきれいに残っているのですが、門の損傷が激しかったとは、不浄の門だけあってあまり修復されなかったのかな。

不明門から東側には南堀が広がります。
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今は空堀ですが、当時は水堀でした。
不明門を境に同じ南面の防御が高石垣と水堀で変わっているのはなぜでしょうか。

先ほどの写真、不明門付近の南堀の石垣はきれい目の打ち込み接ぎですが、
岡口門に近づくと荒々しい野面積みに代わります。
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この辺古めなんですね。素人目にも築城時期が窺い知れて面白い。

そのまま南東端へ。

広い東堀を望む場所に
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岡口門が残ります。
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豊臣秀長、桑山重晴時代には正門として扱われた櫓門。
和歌山城では貴重な戦災を免れた建築物です。
東堀の写真左端の、石で囲った狭間をもつ土塀とともに重文指定されています。

かつては両端に蔵や櫓が続いていましたが、取り払われて切妻形式。
ちょっと寂しい印象ですかね。
ただ全体に感じる年季とその寂しさが当時を感じさせてくれるような。
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ここから天守方面に向かいますが、ここからはまた次回。

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続百名城 岸和田城 (161・大阪府岸和田市) -住宅街に溶け込んだ水堀と石垣と復興天守

昨年末の関西遠征を振り返っていきます。最初は続百名城の岸和田城

岸和田と聞いてもだんじりくらいしか浮かばない人間でしたが、なかなか立派な復興天守に水堀に石垣
そりゃ駅でおススメされるだけはありますね。

お城:岸和田城(161)大阪府岸和田市
HP:岸和田城特設サイト- 岸和田市公式ウェブサイト
訪問日:2021年12月

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概要

築城時期は不明ですが、岸和田古城から戦国時代に現地に移ったとみられます。

1585年には羽柴秀吉紀州討伐の後、秀吉の叔父、小出秀政が整備し、5層の天守も築かれました。
その後の歴代城主たちも、惣構えや城下、外堀や寺町などを築く改修を続け、1640年、岡部宣勝の頃に完成を迎えました。

1827年、落雷で天守を焼失、再建されないまま明治維新を迎え、廃城となりました。

訪問記

岸和田城訪問のスタート地点は南海本線岸和田駅
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岸和田と言えば、のだんじり
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と並んで岸和田城も紹介されていました。
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関西に住んでいた頃、岸和田にお城の印象はありませんでしたが、地元では推されていたんですね。失礼しました。

完全にベッドタウンの住宅街を歩くこと10分弱

かつての岸和田城主、岡部氏の新御茶屋跡を地元財閥が別邸とした五風荘を横目に
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立派な堀と天守が見えてきました。
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街中にこんな立派な堀と石垣、復興天守があったなんて驚きです。
犬走りがとても特徴的ですね。

そして、この姿を見て今自分が城内に居たことに気がつきました。
天守閣入り口あたりにあった絵図をもとに全体像を確認しましょう。
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本丸を中心に周りを曲輪が囲むきれいな輪郭式の大きな縄張りがあったんですね。
五風荘のあたりも本丸を囲む二の曲輪で、その外側にも城域が広がっていましたが、さすがに都市化しています。まぁ仕方ない。

大手にあたる二の丸方面へ、本丸をぐるっと回って向かいます。
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こちらにもしっかりと犬走り。何のために作ったんでしょうかね。

この辺から洗濯ができそうだなとか平和ボケなことを思ってしまいましたし。
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実際には搦手になる橋でも架かっていたのでしょうか。

本丸の堀はどこを見ても立派な広さが残っていてとても威厳を感じます。
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このあたりはまさに名城の趣きです。
自分が今いる周囲は二の曲輪とは思えないですが、そこは街中ですから仕方ない。

本丸に入る前に二の丸を見ていきましょう。

南東側には多聞櫓
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を模したトイレ。さすがにちょっとちゃちい。

二の丸は御殿が広がっていましたが、今は広場と観光交流センターが設けてあります。
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そんな中、北端にひっそりと置かれた伏見櫓の看板
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ここには伏見城から移築された伏見櫓がありました。
初期徳川政権において戦略上重要な城に伏見櫓が移される傾向があったことから、当時の岸和田城の位置づけが窺い知れる遺構です。

ここ以外、街中に遺構の解説をあまり見つけられなかった今の岸和田城においても、とても重要な場所であることが分かりました。

改めて本丸
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復興でも建物があると雰囲気が出ますね。

石垣と堀はとても立派ですし。
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中へ入って天守へ。
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とても馴染んだ天守ですが、実は当時のものとはまるで違う様相
当時は5層の天守であったことが絵図で分かっています。さすがに5層を立て直すことはできなかったのかな。

天守入口で百名城スタンプをゲット
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その後、岸和田城の歴史を学んだあとは、お決まりの展望へ。
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海側を眺めます。

気になる足元のお庭は八陣の庭
1953年に当時の庭園設計の第一人者、重森三玲氏の手により設計されました。
諸葛孔明の八陣法を取り入れ、当時なかった天守からの眺めを意識して作られた国指定名勝です。

枯山水を愛でる感性はありませんが、きれいなお庭です。
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天守とお庭。どちらも当時からすると全く異なるものですが、今の姿としてはどちらも馴染んでいます。
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重ね重ね天守はもう少し当時に近づけられなかったものかとは思ってしまいますが。

最後は二の丸北側の百間堀方面を散策。

古くは二の丸の石垣下まで海水が入り込む葦原であったとされますが、1600年代初頭に城下町として整備されました。
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今もこのあたりは狭いながらも瓦屋根が広がる雰囲気の良い景色が広がります。

そして二の丸方面に広がるのが百間堀
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今でも百間あるかと思うような広い堀ですが、これでも道路建設で埋められて狭くなっています。

というところで、岸和田城見学を完了。

最後はもう一つの南海本線の駅、蛸地蔵駅から和歌山方面へ。
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この駅もステンドグラスのある、何となく良い雰囲気のある駅でした。

おまけ:特急ひのとりで大阪南部へ

今回、岸和田城へ向かうにあたっての出発地点は近鉄名古屋駅でした。
新幹線でも良かったんですが、せっかく大阪南部なので近くに向かえる近鉄特急で。

というのも、その特別感で有名な特急ひのとりに乗ってみたかったのです。

電車の外観を撮るような鉄道好きもどきの行動に出ちゃったりしながら、ちょっと特別な移動を開始です。
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写真は終点の難波駅で。

近鉄名古屋駅大阪難波駅を2時間ちょっとでつなぐひのとりは、両端1両ずつにさらに特別なプレミアム車両を設けてあります。
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革張りのゆったりシートは、前の席まで足が全く届かない広い空間を持っています。

もう一つ特別なのは、座席のバックシェル。
リクライニング(電動!)をすべて倒しても後ろの人に全く影響しないのは嬉しい。

デッキにはカフェスポットも。
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ここは買って試すべきだったか。

座席へは階段を上がるので、少し高い目線からの展望を楽しむこともできます。
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運よく最後列が取れたので、振り返るとなかなか見られない景色が広がっていました。

名古屋から難波までの2時間余り。
新幹線より長い時間もあっという間。むしろもっと乗っていたい列車でした。

感想

満足度 3/5

街中に唐突に現れる天守と堀、石垣。
いわゆるお城の景色をしているので、普通の観光スポットとしても人気が出そうです。というか、普通に観光に来られていましたね。

天守が低くなっていたり、二の曲輪の外側はほとんど残っていなかったりと残念な所はありますが、街中の平城でここまで残っていたらそちらを楽しむべきなのでしょう。

アクセス

岸和田城

  • アクセス
    電車・バス:南海本線 岸和田駅から徒歩13分
       または南海本線 蛸地蔵駅から徒歩8分
       またはJR阪和線 東岸和田駅からバス 岸和田駅下車徒歩13分
    車:阪神高速4号湾岸線 岸和田南ICから約7分
    岸和田市役所第4駐車場をご利用ください
  • スタンプ・開館時間
    岸和田城天主閣受付
    開館時間:10:00~17:00(最終入場16:00)
     休城日:月曜日、年末年始(祝日、お城まつり期間中は開場)
     入城料:大人300円、中学生以下無料
    月曜は岸和田市二の丸広場観光交流センターで押印できます。
  • 城跡
    同上
  • 所要時間
    ~0.5時間
  • 付近のスポット
    百名城関連だと大阪城和歌山城が近くです。

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加納城(岐阜県岐阜市)-岐阜城に代わる天下普請の城

岐阜城に引き続き、岐阜駅前の加納城へ。
岐阜城の廃城後に、天守や石垣が移されたと伝わっています。

明確な遺構は住宅街に公園として残された本丸の周りだけですが、その本丸には立派な石垣が残されていて、往時を伝えてくれています。

お城:加納城 岐阜県岐阜市
HP:オフィシャルなものは見つけられませんでした。
訪問日:2020年10月

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概要

中世加納城は1445年に斎藤利永によって築城されますが、1538年に廃城となりました。

関ケ原の戦い後の1601年、徳川家康の命により中世加納城の跡地に築城されました。
初代城主、奥平信昌のあとは譜代大名が入れ替わり、明治維新の際に廃城となります。

東と南北に川が流れ、西には長刀堀を設けた平城で、本丸を中心に5つの曲輪が設けられました。
石垣などは関ケ原の戦いの前哨戦で落城した岐阜城から運ばれたとされます。

二の丸北東角には岐阜城天守を移築したとされる御三階櫓がありましたが、1728年に落雷で焼失しています。

訪問記

岐阜駅から徒歩での訪問。駅徒歩20分ほどの小散歩です。
岐阜城からわざわざ資材を移して作った家康肝入りの城跡はどんなもんでしょう。

徒歩20分と聞くと少し遠い印象もありますが、道中には大手門跡や中山道の案内などがあって意外とすぐ。
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こちらは大手門跡。今は住宅街の路地と街道の交差点です。
一応交差点の名前にも大手の名を残していますが、流石に街中で痕跡は少なめです。

岐阜駅からだと少し手前、北側に中山道が通っていて、加納宿が置かれていました。
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写真はやや離れた場所で見かけた碑

本丸へは、たくさんの小中学校が立ち並ぶ文教地区を抜けていきます。

「学校が立ち並ぶ」から想像される通り、加納城の城下町に関連した場所でした。
大部分は侍屋敷跡を利用したものですが、南端の加納小学校は三の丸跡にあります。
と言っても、例によって小学校はじろじろ見られず、チラ見だけして城跡へ。

あとで分かったことですが、加納小学校南東端には御三階櫓の石垣も残されています。
ここは看板も出ているようなので予習しておけばよかった。

大手門から真っすぐに加納城の本丸跡、今の加納公園へ到着。
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こちらが今の加納公園のマップ。
外枡形のある本丸の形は綺麗に保たれています。

このマップ、絵では遊具やテニスコートが書かれていますが、字があるのは本丸跡だけという。都市公園ではなくて城跡ということをアピールしてるのかな。

ちなみに今の地図と当時の姿を重ねた縄張り図もあるので、本丸以外の様子も何となく想像することができます。ここは予習なしでも行けたのに、御三階櫓を見逃すなんて。

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2つ目の地図の通り、本丸北側の今の入り口へ。
かつてここは堀で、大手門は外枡形に置かれていました。

堀は埋められていますが、その名残は感じられます。
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大手北堀は堀底に畝を設けた障子堀であったことが分かっています。
障子堀と言えば山中城訪問記)などの北条氏のイメージですが、徳川氏も取り入れていたんですね。

ここの土塁には見にくいですが石垣が残されています。
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隅櫓はありませんが、堀の広さと石垣の高さに大きさの一端を感じるような。

今の入り口から本丸内へ。
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本丸は綺麗な芝生広場となっていて、

周囲は高い土塁に囲まれています。
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ほぼ方形の本丸に方向感覚を失わないうちに出っ張った外枡形
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こちらは道らしい道はないですが、先へ進むと土塁の切れ目
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テニスコートのあたりが二の丸で、そことをつなぐ極楽橋、筋鐵門があったあたりでしょう。たぶん。

このあとは、土塁に登ったりしながら南側の公園入口へ。
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ここは当時から本丸と隣の大藪曲輪をつなぐ臆病門と橋が架かっていました。
臆病門とはなかなかなネーミングで。

最後は西側遊具ゾーンに残る石垣を見ながら戻ります。

最初の堀の石垣よりもよく見えますので、ここら辺が加納城のハイライトでしょう。
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しっかりと残る石垣。

北西端には天守台が置かれていました。
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こちらの石垣もしっかり。いいですねぇ。

並木の裏手にあるのでちょっとだけ手がかかりますが、頑張ってみる価値ありますよ。
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その後は住宅街を散策しながら名残を楽しみつつ岐阜駅へ戻りました。
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感想

満足度 3/5

残る遺構は本丸中心に少しだけですが、本丸はしっかりと残されていますし、堀や石垣も様子はよく分かります。天守台石垣はとても良い。
アクセスも容易ですし、岐阜城探索のついでに寄ってみるのはアリかと。

岐阜城からもほど近いですが、それでも山頂から天守と石垣を運ぶのはさぞ大変だったんじゃないかなぁ。

アクセス

加納城