にわかお城ファンの旅行記

にわか城好きの歴史探訪記

周りに影響されて城巡りを始めました。百名城スタンプ目当てだったのに気がついたら沼にハマっていました。

続百名城 多気北畠氏城館(153・三重県津市) -名松線で向かう北畠氏の本拠地

津城に引き続き、再訪の機会を得た多気北畠氏城館の記事を更新です。

名松線で向かったのはコロナ前のことですが、いま思い返しても楽しい訪問でした。
地元の方とふれあって良い思い出ができると、土地の印象が一気に良くなりますよね。

再訪は車でしたが、名松線も再訪したいところ。
2020年の訪問記に再訪時の写真を追加して更新しました。

お城:多気北畠氏城館 三重県津市
HP:津市 - 多気北畠氏遺跡の概要
訪問日:2020年1月, 2023年3月

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概要

1342年、北畠顕能が築いたと言われます。その後、8代にわたり北畠氏の本拠でした。

8代具教は織田信長の侵攻を受け1569年に降伏、その後も抵抗しますが1576年に誅殺され、詰城とともに廃城となりました。

居館と、近くに詰城、さらに奥には戦時の詰城(霧山城)を持つ構造でした。
居館跡は1500年ごろに大規模な造成が行われたことが分かっており、それを境に前期、後期と分けて捉えられています。

訪問記

伊勢奥津駅

津城を訪問したその足で、JR名松線に乗って終点の伊勢奥津駅へ。
この名松線訪問が、わざわざ青空フリーパスを購入した一つの理由でもあります。


JR東海屈指のローカル線、名松線はコロナ前でも2時間に1本の運行。
お客さんもごくわずか。単線対向待ちで10分以上停まるなど、道中は非常にのんびり。これぞローカル線と言った雰囲気でした。

日常から遠く離れた土地の雰囲気を濃密に感じられるローカル線、好きですね。

ちなみに、家城駅前には下剋上球児のモデル、2018年甲子園に出場して話題となった白山高校がありました。よく書かれていた2時間に1本の列車は名松線だったのか。

終点伊勢奥津まで約1.5時間。

当時13:06松阪駅発の列車に乗って、ついたのは14:30
ここからの移動を考えても実質的な城訪問最終列車でした。

という訳で、実際には駅到着後すぐに多気北畠氏城館へ出発したのですが、本記事ではまず伊勢奥津駅周辺を散策します。

小さな駅の隅に給水塔が残されていました。
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ここで途切れた線路は名松線の名、名張を目指していました。

駅の周辺は小さな集落。
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古くは大阪から伊勢を目指した伊勢本街道の宿場町だった奥津の町
今は鄙びた雰囲気ですが、随所にかつての賑わいを残します。
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駅前に残る立派な建物は明治から大正にかけてのよろずやでした。
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今はまちかど博物館になっており、予約すれば見学可能だそう。

近くには道標や
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延命地蔵様もいらっしゃいました。

この「のれん」が奥津の町を彩る一つのアクセントに。

各家の軒先にオリジナルののれんを掲げて町おこしをされています。
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そういえば伊勢奥津駅にも掲げてありました。
人の少なさには過疎を感じずにいられませんが、盛り上げようとする気概や人のぬくもりも感じることができました。

帰りの列車で配られたポストカードもそうですし、
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もう一つぬくもりを感じたのが自転車を借りた駅前の観光案内所ひだまりさん
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通りすがりの観光客にお茶を振る舞って丁寧にもてなしてくださり、帰りの列車の心配や、時間をつぶす喫茶店の紹介までしてくださいました。
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レンタサイクルの返却が16時の閉店まで、というのは玉に傷でしたが、その温かな対応で、一気に伊勢奥津のファンになってしまいました。

伊勢奥津での楽しい経験を振り返っていると、多気北畠氏城館にたどり着く前に終わってしまいそうなので、そろそろ話を進めます。

多気北畠氏城館

ひだまりさんで電動自転車と恥ずかしい蛍光色のビブスを渡されて、移動スタートです。

道中、名松線を一枚。
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まさに山間の山村。絵に描いたようなローカル線の風景です。良き良き。

そこから山をトンネルで越えて、伊勢本街道のお隣、多気の集落へ。

こちらも風情ある町並みに、道標が残ります。良きです。


すぐいせ道、は残念ながら直ぐではなく、真っすぐ、の意味。

この多気こそが北畠氏の本拠地。江戸時代よりさらに前にも栄えていました。
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長い長い導入を終えて、多気北畠氏居館跡を見てまわりましょう。
今は北畠神社が建てられています。

鳥居をくぐって境内へ
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中に入るとこんな感じ。立派な神社です。
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居館跡に建つ、と言っても今は名残を感じるのは難しく、気分は参拝です。

社務所御朱印、、、ではなく続100名城スタンプを頂きます。

古い時代の居館ですが、三段に分かれた上段と中段の境に石垣が用いられていたことが一つの特徴。そんな上段と中段をつなぐ大手口にあたる入口跡がモデルですね。

参拝をしたら境内を散策します。
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三段構造の内、およそ上段と中段に跨るように境内が広がっています。
今はどこまで行っても神社ですが、所々に案内も。
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ここはスタンプモデルの入り口あと。
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さすがに見える状態ではありませんが、足元には石垣が埋まっているのかな。

ここで見つかった石垣が1500年代前半のもの。
中世館跡では日本最古の石垣で、それをアピールする看板もあります。
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が、さすがにこの景色では実感は湧きづらいかな。
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雰囲気の良い神社ではあるのですが。
なお、居館だった頃から守りが必要な場所でも、外部にアピールするための場所でもなかったため、上段をより厳かにするためのものと考えられているようです。

上段最奥部からは礎石建物跡も検出されています。
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やはり様子を感じるのは難しいものの、15世紀前半の人の営みに思いを馳せられる、というのはロマンがあります。

折り返して、社務所正面、今の多気北畠氏城館で一番の見どころであろう、1500年代前半に作られた庭園へ向かいます。
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信長の侵攻により北畠氏が滅んだあとも、埋もれずに残ったという驚きの庭園。
300円払ってもみる価値アリです。

米字池と呼ばれる池泉と枯山水が同居し、看板によると大自然と調和しつつ質実剛健、武将好みの男性的な庭園、だそう。
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質実剛健さは、私には高尚すぎましたが、雰囲気の良い庭園であることは分かりました。

当時置かれたであろう石の配置や
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実に複雑な池の形
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苔の雰囲気など
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当時、北畠氏がもてなそうと考えられた客人とは程遠い格にしても、庭園のよさのごくごく一部は感じ取れたような気がしました。

この日はレンタサイクルの返却時間(16時。。。)の都合もあり、ここまで。
詰城や霧山城も後日訪問しましたので、おって追加しますね。

感想

満足度 2.5/5

多気北畠氏城館のうち、詰城や霧山城を除いた城館部分だけを切り取ってしまうと評価は低くならざるを得ません。庭園はもちろん良いものですが、遺構は見えませんので。

ただ、伊勢奥津や多気の街並み、人の雰囲気などは5/5の評価で、もう少し時間を取って訪れたい土地でした。

アクセス

多気北畠氏城館

  • アクセス
    電車・バス:JR名松線 伊勢奥津駅からバス 上多気交差点下車 徒歩10分
          JR名松線 竹原駅からバス 北畠神社前 下車すぐ
    鉄道、バスともに本数僅少のため、公共交通での訪問はかなり大変です。
    車:伊勢道久居ICより約60分
      駐車場あり
  • スタンプ・開館時間 
    北畠神社社務所
     開館時間:8:30~17:00
  • 城跡
    散策自由
  • 所要時間
    城館跡だけなら~0.5時間
    詰城含めると2時間。詰城の訪問記は別記事で。
  • 付近のスポット
    おなじ三重県の続100名城を。

    tmtmz.hatenablog.com

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    #城


続百名城 津城 (152・三重県津市) -藤堂高虎を感じる高石垣

このブログ始めた最初に訪れた津城に縁あって再訪。
街中の開発の波に揉まれた部分はありますが、今ものこる内堀に高石垣は見事です。

この数年の自分の目の成長も感じつつ、改めて楽しんできました笑
2020年の訪問記に再訪時の写真を追加して更新しました。

お城:津城 三重県津市
HP:津市 - 「津城跡」
訪問日:2020年1月、2023年3月

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概要

1570年、織田信長の弟、信包により本格的な城として築かれました。
1580年には五層の天守も完成し、城下町も形作られました。

富田信高の頃におこった関ケ原の戦いでは、西軍からの攻撃を受け、開城となります。

戦後、信高は城主に返り咲き、加増の上で移封。
代わって藤堂高虎が入り、城の大改修と城下町の整備が行われました。
ただ、天守は再建されなかったとされます。

その後、幕末まで藤堂氏の居城でした。

訪問記

本丸・西之丸内部

始まりはJRの津駅から。近鉄も同じ場所に津駅を持ちますが、今回はJR。

あえてJRを強調したのは、青空フリーパスというJRのフリー切符を活用したから。
名古屋を中心に各方面にフリー区間が設定されたこの切符。
三重方面は鳥羽あたりまで伊勢鉄道含めて乗り降り自由で使い勝手の良い切符でした。
もうちょい列車本数あれば「あえて」をつける必要なくなるのになぁ。

改めてJR津駅。

特徴的な?に見える駅名板を写真に収めたら移動開始です。

津城の最寄り駅は近鉄津新町駅ですが、今回はバスで移動。
津駅から10分弱の三重会館前バス停より歩いて少しで到着です。

実はバス停自体がお堀の内側なので、津城に向かう道中にも石垣があったりします。

ビル群に残る遺構、見つけるとちょっと嬉しくなります。

津城に専用駐車場はありませんが、市営駐車場がお隣に。車で来ても安心です。
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再訪時はお世話になりました。

駐車場正面に早速高い石垣が残ります。
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本丸北東隅、丑寅の櫓台です。

その隣に丑寅櫓が再建されていますが、こちらはもともと多聞櫓があった場所でした。
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場所とともに外観も特に似せてはいないのだとか。もったいないような。

今の丑寅櫓脇が、今の正門です。
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かつては東黒門、東鉄門からなる枡形を持つ厳重な門でしたが、跡形もありません。
まぁ公園に守りは必要ありませんが、うーん。

向かって左手。南方面の石垣。
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右端には櫓があったはずですが、結構な低さに。
それ以外含めてどこまでが当時の石垣なのでしょうか。

入った所に現在と照らし合わせた縄張図がありました。こちらで全体像を確認です。
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本丸の周りに内堀、その外を二之丸が囲み、さらに外堀を持つ姿でした。
本丸には二か所の枡形が、その外には東之丸、西之丸の馬出が置かれていました。

都市化に伴い、現在は本丸と西之丸、内堀の一部が残るのみです。

こちらが先ほどの丑寅櫓足元から振り返った東之丸方面。見事に市街地です。
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改めて中を見てまわります。
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中央は見事に公園なので、城好きの見どころは周囲を囲む石垣でしょう。

最初は先ほどの丑寅櫓を内側から。
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外観は当時と違いながらも、内側にも窓があるところはかつてもそうだったのだとか。

と言っても、当時も天守の格式だったとはいえ、今の姿は天守に寄せすぎなような。
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一応、足元近くまで登ることができました。

下りて再度散策へ。本丸南西には天守が残ります。
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織田信包の頃に建てられた天守台石垣。
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なかなか綺麗に保たれている上に高さもあり良いですが、解説がない。もったいない。

天守台脇には埋門も残ります。
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抜けると内堀でしたが、今は児童公園に。手前の坂道は犬走の名残でしょうか。

さらに藤堂高虎さんもいらっしゃいます。
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外から見る高石垣には藤堂高虎の臭いを感じます。また後ほど。

北西側には戌亥櫓の櫓台。
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このあたり、石垣はきれいなのですが、西鉄門虎口は跡形もなく。
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かつてはこの場所に、西黒門と西鉄門からなる枡形がありました。
脇には伊賀櫓も設けられていましたが、想像は難しい状態です。

西黒門からは西之丸へつながる土橋が架けられていました。
両側に土塀を設け、西之丸側には桜門もありましたが、こちらも跡形もありません。
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西之丸方面は今は日本庭園に。かつては番所や倉庫があったそうですが。。。

ただ、頑張れば城感も感じられるもので、こちらはおそらく土橋跡地付近から見た本丸西側の石垣
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この辺りから戌亥櫓の櫓台や犬走を見られます。このアングルは良いですねー。

また、西之丸の片隅に門が置かれていました。入徳門
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1820年、藤堂高兌の頃に建てられた藩校有造館の講堂正門でした。
明治以降は役割も場所も転々としましたが、何とか今まで残ったものです。

このまま虎口を抜けて、今の城外へ。
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この虎口、本丸周辺には残っていないもので、雰囲気ありますね。

抜けたところから振り返ってもう一枚。
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やっぱり入り口はこうでないと。

津城外周・スタンプ

内部はなかなかな改変具合ですが、外から見た石垣はかなり雰囲気があります。

早速見に行きたいところですが、その前に近くの高山神社へ。

場所から推測されるように、津城ゆかりの藤堂高虎公が祀られています。

そして、ここに続百名城スタンプがあります。

モデルは丑寅櫓。そりゃそうですね。

ようやく内堀ごしの石垣を愛でていきます。

こちらは、先ほどの西之丸と土橋
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犬走を持つ石垣が良い雰囲気です。

そのまま北面へ。
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右手の西之丸と左手の本丸。石垣の高さの違いや、間をつなぐ土橋。さらに広い内堀。
中からは分かりにくい縄張りを感じられるアングルでは。

戌亥櫓の櫓台をアップで。
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いやー高い石垣です。真っ直ぐの傾斜に圧迫感すら感じる高石垣。

さらにここから丑寅櫓までずっと北多門櫓が続いていました。
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広い堀の向こうにずらっとならぶ高石垣。言うまでも無く堅牢な守りです。
藤堂高虎イズムを勝手に感じてしまいます。

最後の最後に非常に良いものを見たあと、まっすぐ進むと最初の丑寅櫓に。
これで津城一周です。

感想

満足度 2.5/5

周辺や内部の改変っぷりはかなりのもので、さすがに街中の平城は開発の波にもまれてしまったなぁという印象です。
ただ、最後に触れた石垣は素晴らしい。内堀越しに眺めるのがいちばん魅力的な見方でしょうかね。

アクセス

津城

西高木家陣屋跡 (岐阜県大垣市) -三軒並ぶ交代寄合美濃衆の陣屋跡

西濃遠征の最後は、久しぶりに陣屋跡を訪問。

西高木家陣屋跡。西、北、東の3家からなる交代寄合美濃衆の陣屋跡です。

陣屋跡ではありますが、石垣に長屋門も残っており、遺構の残りは素晴らしい。
さらに近くに東、北家の現存建築や遺構も見られて、一粒で三度おいしいような訪問となりました。

お城:西高木家陣屋跡 岐阜県大垣市
HP:国指定史跡 西高木家陣屋跡(にしたかぎけじんやあと) | 大垣市公式ホームページ/水の都おおがき
訪問日:2022年8月

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概要

美濃南部の土豪であった高木家が、関ケ原の戦いの功により4300石を与えられて入った際の陣屋跡です。
高木家は西、北、東の3家からなり、交代寄合美濃衆として大名と同等の格式を許されました。

領地は美濃、伊勢、近江三国が接する要衝であり、上方の非常事態に備えるとともに、江戸時代を通じて木曽三川の治水業務も担いました。

陣屋は牧田川の河岸段丘上に、伊勢街道に面する形で築かれており、段丘崖に築かれた石垣や埋門、移築された長屋門が今も残ります。

訪問記

西高木家陣屋跡

大垣城からその足で、大垣市の上石津地区へ。
大垣市と言っても大垣駅前とはだいぶ雰囲気の違う、山地に挟まれた長閑な地域です。
そもそも平成の大合併で生まれた飛び地ですしね。

まずは西高木家陣屋跡に建つ、上石津郷土資料館に立ち寄り予備知識を入手します。
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名前の通り、高木家だけではなく、上石津地区の歴史全般を紹介されている訳ですが、たった100円の入館料とは思えない充実の展示内容でした。
入口にも掲げられている島津の退き口もこのあたり。
その関連の展示もなかなか興味深いものでした。もっと時間を取っておけばよかった。

もちろん西高木家陣屋跡のパンフレットも入手して、散策へ
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といっても、今いる郷土資料館がすでに上屋敷跡なのでいきなり散策開始です。

郷土資料館の正面の駐車場が下屋敷跡。この辺りは少し厳しい。
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もう一度、郷土資料館側へ。
回り込んで横から眺めると、多良中学校跡の石碑があります。
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郷土資料館ができる前、上屋敷の跡地には中学校が建っていました。
廃校にもノスタルジーを掻き立てられるところはありますが、お目当ての方にはもっと惹かれます。右端にちょこっと写るアレですね。

長屋門
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右端にちょっと写っていたアレです。
もともとは下屋敷御門だったものを移築したもの。

近くの看板の絵図をみても当時の場所とは違うのがよく分かります。
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現在地は上屋敷のど真ん中で長屋門を置くような場所ではありませんね笑

もう一つ今の測量図も。
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伊勢街道を中心に、西、北、東高木家の位置関係が分かりやすい。
そして石高の違いの通り、筆頭であった西高木家陣屋跡の規模感もよく分かります。

改めて現地を見てまわりましょう。長屋門の奥には主屋が残りますが、非公開。
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当然ドアの向こうを見えませんし、

脇から見えるアレだと思いますがこれ以上は見えません。
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明治期に新築された主屋で、一部には天保年間の建物が残るとのこと。

長屋門左手を見ていきます。と言っても、この方面は草原と森
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この先に高木家の墓所があるとのことですが、夏の森に入る勇気は出ませんでした。

西高木家陣屋跡は河岸段丘の高台に建てられています。
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眼下には伊勢街道。良い立地ということがよく分かる眺めです。

そんな伊勢街道につながる道路を降りていきます。
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早速見えるのが石垣。
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立派な石垣は高く積まれていて
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何段も重なっており非常に立派。
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実際には今とは逆にここを登って陣屋に向かったと思うと、正面にそびえる石垣には圧倒されたでしょうね。
私も最初、圧倒されました。

この右手にも石垣は残り、埋門がおかれていました。
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奥が塞がれていますが、当時はここを通って中へ入っていたのでしょうか。

夏場にも関わらず完璧に草が刈られていたので、感謝しつつ少し近づいてみました。

埋門から通路の景色
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石垣の規模感が一層よく分かります。

逆に見ると埋門がいい感じで。
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もう一度道路を下りきって、伊勢街道から北面を見上げます。
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高い所にも石垣。陣屋の敷地にはかなりの石垣が使われていたことが分かります。

伊勢街道まで下りてきましたので、お隣の陣屋へ向かいましょう。

東高木家陣屋跡・北高木家陣屋跡

伊勢街道を横切って、お隣の東高木家陣屋跡

こちらは遺構少なめですが、立派な土蔵が残ります。
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文政年間の建物と伝えられる蔵は、修復を経て今も綺麗な海鼠壁を残しています。

足元の砂利道は伊勢街道。奥へ進むと緩やかに曲がりながら下っていきます。
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石垣に挟まれた坂道がなんとも言えない良い雰囲気。
右手の石垣も東高木家陣屋跡のもの。

古さと綺麗さが備わっていて良いです。
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反対側は、北高木家陣屋跡のもの。
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北高木家陣屋跡は三家の中でも最も保存状態が悪いとされ、遺構はほぼこれだけ。
石垣も手前の方はきれいすぎる気もしますが、それでもしっかりと3つの陣屋があったことを伝えてくれています。

この先に下りたくなる興味は感じつつも、ボーボーの草に心を折られて折り返します。

振り返ると先ほどの蔵を下から見上げる構図でした。
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これ、なかなか当時に近い画なのでは。

他にも伊勢街道沿いには、江戸時代の宝暦治水の際に薩摩藩から送られたとされる日向松が残っていたり
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小学校跡があったりと興味深いものが目白押し。いくらでも散策できてしまいます。

最後は、バス停越しの西高木家陣屋の石垣と、
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陣屋跡から見下ろした伊勢街道でお別れです。
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コンパクトながら良いところでした。

感想

満足度 4/5

陣屋が三軒並ぶ珍しさ。いずれも遺構を残す珍しさ。圧倒される折り重なる石垣。
長屋門も含めて非常に興味深いところでした。
この日3か所目かつ遠征の疲れがあってもいくらでも回ってしまいました。

陣屋跡はそこまで広くはありませんが、資料館含めてしっかり時間を取って回りたいところです。

アクセス

西高木家陣屋跡

  • アクセス
    電車・バス:JR東海道線 大垣駅からバス 宮バス停下車 徒歩3分
    車:名神高速 養老SICより約15分
      名神高速 関ケ原ICより約15分
      無料駐車場あり
  • 開館時間 
     上石津郷土資料館
     開館時間:9:30~17:00
     休館日:火曜日(祝日の場合翌日)、祝日の翌日、年末年始
     入城料:大人100円、18歳以下無料
  • 陣屋跡
    散策自由
  • 所要時間
    西高木家陣屋跡だけなら0.5時間
    東、北高木家陣屋跡他を含めると~1時間
  • 付近のスポット
    近くの百名城関連ではこちら

    tmtmz.hatenablog.com近くではありませんが、こちらも遺構の残りが非常によい陣屋です。

    tmtmz.hatenablog.com

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大垣城周辺散策 -城下町に残る堀の痕跡をたどる

引き続き、大垣城の周辺を散策します。
ギリギリまで市街化してしまった大垣城ですが、探せば痕跡はあるものですね。
外堀と美濃路を巡り、かつてはこんなに広い城だったのか、と想像しながらの散策となりました。

その分、足は完全に棒になりましたが笑

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水門川

大垣城の本丸、天守を愛でたあとは、城下町大垣観光マップに従って周辺に残る名残を探しに向かいましょう。
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大垣城の記事でも触れた通り、今は本丸と二の丸付近だけが大垣公園として整備されていますが、かつての外堀が水門川として整備されています。

今回は、図中央の大垣城から北の水門川を経て、右上角の東総門から左下の西総門まで東・南半分を回ります。
東総門からは黒点線の美濃路めぐりコースをたどる形です。

まずは今の大垣城の正門、東門から少しだけ歩いて

すぐに駅正面のメインストリートへ。商店街が広がっています。
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アーケードのある立派な商店街ですが、休日昼間にもシャッターが下りたお店が多め。地方都市の現状って感じですかね。。
それでも当日はお祭りの出店が並んでいて、それなりに賑わいも感じられました。

大垣駅方面に少し歩くと、大通りは小さな川を渡ります。
これが水門川。かつての外堀です。
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写真は川沿いの歩道に降りたところ。
ミニ奥の細道と名付けられた散策路を反対に東に進んでいきます。
ちなみに、大垣は松尾芭蕉奥の細道の旅を終えた地でもあるそう。

東総門・大手門

水門川が北方向に折れていくところ、大垣城の正門から5分少々で東総門跡
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美濃路が外堀を越える所にあり、名古屋側のこちらは名古屋口門とも呼ばれました。
今はちょっとした広場になっていて、石碑があるくらいですが、本丸からこれだけ離れたところに総門があったという、かつての大垣城の規模感は感じやすいですね。

外堀のうち南方向に延びる牛屋川も細いながら残っていたりしますが、今日はそれより内側の美濃路を南下します。

マンション、ビル、戸建と完全に市街地の中を歩いて10分ほど。
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本町という由緒ありそうな地区に辿り着きました。

ここのビルに挟まれた窮屈な神社に寄り道です。
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廣嶺神社。

こちらに足を延ばしたのも、もちろん大垣城関連。ここに東口大手門がありました。
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美濃路の内側に走る堀を跨いで、本丸方向へと進む門でした。

大垣城の堀の内側、総郭には7つの門があり、そのうちこちらが東口の大手門。
東と南が大手で、まさに正門と呼べる立地、枡形を持つ厳重な門でした。

今は神社の境内となり、そもそも城に向かう道路すらなく、跡形もありませんが、周辺が大手とも呼ばれているところに名残が残ります。

2枚前の写真右手に写る細い水路は堀の跡だそうですが、わかりにくいかな。

大垣宿本陣・西総門

大手門からさらに南下。
まだまだビル街は続きますが、昭和レトロを感じられる建物が残っていました。
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このようなお店にお世話になったことはないのですが、それでも懐かしくなってしまうのはなんででしょう。
本当は脇本陣跡を探していたのに、見逃してしまったのは秘密。

美濃路の南東の角には、町道が残されていました。
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江戸と京とは、両端で分かりやすいような、遠すぎるような。
門が名古屋口門だったように名古屋でも良いような気がするのは現代人の感覚かな。

美濃路に沿ってさらに進みます。

東総門から20分ほど、周囲の建物が低くなってきたあたりに問屋場がありました。
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人馬の継立を行った問屋場があった場所です。

問屋場跡に立つ建物には大垣宿に関するたくさんの看板も掲げられていました。

その一つ「本陣のある町竹島町」の看板の通り、歩いて数分で大垣宿本陣跡に到着。
こちらは小綺麗に整備されていました。
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残っていないならこれくらいきれいにした方が観光地としては華がありますかね。

引き続き西へ。

当時のものかは分かりませんが、いかにも旧街道らしい微妙なクランクをこえると、明らかに歴史を感じる和菓子屋さんが残っていました。
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非常に年季の入った柿羊羹の看板を掲げたお店。

一見さんには扉を開ける勇気が出ませんでしたが、後で調べると1700年代創業の超老舗でした。
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現地で感じた気になる気持ちと、今感じている開ければよかったなぁ、、、という後ろ髪を惹かれる気持ちが表れた写真と共にどうぞ笑

こちらも問屋場跡の看板に書かれていた山車の倉庫を超えて
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東総門から30分、西総門 京口門跡に到着です。f:id:tmtmz:20220806212801j:image

ここで美濃路は外堀を超えて城外へ延びていました。
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こちらの写真は本丸方面を外から見たもの。今も橋が架かるところは変わりません。

入った先はあくまで町屋ではありますが、有事に備えて橋を架け二重の櫓に土塀も置かれた厳重な守りでした。
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チープに感じなくもない絵図にも二重の門が描かれています。

今もこのあたりで牛屋川と水門川が合流しています。
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狭くなってはいるんでしょうけど、かつてもこんな感じで堀に囲まれていたのかな。

水門川は舟下りもされていて、遠く舟が見えていました。
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今度はあれに乗って反対側を巡ろうかな。

近くには町道も残されています。
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こちらもやはり京みちと江戸道を知らせています。

最後は本丸方面へ少し進んで、柳口門跡を見学。
西総門を越えて、総郭につながる門でした。
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今の大垣城の正門として使われている、内柳門はここの内側にあったもの。

案内板の写真だけなのは、今は完全に大垣市役所だから。
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最後まで開発の波を感じる散策でした笑

このまま丸の内駐車場に戻って大垣城散策は終了。
大垣公園だけだと小ぢんまりした城に感じてしまう所、その大きさの一端を知られたのは良かったかな。

もう少しだけ西濃を巡ります。

こちらもどうぞ。

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大垣城がモデルの天守が建つ墨俣一夜城は近くです。

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百名城つながりで。

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続百名城 大垣城 (144・岐阜県大垣市) -地域のシンボルとなった天守へ

墨俣城に続いては大垣城へ。

街中の平城ということで開発の波にのまれた所もありますが、その分のこった天守への思いも一入というところでしょうか。
いろいろなところにコピー模擬天守が建てられていますし。

ただ、やっぱり縄張りも追いたくなってしまいますが。

お城:大垣城 岐阜県大垣市
HP:大垣城 | 大垣市公式ホームページ/水の都おおがき
訪問日:2022年8月

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概要

1535年に宮川安定、または1500年に竹腰尚綱が築いたと言われています。
この頃は牛屋城と呼ばれ、小さな城郭でした。

斎藤家、織田家による争奪戦が繰り広げられ、最終的に斎藤家が治めました。
1561年、氏家直元が全面的に改修。惣構を持つ大規模な城郭に生まれ変わります。

その後、豊臣家にも重要拠点とされ、配下の武将が入れ替わり入城します。
この間、天守が築かれるなど改修が続けられました。

関ケ原の戦いでは西軍の拠点となりますが、敗北後は包囲され、開城となります。

その後も整備は続き、1635年に入った戸田氏の居城として明治維新を迎えます。

破却を免れた天守等は旧国宝に指定されますが、空襲で焼失。
戦後、復興天守等が築かれました。

訪問記

最寄りの大垣市丸の内駐車場からスタート。
大垣城専用ではありませんが、かつての三の丸すぐ外に立地する便利な駐車場です。

目の前に広がるのは大垣城、のはずですが、どう見てもよくある都市公園
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大垣城の中心部は大垣公園として整備されていますが、本丸以外は開発が進んで堀すら少なく、かなり想像力を問われる状態です。

このまま進むには全く知識が足りませんので、まずは郷土館でお勉強から。
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大垣市全体に触れる郷土館ですが、大垣城もしっかりスペースを割かれていました。

かつて非常に立派な堀に囲まれていたことも、現代との対比もよく分かりました。
その分、どれだけ開発で失われてしまったかもよく分かりました。。。
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こちらは本丸の看板にあった縄張図をお借りしたもの

本丸と二之丸、周りを囲む堀、竹之丸あたりまでが大垣公園として整備されています。
何重もの堀に囲まれていましたが、ほとんど埋め立てられ、堀の痕跡はわずかです。

何回見ても現状とのギャップは埋めきれませんが、とりあえず、想像するだけの知識は得られたかな。

郷土館を出て、この辺が堀跡かなと考えながら本丸へ。
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都市公園の佇まいの城西広場の向こうに唐突に整備された櫓と天守が現れます。
このあたりは堀の名残すらないので、本当に唐突。

手前は戸田氏鉄公の像
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天守と合わせて、絵になります。

こちらも天守と合わせて絵になる櫓門がありますが、当時はなかったもの。
このあたりは堀があり、橋はなく、多門櫓が建っていたはずです。
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ただ、足元を除けば奥の戌亥櫓と天守の景色はこんな感じだったのかもしれませんね。

大垣城の本丸の図はこちら。
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堀も廊下橋もありませんが、一応当時に則って南の鉄門から入っていきましょう。

と言いたいところですが、鉄門は移築されており、今はありません。。。
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右の石垣は歴史を感じますが、通路といい通路沿いのグチャグチャ石垣といいなんともこれじゃない感。

人工の滝と
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金森吉次郎の像も整備されていました。
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金森さんは治水に関する地元の名士だそう。
水の都とも称される大垣ですが、水害の苦い歴史もあるようで、継承は大切ですよね。

本丸内も改変が著しく当時を想像するのは困難ですので、いまある見どころを見ていきましょう。

こちらはおあむの松
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関ヶ原の戦いの際、籠城し鉄砲玉の鋳造などに携わっていた山田去暦の娘おあむ。
彼女は落城直前に松の木に縄をかけて内堀に出て、たらい舟で脱出しました。
その時の強烈なストーリーがまとめられたおあむ物語は貴重な史料として残されており、その松とされる古木がこちらです。

なお、明らかに古木ではないこちらは3代目おあむの松。

初代は樹齢300年とも言われる古木で、それを植え継いだ2代目がいたそうですが、そちらも最近枯れてしまいました。残念。

近くには戌亥櫓が復元されています。
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天守とともに外観を戦災前のものに近づける改修がなされていて、良い雰囲気です。

となりに水の手門があって表裏をすぐ見られるのも良い笑
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こちらは当時からあった内堀につながる門です。
当時からあった門ほどひっそりとしているのはなんでなんでしょう。

出ると内堀、はなくなって普通の道路。
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本当にギリギリまで開発されています。

本丸に戻ります。戌亥櫓のすぐ裏に天守
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ただここで見たいのは足元。
見づらいですが3段目の石垣に線が刻んであります。

こちらは明治29年の大洪水でここまで水が来たことを知らせるもの。
金森さんの像とともに、水害の苦い記憶を忘れさせないものです。
にしても周囲より高い天守足元にまでくる水害とは。。。恐ろしい。

一気に本丸東側へ。

こちらは本丸北東の艮櫓
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戌亥櫓と違って、こちらは復興建築。言われてみると鉄砲狭間がチープなような

となりに見えるのは東門。いまの大垣城の正門です。
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やはり当時この場所に門はなく、あとから作られたものにはなりますが、建物自体は当時の内柳門として使われていたもの。大垣城内唯一の現存建築です。

もう一度中へ。

入ると真正面に天守
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全体像を撮りたくてうろうろしますが、夏場は木が生い茂っていて撮りづらい
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見づらいですが、これで勘弁を笑

大垣城天守は1,2層目が同じ床面積を持つ層塔型天守です。
4層の天守は珍しいものだったはずですが、このあたりでは墨俣城訪問記)や郡上八幡城の復興天守に採用されてポピュラーなものになっています。
それはそれでどうなんだろうとは思いますが。。。

中へ入りましょう。

入口でまずスタンプをゲット
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モデルは同じ構図の天守ですね。

中はもちろん大垣城の歴史に関する展示

気になったのは、関ケ原の戦いの前後で起こった杭瀬川の戦い大垣城の戦いが詳細に紹介されていたところ。
大垣城の歴史上重要なので当然かもしれませんが、ご当地の歴史を詳しく知ることができるのはありがたい。

最後は最上階からの展望
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ギリギリまで都市化していて開けた感はありませんが、

とおく関ケ原や杭瀬川に思いを馳せることができます。
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もう少しだけ、大垣城周辺を回ります。

感想

満足度 2.5/5

かなり都市化が進んでいて、本丸内も改変が著しく難しいところがありました。
当時は多くの堀に囲まれた城だったはずが今はギリギリまで街ですし、正門は全く違うところにありますし。。

天守が当時に近く改修された点は嬉しいですが、それ以外は残念な所も多くあります。
まあ、周辺の復興天守に採用されるくらいの素晴らしい天守ということで。

アクセス

大垣城

 

墨俣城 (岐阜県大垣市) -かの有名な一夜城と墨俣宿

西濃地方へ遠征。まずはいろいろな意味で有名な有名な墨俣城へ。
一夜城伝説、あらかじめ組んだ木材を流して建てた秀吉の大手柄は非常に有名ですね。

信憑性の議論も吹っ飛ぶような現地の現状ですが、周辺には興味深いスポットもチラホラ。
散策してみると良いところでした。

お城:墨俣城 岐阜県大垣市
HP:墨俣一夜城(大垣市墨俣歴史資料館) | 大垣市公式ホームページ/水の都おおがき
訪問日:2022年8

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概要

墨俣の地はもとより要衝で、斎藤氏が築いた洲俣要害がありました。
1561年、織田信長が美濃を攻め、洲俣要害を奪い、改修したことが記録されています。

1566年、豊臣秀吉がプレハブ工法を用いて一夜城を築いたとされます。
有名な伝説ではありますが、その信憑性には疑問も呈されています。

1991年、大垣城をモデルとした模擬天守を持つ歴史資料館として整備されました。

訪問記

墨俣城

犀川さくら公園の駐車場から散策スタートです。
天守目の前の橋のたもとにも数台分の駐車場はありますが、こちらも十分近いですし何より広いので、こっちの方が便利かな。

駐車場からは早速模擬天守が見えています。
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遠くからでも存在感があります。
地域おこしで作りたくなる気持ち、分からなくはない、、、かなぁ

川を利用した堀と天守、のような立地ですが、コンクリートがちがちで自然なんだか人工なんだかよく分からない景色。
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この天守が当時の墨俣城と全く違うというのは大垣市のHPにも書かれていることですし、それっぽければ良いんでしょう。
モデルとなった大垣城がすぐ近くにあるのはどうなんだろうとは思いますが。

右側に見えていた橋は太閤出世橋という名前。もちろんここでは秀吉全面推しです。
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橋の向こうが本丸、なのかな。

千成びょうたんに
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秀吉像もお出迎え。
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そのまま窮屈な立地で天守入城口に到着です。守りも何もあったもんじゃない笑
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できて30年くらいたっていますが、まだきれいすぎるかな。

中に入る前に周りも見ていきましょう。
思いを託す千成びょうたん絵馬に
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なんだかよく分からない出世の泉
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裏には一夜城の碑もありました。表にもあったような…
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当たり前ですが、遺構らしきものはありません。

天守内に入りましょう。
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内部は歴史博物館。もちろん秀吉の出世と墨俣城を絡めた展示となっています。

全面的に前野家古文書に基づいていて、潔い。論争なんて感じさせません。
また当然ながら展示されている墨俣城のイメージ図には、今いる天守はありません。
ここは何の建物なのか笑

突っ込みどころは満載ですが、全体的にはそれなりに読ませる展示でした。

最後はもちろん最上階からの眺望

大垣城方面と
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岐阜城方面
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特に岐阜城は雨でもくっきり見える近さ。
侵攻の拠点になりそうな近さであることは間違いなさそうですが、実際のところはどうだったんでしょうかね。

墨俣宿

今の墨俣城では少し歴史成分が足りませんので笑、近くまで足を延ばします。
墨俣宿東海道中山道をつなぐ脇街道であった美濃路の宿場町でした。
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石碑も置かれて少しそれっぽく整備されています。

反対側には常夜燈と本陣跡の石碑も。
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今は川の堤防になっていて本陣跡の雰囲気が全くないのがちょっともったいない。

美濃路から一本南の通りへ。
寺町と呼ばれる界隈で、その名の通り寺院がたくさん立ち並びます。

こちらは明台寺さん。
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1126年の開山。由来はさらに遡る由緒正しきお寺です。
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先へ進むと寺院に囲まれた、まさに寺町の様相に。

広専寺さんとお向かいは
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本正寺さん
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雰囲気のある山門と思ったら、墨俣宿脇本陣の門を移築したものでした。

お隣、突き当りには等覚寺さん
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さらに隣は光受寺さん
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こちらはしだれ梅がきれいだそう。8月は青々、というか鬱蒼としていました。
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どこまでも続く寺町、というほどではないにせよ、雰囲気は良いです。
墨俣城天守が無くても良い観光地では。。。

寺町を抜けて本陣の通りに戻ると、墨俣宿脇本陣
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いわゆる脇本陣の跡地に趣きある民家が建てられています。
当時の建物が濃尾地震で倒壊した後にほぼ同様の構造で再建されたもの。
さきほどの本正寺さんの山門はここにあったものが移築されたものです。

大垣市景観遺産には、(安藤家)と登録されていますが、これは代々脇本陣役を務めた西美濃三人衆、安藤守就の御子息を指しています。
今は民泊となりましたが、宿場町だけあってさすがの歴史です。

空き地や建て替えられた箇所も多いですが、ところどころ雰囲気を残すカフェなんかも残っていました。
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下の地図の通りすぐですので、墨俣城訪問の際は少し足を延ばしてみても良いのでは。

感想

満足度 2/5

作った側も再現するつもりはなかったところとは言え、現地に行くとやはりこれじゃない感を感じざるをえませんでした。
どうせやるなら城内に描かれたイメージ図に近いものにすればよかったのに、と思ってしまいますが、それはそれで一般受けしないでしょうし、あったなかった論争の火種にもなりそうではあります。

細かいことを気にしなければ、有名なエピソードのある城っぽい何か、ですし、軽く観光するにはいいところかも?

と思うと、ふるさと創生になってはいるんですかね。
今の城の立ち位置は観光地だからいいのかな。

アクセス

墨俣城

  • アクセス
    電車・バス:JR東海道本線 大垣駅または岐阜駅からバス 墨俣バス停下車 約12分
    車:名神高速 安八SICから約15分
           岐阜羽島ICから約20分
      無料駐車場あり
      橋近くにも小さな駐車場はありますが、犀川さくら公園駐車場が便利です。
  • 城跡
    開城時間:9:00~17:00(最終入館16:30)
    休城日:月曜日 祝日の翌日(土日月の場合変更) 年末年始
    入城料:一般200円、18歳以下無料
  • 所要時間
    1時間
  • 付近のスポット
    天守から見えた岐阜城はいかがでしょう。

    tmtmz.hatenablog.com

    遺構が少なく、模擬天守が目玉になっているあたり、清州城もちょっと近いかもしれません。近くの本陣跡も。ただ、こちらは歴史が明確ですね。

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続百名城 高天神城(147・静岡県掛川市)2/2-東峰の本丸へ

前回に引き続き、高天神城。今回は東峰を回ります。

全く様相が異なる一城別郭を間近に見られるのは貴重ですね。
西峰ほどの深い堀切はなくとも、断崖の上の東峰もやはり堅固な名城でした。

お城:高天神城 静岡県掛川市
HP: 高天神城跡 - 観光サイト
訪問日:2019年5月、2023年2月

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訪問記

東峰

西峰の探索から戻って二つの尾根をつなぐ井戸曲輪から再スタート。
再度、略図にご登場願います。

右側に描かれた東峰は、最高地点に築かれた本丸から御前曲輪、三の丸と並びます。
また、本丸ふもとに的場曲輪も持ちます。

的場曲輪から本丸、御前曲輪、三の丸、追手門へと逆順で進みましょう。

「現在地」から東峰に上がり、
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最初は的場曲輪から。
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虎口を抜けると、斜面に築かれた曲輪に出ました。
西峰で見てきた曲輪たちと比べて横に広がりを持っており、そもそも尾根上ではない立地も含めて西峰の曲輪とは全く異なる様相です。

的場曲輪、という名前から弓矢の練習をしていたとも言われます。
また、発掘調査では砂利を敷き詰めていたことが確認されており、重いものか、弾薬のような湿気対策が必要なものを置いていたのでは、と言われています。

的場曲輪の奥からは本丸に上る通路と、もう一つ下る通路があります。
下から進むと突き当りには大河内石窟
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徳川方の軍監だった大河内政局は、武田勝頼による侵攻の際、降伏に反対したため城主小笠原長忠により幽閉されました。

そのまま7年後の高天神城奪還まで耐え忍び、救出されます。
その忠義に対して家康は恩賞を与えたとされます。
その間、密かに世話をしていたのが、この戦いで辛くも城を脱出した横田尹松でした。

石窟で7年過ごした大河内政局は歩けなくなっていたとされます。
そこまでしても敵方に降らない忠義、驚きです。

石窟から戻って、もう一方の道を進むと本丸につながります。
ただ搦手のような方向から入るのもなんなので、一度戻って大手に近い側の虎口から。
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左手が本丸、右手は本丸と尾根続きの御前曲輪に続きます。

さすがは本丸と思える深い深い虎口。こっちから入ってよかった。
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このあたりも西峰とは違う様相です。

本丸全景
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的場曲輪と同様に、西峰の曲輪群とは異なりある程度の広さを持つ曲輪です。
居住スペースにも使われていたんだろうなと思わせる広さ。

細部を見ると、的場曲輪のある西側には低いながらも土塁が残り、
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東側は土塁はありませんが断崖絶壁です。
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的場曲輪から続く側にも低くなってはいますが土塁と虎口が見られます。
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堀こそありませんが、断崖を生かした守りであったことが窺い知れます。

南隣の御前曲輪へ
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本丸と高さはほぼ同じ、土塁と虎口で仕切られています。

御前曲輪に入る前に、高天神六砦の一つ、火ヶ峰砦を望むことができます。
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望むことができるというか、見えてしまうというか。
劣勢に立たされていく絶望のほんの一端を感じられるような気がします。

感傷に浸りつつ、振り返って御前曲輪を眺めます。
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急にポップになりました笑

大東町が設置した顔出しパネル、置くなら本丸ではと思いますが、奥に見える地元の方が作られた戦前の模擬天守跡のコンクリ足場とともに御前曲輪に鎮座されています。
本丸を避けるのは戦前も今も共通なんですかね。遠慮なのかな。

御前曲輪にはもう一つ、元天神社もあります。
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西の丸で見た高天神社はもともとここにあったそう。本丸至近ですし、納得です。

元天神社脇の虎口から通路に戻り、
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三の丸
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本丸、御前曲輪の南、一段下がった立地です。
三の丸は小笠原与左衛門清有が守ったことから与左衛門平とも呼ばれます。

外周はぐるっと土塁に囲まれています。
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追手門にほど近い比較的広い曲輪、かつ本丸、御前曲輪の直下ですし、防御も重視されていたのでしょう。

このまま追手門へ下ります。
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もう一つ下の曲輪には着到櫓
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その名の通り敵の襲来を見張りました。

狭い曲輪ですが当然眺めはよく
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また高い土塁にも守られています。
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これを越える高さの櫓があったのかな。

さらに下りると追手門
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と言っても看板はあれど、どこがそれかはちょっとわかりません。。

そのまま駐車場へ。f:id:tmtmz:20230223213934j:image
大手にあたりますが今は完全に裏口。
駐車場も看板もありますが、人は明らかに少ないですね。

大通りには立派な看板がありますが、
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最後の交差点はこのレベルですので、追手門から行かれる方は予習必須です。
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感想

満足度 4/5

堀がすばらしい西峰と典型的な山城が残る東峰
武田と徳川の歴史や攻城戦の工夫も垣間見えて一粒で二度おいしいような、一城別郭の名城でした。

山城ですがアクセスも容易で、一般の方もたくさん訪問されていました
よく整備して下さった旧大東町の方に感謝です。

アクセス

高天神城

  • アクセス
    電車・バス:JR東海道線 掛川駅からバス 土方バス停下車徒歩15分
    車:東名高速掛川ICより約15分
      無料駐車場あり
  • スタンプ・開館時間 
     大東北公民館
     開館時間:9:00~17:00
     休館日:月曜日、年末年始
     アクセス:
      電車・バス:JR掛川駅からバス 大東北公民館 下車すぐ
     (土方の一つ掛川駅よりのバス停です。)
      車:東名高速 掛川ICより約15分
        無料駐車場あり
    掛川観光協会ビジターセンター「旅のスイッチ」
     開館時間:9:00~17:00
     休館日:年末年始
     アクセス:JR掛川駅南口構内
    掛川南部観光案内処
     開館時間:9:00~16:00
     休館日:水・木曜日、年末年始
    アクセス:電車・バス:JR袋井駅からバス 西田町 下車すぐ
      車:東名高速 掛川ICより約30分
        無料駐車場あり
  • 城跡
    散策自由
  • 所要時間
    ~1.5時間
  • 付近のスポット
    近くの百名城はやはり掛川城

    tmtmz.hatenablog.com高天神城攻め関連で。

    tmtmz.hatenablog.comこちらも高天神城絡みの名城です。

    tmtmz.hatenablog.com時代は異なりますが、良いところでした。

    tmtmz.hatenablog.com

     

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