にわかお城ファンの旅行記

にわか城好きの歴史探訪記

周りに影響されて城巡りを始めました。百名城スタンプ目当てだったのに気がついたら沼にハマっていました。

田原城 (愛知県田原市) -復元された門と街中に残る崋山の名残

三河地方は渥美半島の付け根、田原市にある原城へ。

かつて渥美半島に力を持っていた戸田氏が築いた城郭は、復興建築を携えつつ、遺構も残った城址公園となっています。
綺麗に整備されていて散策している方もいて、地元の愛着を感じる城跡でした。

お城:田原城 愛知県田原市
HP:田原城跡 | 観光スポット・観る | 渥美半島だより【渥美半島観光ビューロー公式サイト】
訪問日:2021年10月

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概要

1480年ごろ、戸田宗光が渥美半島統一の拠点として築きました。

戸田氏は、今川氏、織田氏松平氏に囲まれる中、服従、反抗を繰り返して生き残りを図りましたが、1550年ごろ今川氏に攻撃され、落城します。

桶狭間の戦いの後、徳川(松平)家康が攻略、家康の関東移封の後は、秀吉の家臣、吉田城主の池田輝政重臣筆頭、伊木忠次が城主となります。

江戸時代に戸田氏が城主に戻りますが、1664年に三宅氏に交代、明治維新に至ります。

かつては海に面しており、形状が巴文の形に似ていたことから巴江城とも呼ばれます。

訪問記

原城田原市博物館の無料駐車場をお借りしてスタート。
そのまま行くと田原城の見学からとなりますが、周辺の名残も見てみたいところ。

ちょうど地図の中心に書かれた惣門跡から見ていきましょう。
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惣門跡-田原市報民倉

大手通りに沿って、離れる方向に歩みを進めること5分ほど。

復元建物に目が行きがちですが、年季の入った石垣も見えるこのあたりが惣門跡。
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原城の総構の門がこのあたりにありました。
東側の総構えの石垣が残るのみ、とのことなので、年季の入った石垣がそれなのでは。

石垣につながるような土塁もありましたが、これは違うのかな。
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建物も見てみましょう。田原市報民倉 いわゆる備蓄倉庫です。
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このネーミングはかつての田原藩の備蓄倉庫に由来します。

1835年、田原藩渡辺崋山の指導で、飢饉に備えた備蓄倉庫、報民倉を作りました。
これは、身分・年齢・性別を超えた事業であったとされます。

1836, 7年に天保の飢饉が発生しますが、田原藩は餓死者、流出者を出しませんでした
この結果、幕府からも表彰を受けたそうです。

備蓄倉庫自体は現代では常識ですが、歴史を現代に伝えるネーミングは良いですね。
ちなみに、実際の報民倉はもっと城よりにあったそう。まぁそのあたりはご愛嬌かな。

大手通りを通って、中心に向かいます。

歴史を感じる枡形から
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真っすぐ伸びる大手通りを進みます。
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大手通り左手には小学校があります。この位置にかつては藩校成章館がありました。
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同じ場所に学校を置く。この辺の歴史を継承する感じもなんだか嬉しいですね。
近くには、こちらは名前を受け継いだ愛知県立成章高校も。少し前に甲子園に出ていましたね。

原城 -桜門・二ノ丸櫓

改めて田原城を見学

最初に縄張りを確認しましょう。
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本丸の周囲、南に二ノ丸や三ノ丸、北に藤田曲輪など複数の曲輪を置き、さらに堀に囲まれた縄張りでした。
今は周囲は住宅街になっていますが、当時は海に面した城でした。

このうち、本丸、二ノ丸、三ノ丸と周囲の空堀、南2つの池が残っています。

今回は南から北上するので、最初の遺構は南側の水堀。東側は袖池
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古そうな野面の石垣と土橋。ここの石垣が田原城で最古のもの

チラッと門も見えていますが、まずはもう一方の水堀へ。
メインディッシュは後に残すタイプなので。

池という名前ですが、大きくて奥が見切れているので大きな水堀のような印象
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狭間の入った土壁も復元されていて、良い雰囲気です。

こちらは反対の枡池
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こっちは小さいので、まんま池ですね。

城内に入りましょう。今の田原城のシンボル桜門。いわゆる大手門です。
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イチョウが立派すぎてあんまり見えない。。。平城なのに冬が時期なんて。

気を取り直してもう一度
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かなり豪勢な門。
作り物感を感じなくもないですが、復興でも建物があるとないとで雰囲気は違うので良いんじゃないかな。
ただ、当時の姿が気になるなぁ。

門をくぐって右手には三ノ丸
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ほどほどの広さを持つ曲輪は、今は護国神社となっています。

もう一度通路に戻ります。
二ノ丸の入り口に古い石垣。

そして復元された建物 二ノ丸櫓が置かれています。
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実際には桜門をくぐってすぐに見えて、一番高い建物。象徴だったのでしょう。
今は木がすごくて写真映えしないんですけど笑

今の二ノ丸櫓は、古写真とは様相も違い、錆も見えて、見た目はイマイチですが、中は無料で見学できて、模型もあって寄ったほうが良いところですよ。

二ノ丸には、田原市歴史博物館が建っていて雰囲気はなし。
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原城の展示が見られるかと思ったら、渡辺崋山と芸術の企画展中心でした。意外。

本丸へ向けてだいぶ太いですが、土橋を通って進みます。

三ノ丸北側には立派な空堀が残っています。
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二ノ丸側も同様に深い空堀
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今は駐車場につながっていて簡単な冠木門がありますが、当時は三の丸側と同様に水堀につながっていました。

階段になっているので降りてみます。
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堀を降りたところには井戸
水堀から続く空堀なので水は得やすそうですが、雨の時は大丈夫だったのでしょうか。

堀底から1枚
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深さ、登れなさがよく分かります。

あと、この階段から本丸石垣がよく見学できます。
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このあたり袖池石垣とともに田原城の遺構で一二を争う見どころじゃないかな。

本丸・巴江神社

御殿が建っていた本丸は巴江神社となっています。
枡形があったようですが、分からなかったな。f:id:tmtmz:20211016222725j:image

まずはお参りしてから見学
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一見大きな神社に見えますが、周りをよく見ると、f:id:tmtmz:20211016222622j:image

土塁に囲まれています。
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このあたりが分かりやすいかな
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さらに北側まで行ってみましたが、道路になっている藤田曲輪との間の堀は見えず。
もう一度本丸から堀を通って、田原城見学終了です。

感想

満足度 3/5

象徴となっている桜門や二ノ丸櫓は見栄えはしますよね。
当時の姿と違う所はありますが、そういう成分は石垣や空堀で補充できますし。

それなりに歴史を大切にされている感のある周辺散策も良いものでした。
その割に二ノ丸櫓はなんで全く違う形にしちゃったかな笑

アクセス

原城

  • アクセス
    電車:豊橋鉄道 三河田原駅より徒歩15分
    車:東名高速 豊川ICより約60分 
        または浜松ICより約80分
      無料駐車場あり
  • 城跡
    散策自由
    城内の田原市博物館の開館時間は以下の通り
    田原市博物館HP
    開館時間:9:00~17:00(最終入館16:30)
    休館日:月曜日(祝日の場合、翌日)、年末年始(12/28-1/4)
    入館料:大人310円、小中学生150円
  • 所要時間
    ~0.5時間
    周辺も散策する場合、1時間程度
  • 付近のスポット
    豊橋市中心部の続百名城、吉田城

    tmtmz.hatenablog.com以前、伊勢湾一周旅行をしたこともありました。

    tmtmz.hatenablog.com


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守山城(静岡県伊豆の国市)-堀越御所の詰城、願成就院と合わせて回る

守山中世史跡群散策の後編は、守山城成就院守山八幡宮へ。
前編はこちら

tmtmz.hatenablog.com

守山城は案内がなく遺構を見つける目が必要な城跡でしたが、眺めは良かった。
遺構を探しすぎて、願成就院をちゃんと見る時間が無くなってしまいました。失敗。

お城:守山城 静岡県伊豆の国市
HP:公式のものは見つけられませんでした。
訪問日:2021年9月

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概要

1458年に鎌倉公方として派遣されながらも鎌倉入りできず、堀越御所に館を構えた足利政知が、詰めの城として築いたとされます。

堀越公方足利茶々丸の頃、伊勢宗瑞に攻められ滅亡します。

宗瑞は近くに韮山城訪問記)を築き、守山城は支城として改修されたと考えられます。

その後、秀吉の小田原攻めでの韮山城包囲でも陣城として利用したとされます。

訪問記

北条氏邸のそばにある登り口からスタート
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現在は守山自然公園となっていて、入口には城の案内はありません。

整備されたハイキングコースを進むと
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広い平場
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明らかに削平地ですが、いつの頃のものでしょうか。
誰かの屋敷でもあった曲輪なのか、最近削られたものか。

ここを過ぎると急な階段
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嫌になるくらいの階段が続きます。。。
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登ること5分弱。結構無理やりな登り道を乗り越えて、ようやく尾根筋に出ました。

尾根筋も整備は行き届いていますが、案内はなし。
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大河に合わせた旗は立っているんですけどね。義時でいいのかなここ。
写真の場所のように、少し広がる曲輪らしき場所はあるのですが、自信もてません。。

と思っている内に山頂の展望広場に到着。

ここも広がっているので曲輪だと思いますが、今は展望台が、どーん。
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城跡としては何も分かりませんが、ハイキングコースとしては良い。

この眺めがありますから。
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東側の眺め。正面の山並みに韮山城もあります。

北西側
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すぐそばを流れる狩野川との位置関係が分かりやすい。
富士山も見えそうな距離ですが、この雲では仕方ない。

さて、ここから東側へ降りていきます。

すぐに現れたのが堀切
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今は階段でアップダウンになっていますが、明確に尾根筋を切っています。
初めて自信の持てる遺構が見られました笑

堀切両端はそのまま竪堀にもなっていそうな様子
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階段の段数で高さのイメージがつかめるはず。きっと。

先にもう1本堀切
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木橋がかかっていますが、もちろんこれは後から作られたもの 言う必要ないか笑
階段ではなく橋が架かるくらいしっかりと鋭さが残った堀切でした。

同じ場所ですが、
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高さの分かるアングルを探して。
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しっかりと深いことが分かるような。

というようなところが守山城で素人目にも分かる遺構でした。

最後は東側へ
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看板は立ってますが開けた場所ではないので、こっちから登るのは見つけにくいかも

成就院

駐車場に戻る前にもう少し寄り道
北条時政が1189年、源頼朝の平泉攻め成功を祈願して作った北条氏の氏寺、成就院
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石碑から山門までの距離感に往時の境内の広さを感じる気がします。
時政の死後も義時、泰時によってさらに伽藍が整えられたことも分かっており、当時はあたり一帯に広がる大寺院でした。

しっかりと大河をアピール
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まさにゆかりの地ですし、今は賑わっていることでしょう。

現在の山門脇にひっそりと広がる広場に成就院の石碑
当時の願成就院は、現在住宅街となっている部分を含めてあたり一帯に広がり、大きな池の周囲にお堂や塔が立ち並ぶ、臨池伽藍という様式だったということが分かっています。
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ただ、現在の姿は守山地区の遺構の御多分に漏れず、ここもちょっとした公園の装い。
説明はありますが、ちょっと想像しづらい。。。

成就院は、足利茶々丸が伊勢宗瑞による攻撃を受けた際に戦火に遭い、豊臣秀吉の小田原攻めにおいても大きな被害を受けました。
今の姿は、江戸時代に北条氏の末裔、北条氏貞が再建したものです。

改めて今の願成就院へ。f:id:tmtmz:20210925213650j:image
16:00までの拝観時間ぎりぎり、最終受付は過ぎていたので、迷惑にならない範囲で駆け足で見ていきます。

もちろん最初に参拝。
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この大御堂には、運慶作の仏像5体を含む7体の仏像と仏像胎内造像銘札4枚が安置されています。もっと早い時間に行けばよかった。見たかった。。

茅葺屋根の建物は本堂

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1789年の建立です。

境内には北条時政墓所が置かれています。
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また、伊勢宗瑞による攻撃に際して逃げ込んで自刃したとも伝わる足利茶々丸墓所もありました。

今は小さな寺院ですが、戦火を乗り越えて伝わる運慶の仏像や当時の遺構から、北条氏との縁や当時の権力の香りが少し伝わる気がする場所でした。

守山八幡宮

最後は願成就院近く。守山の山腹に位置する守山八幡宮へ。
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かつて大きな権力を持った願成就院の近くにある社ですが、その歴史はさらに古いもの。

鳥居脇には、源頼朝挙兵の地の石板が置かれています。
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1180年、源頼朝は守山八幡宮に平家追討を祈願して、挙兵しました。

鳥居をくぐってすぐに舞殿が置かれ、
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その奥、長い階段の上に本殿が置かれています。
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ただ、暗くなり始めていたので階段はパスで。。。ごめんなさい。

最後尻切れになってしまいましたが、さまざまな時代の歴史を感じてお腹いっぱいの見学になりました。
ほぼ人がいなかったのは寂しくもありましたが、静かに歴史を感じられたのは良かった。

感想

満足度 2/5

様々な歴史が交錯する地で、周辺も合わせてめぐると見どころが多くてとても楽しめます。

が、城跡としては説明が全くないので上級者向けかも。
遺構は残っていますし、展望台からの眺めは素晴らしいので、もったいないような。

せっかく旗を立てるなら看板を置いていただけると。。。

アクセス

守山城
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守山中世史跡群 (静岡県伊豆の国市) -堀越御所、北条政子産湯の井戸、北条氏邸

韮山城の後は、近くの守山地区守山中世史跡群を散策

後北条氏韮山城の近くですが、こちらは大河で話題の鎌倉北条氏ゆかりの地です。

馴染みの無いよそ者も、頼朝・政子ロマンの路の案内で大いに興味を惹かれました。
訪問時は大河前で誰もいなかったものの、大河中はきっと賑やかでしょう。

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江川邸で見かけた看板に惹かれて訪問。
下調べは下の地図1に駐車場があることだけ。

現地の看板に倣って、駐車場を起点に反時計回りに散策しました。

1. 北条の里駐車場 2. 光照寺 3. 伝堀越御所跡 4. 伝北条政子産湯の井戸 5. 北条氏邸跡

前もって知ってから回ればよかったなぁと思うくらいたくさんの史跡。

戦国の韮山城、幕末の江川英龍反射炉と合わせて、歴史豊かな地です。本当に。
今回訪問したうちの堀越御所は室町の史跡ですし。

前編では水色をご紹介です。

光照寺

駐車場に車を停めて最初にあるのが光照寺
周辺にも中世寺院群が立ち並んでおり、この地の歴史の深さを感じさせます。

今も観光地化はしておらず、いわゆる地域のお寺。

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山門は赤くて派手な印象も持ちますが、

中はいたって静かなお寺。
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お邪魔している身分ですので、静かにお参りしたら次に向かいます。

説明板も見つけられませんでしたが、北条時政が建築した成就院の支院だったそう。
その昔は、源頼朝の宿館だったと推定されています。

近くの願成就院は、最後に訪問しました。次の回になるかな。

伝堀越御所

次に見えたのは伝堀越御所 すこし時代が下って、室町の史跡です。
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今はただの公園。。
当日も小学生がキャッチボールしていて、看板が無ければスルーしてしまう所でした。
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看板によると、将来的に史跡公園にしていく予定はあるようです。
発掘調査も済んでいるのに伝が外れないのは決めてが無いのでしょうか。

見た目が草原の分?看板は多め。
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庭園の池や区画の様子はわかっているものの、建物はまだわかっていないよう。
月並みですが、見つかってほしい。

このあたりの歴史に疎かったので後で調べた簡単な歴史です。自分の勉強メモですね。

足利幕府が関東支配のために設置した鎌倉公方
享徳の乱により古河に移った5代目鎌倉公方足利成氏への対抗として室町幕府が派遣した足利政知鎌倉に入れず築いた御所が堀越御所でした。

堀越公方前後の歴史も壮絶で調べるとキリがありませんが、詳しい人に任せるとして。
政知の後継、足利茶々丸の時、伊勢宗瑞が堀越御所を攻めて堀越公方を滅ぼし、韮山城を本拠地として伊豆統治につなげたと思うと、韮山城と合わせて回る気持ちもまた変わりそうな気がしませんか。

北条政子産湯の井戸

伝堀越御所の向かいにあるのが北条政子産湯の井戸の石碑
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石碑があるということは右手の道の奥に井戸もあるわけです。
景色は普通の住宅街の路地ですが。結構遠くて不安になる距離ですが。

自分を信じて家々の前を抜けると、突き当たりの民家の前にありました。
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北条政子産湯の井戸

先ほどの堀越御所もその昔は北条氏の屋敷跡だったと考えられています。
本当に昔から脈々とかさなる歴史を感じられます。

伝ではありますが、かつては妊婦さんがこの井戸の水を飲んで安産祈願する習わしがあったそう。
地域の方にはなじみ深い井戸なんでしょうね。

北条氏邸 (円成寺跡)

産湯の井戸から少し進んで、狩野川沿いに進むと北条氏邸(円成寺跡)に到着。

その名の通り、鎌倉北条氏の館と、すぐそばに鎌倉幕府滅亡後に北条氏の菩提を弔うために建立された円成寺の遺跡です。
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と言っても、ここもやはり本格的な整備はまだ。
令和3年の春から暫定的な公開が開始された、出来立てほやほやの施設です。

真っ白な見学用通路を進むと、突き当たりが見学場所。

そして周りは、
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原っぱ。

…ではないんです!

当時の様子をイメージできる透明パネルが置かれています。
パネルの赤丸と現地に置かれた杭を重ねるといい感じに当時の様子が浮かぶという代物
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写真では民家と被って分かりにくいですが、現地ではもう少し分かりやすかったはず。
透明パネルは初めてみましたが、できる範囲で簡便に整備されていて好印象。

ちなみに、こちらは北条氏邸側

ちょうど鎌倉幕府成立前後、12世紀末から13世紀初めにかけての掘立柱建物や塀、井戸など、現地で見つかった遺構のイメージが分かるパネルでした。

もう一枚違う方向にもパネル
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こちらは円成寺
円成寺のお堂と考えられる礎石建物と池の跡、大量の出土品が見つかっており、そのイメージがパネルに描かれています。

1333年、鎌倉幕府の滅亡後、戻った北条高時の母、円成尼(えんじょうに)北条氏の菩提を弔うために北条邸跡に建てたのが円成寺でした。
今は跡地ですが、江戸時代までは尼寺として続いていたことが分かっています。

鎌倉幕府樹立に向かう華々しい時代を過ごした地に、幕府滅亡後に帰ってきた円成尼の気持ちを考えると少し切ない気持ちになりました。

さて、守山地区の散策はまだまだ続きます。次回は名前の通り、守山へ。
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後北条氏ゆかりの韮山城

tmtmz.hatenablog.com

こちらも近くの江川邸はいかがでしょう。

tmtmz.hatenablog.com

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江川邸 (静岡県伊豆の国市) -代々続く代官屋敷を巡る

韮山城に引き続き、お隣の江川邸を見学。

家主の江川氏は、韮山城が北条の拠点だった頃も、江戸時代もこの地の有力者でした。
江戸時代から続く広大な屋敷はもちろん、36代英龍の偉業の数々も含めて、解説を聞きながら回れて良かった。

というようなことを、現地で初めて知りましたが、語りたくなる偉人ゆかりの地です。

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概要

江川邸は、平安時代末期より移り住み、江戸時代には代官を務めた江川氏の住宅です。
室町時代に築いた部分と江戸時代に修築された部分を含む主屋やその周辺を含めて、国指定重要文化財です。

余談ですが、江川家は保元の乱の後この地に移ったとされ、伊勢宗瑞の伊豆進出に際しても土地を提供して韮山城を築かせ、しばらくは北条氏の家臣となっています。
また、当主は代々江川太郎左衛門を名乗る風習がありました。

訪問記

韮山城訪問からその足で訪問です。

ここまでの道中、公的な道路標識にも名前が書かれていて、由緒があることは分かったのですが、失礼ながら存じ上げず。
駐車場を借りたし訪問しないのも悪いか、という程度で、何も知らずの訪問でした。

邸宅周囲の堀を越えると個人宅とは思えない枡形になった広い広い広場がありました。
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この写真正面の門は表門。右手の芝生が枡形の広場です。

代官が外出する際、人数を揃える場所や、幕末には農兵の訓練場に使われたそう。
そういわれても不思議でないくらいに広かった。

そして、ここで36代江川英龍さんの偉業その1を知ることになります。

日本で初めて西洋式軍隊を作ったとされる英龍が(これも凄いですが)訓練で用いた号令が「右向け右」「気を付け、前へならえ」でした。
当時の西洋式軍事訓練におけるオランダ語の号令を英龍が訳してもらったもの。

ぴったりの翻訳をした人もすごいですが、今も残るほど定着させた英達さんもすごい。

枡形奥には表門
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1696年に作られた薬医門です。
歴史を感じる立派な門を抜けて邸内へ。

早速主屋が見えてきました。
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銅板葺きの緑青の屋根が美しい。
かつては茅葺でした。その姿もさぞ立派だったことでしょう。

さすがに今もここからは入れないので、裏へ回っていきます。

道中、梅林を抜けます。梅林がかつて代官役所があった場所。

裏から主屋へ。
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入ると早速広い土間
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広さもそうですが、特徴的な天井の骨組みに目を奪われます。
天井板が無いため、屋根裏をそのままみられる構造です。

不勉強だった私でも気づくぐらいなので、これは本当にすごいのです笑
外からの光が入るため、広い土間でも十分に明るいのも特徴的でした。

立体感を感じるアングル、のつもり
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あと、土間の片隅には釜戸に大砲!
さすがは古くから続く名家です。

でも、唯一説明があったのは、これらではなく、こちら。

パン焼き窯です。
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1842年4月12日に日本で初めてパンを焼いた窯に使われていた石の一部で復元。

これが英龍の偉業2つ目です。

英龍は日本で初めて兵糧としてのパンを焼いた偉業からパンの祖と呼ばれています。
軍事上、保存がきく観点からパン着目したもので、硬いものでした。

主屋内に展示されていたのが、そのパン祖のパン 響きが良い笑
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堅パンかクッキーのような見た目。
堅そうですが、美味しそう。きっと。
現代なら甘くするでしょうけど、甘くは無いんだろうなぁ。

土間から主屋内部へ。
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中は江川家の歴史、英龍の偉業の紹介がたくさん。

そこで紹介されていたのが、世界遺産韮山反射炉続百名城品川台場の建築。
いずれも英龍が指揮して建設されました。
幕末の動乱期、海防に関心を抱き、日本に西洋砲術を普及させた英龍による偉業です。

あと、種痘もオランダから導入し、推進していたという英龍

もはやスーパーマンすぎて、もう分かりません。何か大事な他の偉業を忘れていそう。

江川家も平安時代から代々続く名家ですから、古い品々がたくさん並んでいました。
高札も普通にその辺にありますし、囲炉裏もあります。
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幕末には主屋では砲術を習う韮山も開かれていました。
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この机で勉強していた、のでしょうかね。この韮山も英龍の偉業の一つです。
邸内の江川家略史の英龍の欄だけ業績が多すぎて別書になっていたのが少し面白かった

主屋を出て、周辺を見て回ります。
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改めて緑青が映えます。

西蔵
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正面から見ると将棋の駒のように見えることから駒蔵とも呼ばれました。
四方の壁が少し内側に傾いた四方転びという技法で作られていたり、軒の屋根が伊豆石で葺かれていたりとかなり特徴的

隣にも米蔵が二軒建っていましたが、こちらは説明なし
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西蔵に特徴的な部分が偏りすぎじゃないかな笑

井戸や
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パン祖の碑
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武器庫もありますが、
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見どころは裏門
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1823年築。ですが、門扉は小田原攻めの際の頃から使われているとされます。

門扉にたくさんの穴が開いていますが、これが鉄砲や矢の跡とされます。
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隣に韮山城も直ぐ近くに江川砦もありますし、ない話ではないでしょう。

もう少し時代が下った話では老中の方がここから見える富士山に感動したとされます。
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見えませんでしたが…

という裏門を見て江川邸終了
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韮山と言えば反射炉と思わせて、ちょっと流行に乗ってきます。

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韮山城 (静岡県伊豆の国市) -後北条氏最初の城 本城を巡る

伊豆半島付け根の韮山城へ。後北条氏の祖、伊勢宗瑞のお城です。

公園そばですれ違う人も多い平山城ですが、一歩入ると別世界。
遺構もはっきり残っており、人気もうかがえる良いお城でした。

お城:韮山城 静岡県伊豆の国市
HP:伊豆の国市/韮山城跡
訪問日:2021年9月

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概要

築城年は明確ではありませんが、1493年、伊豆に侵攻した伊勢宗瑞 (北条早雲) が本格的に整備しました。
宗瑞は、韮山城を拠点に領土を広げ、終生韮山城を居城としました。

北条氏綱の頃、本拠地は小田原城に移り、伊豆支配と西側防御の拠点となりました。

1590年、豊臣秀吉小田原攻めにおいて秀吉軍の猛攻撃にあいます。
7万とも言われる大軍に囲まれ半日で落城した山中城訪問記)と同様に、韮山城4万4千の大軍に囲まれますが、わずか3600人で3ヶ月間抵抗を続けたことが知られます。

その後、徳川家康配下の内藤信成が入り、1601年の信成移封により廃城となりました。

訪問記

このブログ初めての伊豆の城へ。
静岡県民でも私の家から伊豆は遠いので小旅行気分です。

江川邸の駐車場をお借りして、歩いてすぐに東に隣接する城池へ。
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城跡につながる気がしない穏やかな公園の池ですが、こちらも韮山城の水堀の名残
住宅街の山の上にある今は想像しづらいですが、韮山城は水堀に囲まれる城でした。

公園ムードの中、突如始まる案内板。
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今まで見た案内板で一番テカテカ笑

縄張り図を拡大。
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これでも角度を変えてチャレンジしたのですが、見にくい。。

拙い言葉でフォローすると、黄緑と水色が曲輪、緑が尾根。
北から三ノ丸、権現曲輪、二ノ丸、本丸、伝塩蔵尾根上に一直線に並ぶ平山城です。

それでは最北の三の丸と権現曲輪の間の堀を通って城内へ侵入。
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散策路はしっかり、一応看板もセットされていて気軽に歩けます。
最初の登りはちょっとだけ、ですし。

そして早速深い堀。
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いやー深い。
曲がって先が見えないところを思うと、当時から虎口として使われていたのかな。
長閑な公園から突然土に囲まれて別世界に入る落差も良いです。

三ノ丸に入る前に振り返って一枚。
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まさに虎口ですね。枡形っぽくなっているような。

上に見える建物は、南隣の権現曲輪に立つ熊野権現
建物は違えど、当時もこうやって櫓か何かが見張っていたのでしょう。

改めて三ノ丸。一見ただのテニスコートですが、
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東側には大きな土塁。
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防御性の高いテニスコートです笑

南側の土塁も
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西側虎口の土塁と堀もしっかり。
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この先は韮山高校へつながります。

南隣は権現曲輪
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こちらの土塁、虎口も、若干の改変を受けつつも、やはりよく残っています。
ずっとそうですが、高低差がたくさんあるので、想像しやすくて良い。

権現曲輪には、先ほどの熊野権現社が建てられています。
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まずは一段上がったところのお社へお参り。
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ここが尾根筋東端で、最初に入った虎口を見下ろす場所にあたります。

権現曲輪の全景。
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天気が良すぎて見にくい。。
苔むした曲輪には、全体を囲う土塁がよく残っています。

二ノ丸へ。
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ここから少し登りが始まります。

と、その前にもう1枚 振り返って権現曲輪
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全景がちょっとは見やすく、ならないか。

こちらは権現曲輪と二の丸の間の堀
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こちらも深い。
やはり曲がっていて、虎口として使われていたのかなと思わせる構造です。

頑張って登って二ノ丸に到着
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旗に隠れちゃっていますが、ちゃんと曲輪の名前は書かれてますのでご安心を。

二ノ丸全景。
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狭めです。低くなっていますが、こちらも土塁がしっかりと残っています。
ここは全景が見えて良かった笑

振り返ってもう一枚。
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水堀で囲っていたとはいえ、この狭いスペースにどうやって3ヶ月籠城したのだろう。

本丸へ
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最後まで足場がしっかりでよかった。

本丸と二ノ丸の間にもしっかりと堀。
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ここの土橋はまさに山城のそれでした。
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良い感じ。

そして本丸まで最後の階段
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もうひと頑張りで本丸に到着。
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こちらもやはり狭め。籠城は下が中心だったのでしょうか。

登ったご褒美の眺望を堪能します。
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やはりよく見えます。

そして東側
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こちらに豊臣軍の陣城がたくさん残っています。
これだけ見えると、怖いよなぁ。。

最後、本丸から南につながる伝塩蔵

土橋を通って、
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土塁の奧の平場がそれ。
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立ち入り禁止看板がありますし、そもそもどこから降りるのか分かりませんでしたが、本丸からすぐに行ける窪地と思うと、塩蔵というのはうなづける気が。
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最後まで本当に土塁がしっかり残っています。

ちなみに、韮山城の周辺には豊臣軍の陣城に加えて、韮山城の防衛を担った砦もたくさん残っています。
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それらを案内する看板も本丸に置かれています。
市のHPには注意事項も書かれていますが、諸々条件が整ったら行ってみたいところ

感想

満足度 3.5/5

しっかりとした堀と土塁の残り具合が良いです。
城の形状がとてもよく分かり、想像が広がりました。
素晴らしい眺望からも、この場所を拠点にした理由が分かる気がします。

公園からすぐにのアクセスもあり、大河ドラマ前でも何人も人が訪れていました。
将来有望な?小さな子たちも来ていて、微笑ましく散策できました。

アクセス

韮山城

  • アクセス
    電車:伊豆箱根鉄道 韮山駅より徒歩20分
    車:伊豆縦貫道 大場函南ICより約10分
      無料駐車場あり
      城池親水公園、江川邸の駐車場を利用可能です。
  • 城跡
    散策自由
  • 所要時間
    ~0.5時間
  • 付近のスポット
    伊勢宗瑞の居城、興国寺城が近くです。

    tmtmz.hatenablog.com

    もちろん山中城も。

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持船城 (静岡市駿河区) -水軍の拠点は昔も今も交通の要衝

静岡市南西部、用宗地区にある駅前のお城、持船城へ。

日本坂の街道と海を眺める立地にある持船城は、かつて今川、武田水軍の拠点でした。

今は東海道の交通の大動脈を眺める静かな展望台になっています。

お城:持船城 静岡市駿河区
HP:自治体のHPはありません。
訪問日:2021年10月

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概要

築城年代は不明です。
今川氏の頃は関口親永らが城主を務め、水軍の拠点かつ駿府の西の守りとされました。

1568年、武田信玄に攻められ落城、その後武田家の水軍城として整備されます。

1579年、徳川家康駿河侵攻により落城しますが、翌年、武田勝頼が奪い返します。
しかし、1582年、甲州征伐に伴い家康が攻め落とし、その後、廃城となりました。

駿府城から西方への街道は、現在も山側の東海道と海側の日本坂の街道があります。
持船城は、海側の街道を抑える立地で、東海道を抑える丸子城(訪問記)とともに西方の防御として機能していたと思われます。

訪問記

持船城はJR用宗駅の北側に見える山にある山城。つまり駅近物件なのですが、、、

用宗浅間神社脇の登り口まではなんと徒歩10分f:id:tmtmz:20211030203218j:image
左手に見えるマンションの用宗駅からここまでで徒歩10分…
用宗駅に北口が無いのが悪いんだ。。。

気持ちを切り替えてここから城跡散策

デフォルメされてはいますが、丁寧なコース案内のおかげで迷う心配もなしです。
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登り道は、車1台分の狭い道プラス急坂
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細い道はちょいと距離もありますが、登ると3台位停められる駐車場完備です。
普通の土日でも結構停まってましたので、空いているかは運次第。
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城好き以外にも用がある人がいるでしょうし(意味深)

ここから少し登って城域へ。

その前に、本丸にある地図をフライングしてお借りして全体像を確認。
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下が北のこの地図で、南側に浅間山砦、北側東西に本丸と大堀切、二の丸が並びます。

もう一度駐車場に戻って海側を眺めます。

今も近くに見える海と遠くに見える伊豆半島
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ではなく足元のミカン畑が浅間山砦でした。どう行くのかはわからず本丸へ。

本丸への登り口も看板があって見落とす心配なしです。
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足元も整備されています。
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道中、古そうな石積み。特に説明もなかったのでいつのものか分かりませんが。
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登り始めて10分弱で本丸
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綺麗に整備されていて公園のよう。ベンチもあるのでピクニックもできる、かも?

石碑や
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新しそうな看板も置かれています。
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周囲に土塁はなく、眺望が良いです。解説もあって、展望台ですね。
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山側には遠くに富士山、足元には東名高速東海道新幹線
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想定侵攻元であろう西方面も見たいところですが、そちら側は木々で見えず。

周辺を見て回ります。

本曲輪北側には一段低い曲輪。腰曲輪でしょうか。
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登ってきた南面は断崖だったこともあって北側に広げたのかと思いますが、降りられないのでその先は分からず。
現地の案内にも書かれていませんし。

本曲輪西側には灯篭。もともとは観音堂が建っていたようです。
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このまま西側の二の丸へ
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相変わらず案内は丁寧。

二の丸との間には大きな堀切 ここが持船城一番の見どころかな
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下からもう一枚
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右が本丸、左が二の丸。間はどうつながっていたのでしょう。

堀切の北側に井戸跡と書かれていましたが、フェンスで囲われて分かりませんでした。
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もう一つ、二の丸も上がれず。
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果樹園になっているとも書かれていましたが、森にしか見えません。。

諦めて遊歩道どおり南側へ

相変わらず素晴らしい眺望
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ここに水軍の拠点を置いた理由がよく分かります。

こちら側にも展望台が置かれています。
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元は曲輪だったり、、、しないか。

ようやく西側の眺望が開けました。大崩海岸がきれい。
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持船城の散策はこれで終了ですが、もう少しだけ。

撮り鉄ごっこ

最初の地図に鉄道ファン撮り鉄ポイン(ト)と書かれていたのに気づかれたでしょうか。
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ここはその筋では有名な?撮影ポイントだそう。
この時も撮影されている方がいました。それで駐車場も混んでいたのか。

その筋の方の脇でまねごとをしてみました。

新幹線と富士山
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スマホ望遠では画質が物足りませんが、新幹線はタイミングばっちりじゃないですか。

調子に乗ってもう一枚。貨物列車と富士山
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こっちは電車が小さい(笑)

感想

満足度 2.5/5

整備されていて登りやすい上に、本丸と大堀切はよく分かります。
眺望を見てもこの場所の狙いも分かる気がしますし。

それ以外は入れなかったりで物足りないですが、ハイキングがてらさくっと上るにはちょうど良いのでは。

行くなら富士山が見える日が吉です。

アクセス

持船城

足利学校 (栃木県足利市) -日本最古の学校

足利氏館の後は、お隣足利学校へ。
本当にすぐ隣なので訪問しない手はありません。

日本最古の学校と言われる足利学校
落雷による建物焼失で歴史にも分からないところはありますが、今見られる姿は最古のフレーズに違わない美しいものでした。

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概要

創建は、奈良時代平安時代初期、鎌倉時代初期など諸説ありますが、少なくとも1439年には関東管領だった上杉憲実が学校を再興したことが分かっています。

全国から学徒を集め、1549年にはフランシスコ・ザビエルから「日本国中最も大にして最も有名な坂東の大学」とも称されました。

明治5年に廃校となり、一時は多くの建物が撤去されますが、保存運動により復元されて今に至ります。

訪問記

足利学校見学

足利学校は足利氏館からすぐ。ここまで来たら行かない手はありません。2回目
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この石碑がある場所はちと遠いですが。

足利学校も足利氏館・鑁阿寺と同様に、一部を堀と土塁で囲まれています。
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いつ元ができたかは分かりませんが、この姿は古のそれと大差ないのでしょう。
古い時代から学校は警備を大事にされていたのかな。

南側にある正面に回ります。

正面玄関は入徳門
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入徳とは、徳に入る=道徳心を学ぶところに入る=学校に入るという意味だそう。
勉強になります。

この先でお金を払って、入学証を手に入れます。
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お金で入学証を買うなんて響きが悪い笑

先に進むと有名な学校門
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日本で唯一学校という言葉を掲げた門。
1668年に創建された、足利学校のシンボルです。

何となく一番外にある入徳門の方がシンボルになりそうな気もしますが、こっちになったのは白壁を含めた門の雰囲気もあるのかな。

学校門の脇で土塁を横から見ることができます。
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足利氏館同様に結構な高さで。

学校門を抜けてもいきなり有名な茅葺の建物が現れるわけではありません。
木々も生い茂っていて最初はなんだか神社に来たような雰囲気でした。

まずは遺蹟図書館
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足利学校の廃校後に書物の保存のために建てられました。
今の建物は大正4年のレトロな雰囲気なもの。何となく宝物殿っぽいような。

その奥には杏壇門を越えて
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孔子廟
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その名の通り孔子を祀る廟。1668年に造営されました。
内部には孔子の座像と足利学校創始者と伝わる小野篁の像が祀られています。

こちらもどことなく神社っぽさを感じます。

孔子廟から右側へ進むと木々が減り、明るいお庭と茅葺の建物からなる、いわゆる足利学校としてイメージする区画が始まります。

主屋ももう見えているのですが、後にとっておいてまずは周辺から。

建物南側の南庭園
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発掘調査結果と江戸時代の絵図をもとに江戸中期の姿が復原されています。

主屋の近くにあるのが裏門
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通れませんが、外側からはこんな感じ
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小さいものの、茅葺で趣はあります。

そして裏門と言いつつ主屋の入り口真正面にあります。
かつては正門の学校門ではなくこちらが普段使いの門でした。

周囲を見たら建物へ。

衆寮
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僧坊または学生寮として使われていました。
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こんな感じで泊まり込みで写本していたんでしょうね

そして主屋へ

向かって右側、茅葺屋根の庫裡と2つの建物の間にある玄関
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あと左側の方丈と見えていない書院からなります。
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左側の方丈は儀式用、右側の庫裏は台所や土間もある日常生活の場でした。

この建物の中が足利学校一番の見学スポットです。

入口には宥座之器というもの
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金属の容器に水を入れて少しずつ奥に傾けて行くと水平に合うというもの
入れすぎると奥に傾いてしまうところから、中庸の大切さを学ぶものだそう。

足利学校にあった書物をもとに作られたものですし、かつてもこれで遊んだ学生さんも居たことでしょう。

内部は庫裡、方丈などすべて見学可能。
非常に広い大広間や足利学校の歴史や資料を見ることができます。
大広間では漢字試験をやっていました。卒業してまでテストを受けたくはないなぁ。。

方丈から見た北庭園
f:id:tmtmz:20210711212619j:image建物内から見る、南庭園より一つ格式高く広い庭園でした。
人が多くて正面から見られなかったのがちょっと残念。

主屋の見学を終えて、あと少しだけ足利学校の裏、北側の建物を眺めます。
こちら側は裏なので、生活感漂う建物が残ります。

木小屋
f:id:tmtmz:20210711212901j:imageいわゆる物置で、薪や日常用品、食糧などを保管していました。

土蔵
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木小屋と違って燃えたら困る貴重品を入れておく蔵でした。

入っていたものは書かれていませんでしたが、何が入っていたのでしょうか。
貴重な書物とかかな。

足利駅

最後はJR足利駅から帰路へ。
あれだけ晴れていたのに雷雲が来てしまいまして。もう一城行きたかったのですが。

仕方ないので足利駅前の機関車と
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ちょっと塗装が剥げてきていてかわいそうな。。

ちょっとおしゃれな足利駅を見て帰ります。
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北関東の夏は夕立が多いのかな。
次来るときはもっと早くから活動開始にします。

お隣足利氏館・鑁阿寺はこちら

tmtmz.hatenablog.com

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